木俣氏先祖は、南北朝合体・和睦後に、天皇の三種の神器を強奪した首謀者の一味
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「小諸藩牧野氏の家臣団」の記事における「木俣氏先祖は、南北朝合体・和睦後に、天皇の三種の神器を強奪した首謀者の一味」の解説
また別の角度から説明すると、嘉吉3年(1443年)9月、禁闕の変(きんけつのへん)がおこり、楠木正成の孫らしいといわれる楠木正秀(正秀は、正儀の子で、正勝とは従兄弟。正顯にとっては、正秀は父の従兄弟。正勝と正顯は親子にあたる)等の南朝生き残りが、天皇の三種の神器を強奪するという事件があった。 この事件後、南朝(あるいは、このときは既に、南北朝は合体していたので、後南朝とも呼ばれた勢力)の残党狩りが、一層、厳しくなった。そのためかは、史料学的には確実ではないが、楠木正顯長男の家系(川俣正重家系)は、落ち延びた先の地名である「川俣」を、表向きの姓として称し、山狭部に、しばらく隠れ住んだ。その当時、既に楠木正成・正行等の楠木氏嫡流が、相次ぐ合戦で討死し、一族郎党が壊滅的打撃を受けていたので、楠木正顯(伊勢国楠氏)家系は、菊水の血筋・血統を残すことに強い危機感を持っていたともいわれている。楠木正行が四条畷で討死にしたとき、遺児の正綱は、当時はまだ赤子であり、弟の正儀が家督を相続。正儀の子である正秀が、禁闕の変で討死にしたことにより、伊勢国楠氏は、残された楠木氏嫡流家系の1つという言い方もできる状況になっていた。 血統温存のため隠れ住んでいた初代川俣正重の娘(楠木正顯の孫娘)が、亀山市関地区の楠氏(盛仲弟・末裔か?、あるいは楠木正威が庶子の家か?)と、婚姻関係を結んで、その初代が改姓して、木俣と称したのである。「楠木」と「川俣」から、1字ずつ取れば、「木俣」である。この事実を批判的に捉えたとしても、楠木(楠)姓の男性に、川俣姓の女性が嫁いだことを、否定できるだけの史料・文献は、下記に掲載されている膨大な参考文献・引用文献の中には、存在しない。村田古伝を信用するならば、楠正威が庶子の家で亀山市関地区に拠点を持った楠氏が木俣氏の家祖である。 つまり、伊勢国楠城主楠氏から見て、本家(長兄)にあたる家系(すなわち楠木正勝の惣領家系=楠城の代官・事実上の城代家老とも指摘される家)ではあるが、表向きの姓を、川俣氏としていた家の娘が、亀山市関地区に本拠を持っていた親戚の楠氏(楠正威が庶子の家=楠から木俣に改姓した木俣氏の家祖で、楠城の事実上の一門家老のような存在。すなわち加判衆、年寄衆など)に嫁ぎ、その楠氏(関地区・木俣氏家祖)が、あらためて楠城主の楠氏(すなわち楠木正勝の庶系であると主張する家、楠木正顯の3男正威の家系ともいう家)に仕えたということである(三重県鈴鹿郡村田家文書)。 楠木正顯の2男正理(村田古伝を信じるならば、川俣正重・弟家系)は、長禄の変で討死したが、楠木正理は、楠木正顯の2男ではなく、楠木正行の嫡流5世とする説明が、熊野年代記などを根拠に、流布されている。三重県鈴鹿郡村田家文書(村田古伝)と、熊野新宮・熊野三山の歴史を伝える第一級史料といわれる熊野年代記のいずれに信憑性があるかの問題であるが、楠木正理による嫡流養子入りや、名跡継承があったとすれば、いずれも誤りとは、決めつけられない。 楠木正顯の3男正威の家系(別の川俣正重・弟家系)が、数々の疑問は残るが、やがて伊勢国楠城主となったのである。川俣氏はその後、4代に渡り、正重という名を連綿と称し、そのうち、3代は伊勢国守護の北畠氏によって楠城の代官(敵を欺くためとする村田古伝もあるが、なぜか城主は空席にされていた)に、任じられていた。村田古伝を信じるならば、4代目川俣正重の女婿が、楠城主、楠正充となった。川俣家が、楠姓で、城主となり、伊勢国楠木家(楠氏)の嫡流や、それに近い存在であると内外に知らしめてしまうと、室町幕府(足利将軍家)などの旧北朝勢力から、南朝の英雄で、カリスマ的響きが残っていた楠木氏であるため、重点的な討伐対象に、なりかねない状況にあったからである。楠城主、楠正充のころになると、戦国時代となり、室町幕府や朝廷は、弱体化して、遠国に自ら派兵する力はなくなっていた(川俣氏や、楠正充が子孫の末路については、本論から外れるが脚注に簡単な説明がある)。 室町時代、亀山市関地区住人であった初代木俣氏の母体となった楠木氏の出自に関して、その確実性が乏しくよくわからない。結論的には橘盛仲弟・末裔であるのか、それとも、楠正威の庶子であったのか、その折衷(橘盛仲弟・末裔に、楠正威の庶子が養子入りか、名跡継承をした)などが考えられる。