木俣氏先祖は、南北朝合体・和睦後に、天皇の三種の神器を強奪した首謀者の一味とは? わかりやすく解説

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木俣氏先祖は、南北朝合体・和睦後に、天皇の三種の神器を強奪した首謀者の一味

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/15 19:53 UTC 版)

小諸藩牧野氏の家臣団」の記事における「木俣氏先祖は、南北朝合体・和睦後に、天皇の三種の神器を強奪した首謀者の一味」の解説

また別の角度から説明すると、嘉吉3年1443年9月禁闕の変きんけつのへん)がおこり、楠木正成の孫らしいといわれる楠木正秀正秀は、正儀の子で、正勝とは従兄弟。正顯にとっては、正秀は父の従兄弟正勝と正顯は親子にあたる)等の南朝生き残りが、天皇三種の神器強奪するという事件があった。 この事件後、南朝(あるいは、このときは既に、南北朝合体していたので、後南朝とも呼ばれた勢力)の残党狩りが、一層、厳しくなった。そのためかは、史料学的には確実ではないが、楠木正顯長男家系川俣正家系)は、落ち延びた先の地名である「川俣」を、表向き姓として称し、山狭部に、しばらく隠れ住んだ。その当時、既に楠木正成正行等の楠木氏嫡流が、相次ぐ合戦討死し、一族郎党壊滅的打撃受けていたので、楠木正顯伊勢国楠氏家系は、菊水血筋血統を残すことに強い危機感持っていたともいわれている。楠木正行四条畷討死にしたとき、遺児の正綱は、当時はまだ赤子であり、弟の正儀家督相続正儀の子である正秀が、禁闕の変討死にしたことにより、伊勢国楠氏は、残され楠木氏嫡流家系1つという言い方もできる状況になっていた。 血統温存のため隠れ住んでいた初代川正重の娘(楠木正顯孫娘)が、亀山市地区楠氏(盛仲弟・末裔か?、あるいは楠木正威が庶子の家か?)と、婚姻関係結んで、その初代改姓して、木俣称したのである。「楠木」と「川俣」から、1字ずつ取れば、「木俣」である。この事実批判的に捉えたとしても、楠木)姓の男性に、川俣姓の女性嫁いだことを、否定できるだけ史料文献は、下記掲載されている膨大な参考文献・引用文献中には存在しない村田古伝信用するならば、正威が庶子の家で亀山市地区拠点持った楠氏木俣氏家祖である。 つまり、伊勢国城主楠氏から見て本家長兄)にあたる家系(すなわち楠木正勝惣領家系=城の代官事実上城代家老とも指摘される家)ではあるが、表向きの姓を、川俣氏としていた家の娘が、亀山市地区本拠持っていた親戚楠氏正威が庶子の家=から木俣改姓した木俣氏家祖で、城の事実上一門家のような存在。すなわち加判衆、年寄衆など)に嫁ぎ、その楠氏(関地区木俣氏家祖)が、あらため城主楠氏(すなわち楠木正勝庶系であると主張する家、楠木正顯の3男正威の家系ともいう家)に仕えたということである(三重