村田古伝によると、楠正威の庶子の1人が、亀山市関地区に住し、川俣正重の娘を娶ったことになっているが、これが事実であれば、初代木俣氏は、 いとこ婚(cousincest)である。木俣氏の初代は、真っ新(まっさら)な初代であるのか、あるいは何らかの擬制の続柄を、特に持っていたかについては、確実なことは言えない。 亀山市関地区の住人であった楠氏の1人が、木俣氏となったのであれば、なぜ戦国時代後期になると、同じ北勢地区とはいえ、 鈴鹿郡から離れた土地の朝明(四日市市)や桑名に勢力を持つようになったのかが、よくわからない(勢州軍記・三重県四日市市誌)。そのうえ、三河国牛久保には、史料・文献が比較的豊富に残っている一方で、伊勢国北部(北伊勢)の一次史料は、少ないことが知られている(出典、飯田良一「北伊勢の国人領主・十ヶ所人数、北方一揆を中心として」『年報中世史研究』)。なお桑名は、文献の誤記であるとの指摘も多く(前掲の年報中世史研究など)、戦国時代後期の木俣氏は、四日市市と、その周辺だけを勢力圏していた可能性が高い。 川俣氏と、楠城主楠氏とは、一族の関係があることは、実は家系図や伝説を基礎に、その当時、続柄を擬制(養子入りや、名跡譲渡、兄弟分の契りを結んだり)したものか、あるいは後世になって系図屋や、歴史家が都合の良いように、作くったものであって、ヒントにはなっても、信じるに足らないという見方もできる。史実の世界では、血縁的関係がなかったか、血縁があったとしても希薄な関係しかなかった土豪(国人)・地侍(小領主)・大百姓等の離合集散が事実ではないかとの疑いも残る。いずれにせよ前述したように、北伊勢は、三河国牛久保と異なり、一次史料や文献が少ないので、疑えば切りがないということである。 楠氏か、あるいは自称楠木正成の流れを汲む勢力が、川俣氏を下剋上したり、屈服させて楠城を乗っ取ったのであれば、近縁であろうがなかろうが、川俣氏の娘を、人質的性格を持って、楠氏(楠木氏)の一族が娶り、その家系が木俣を称したという言い方もできる。本稿は、小諸藩家臣の木俣氏について論じることが目的であるため、これ以上の木俣氏起源に関する説明は控える。 伊勢国朝明郡(三重県四日市市北部)で根を張り、楠城の一門家老的な存在とも、云われた木俣氏は、織田信長からの圧迫のためか、木俣守時は、先祖の土地を離れて、徳川家康に仕えた(太田説は守勝が家康に仕えたという)。 近江国彦根藩主井伊氏の筆頭家老・木俣氏の家祖となった前述の守勝は、その若き日、元亀4年(1573年)ごろにおきた木俣氏の内紛・家内騒動のため、三河国額田郡岡崎から京方面に向けて出奔。浪々転々とした後、一時は明智光秀に仕えた(家禄50石)。 実は、1568年ごろから、はじまった織田信長の伊勢国侵略にあたって、伊勢国朝明郡の諸将・地侍・小領主などに対して、降伏の説得をしたのが、明智光秀であった(実際に敵地に派遣された使者は、光秀と親しい僧侶の勝恵)。木俣守勝の出身母体とされる朝明郡の木俣氏は、これを早々に受け入れて、主家を裏切っていた過去を持っていた。このため木俣守勝と、明智光秀は、守勝が、岡崎から出奔する以前から、面識か人脈があったとしても、おかしくはない。 約8年の時を経て、出奔していた木俣守勝は、徳川家康によって帰参が求められて、その旗本となった。守勝は、家康(神君)の伊賀越え や、武田甲州家臣団の取り込み等に功績があり、譜代大名である彦根藩の家臣の中には、その先祖に、かつては徳川・井伊の敵軍であった甲州武田家遺臣か、小田原北条家遺臣を持つ者が珍しくないことは、知られている。 木俣守勝は、天正18年(1590年)8月1日の関東移封時(家康の江戸城入城の日)は、家康の旗本であり、1582年の天正壬午の変(滅亡した武田勝頼の遺領を奪い合った争乱)以降に、旧武田軍団を井伊氏旗下で再編するために、井伊直政の寄騎として、派遣されていたことはあっても、守勝は、井伊氏の家老や、家臣ではなかった。その後(同年中)、家康の関東仕置きにより、井伊氏の家臣団の組み換えがあり、近江国彦根藩祖(当時の領国は、関東地方・上野国の一部にあった)井伊直政に御付人として添えられた(事実上の筆頭家老に就任)。 井伊直政が、井伊氏の家督を相続する前の井伊氏と、木俣守勝は、共に徳川家康の旗下であり、遠い先祖が南朝方という以外には、関係がなかった。よって、おんな城主・井伊直虎(遠江国井伊谷の土豪・1582年没)と、木俣氏先祖とは、直接的なつながりは、一切なかったことがわかる。
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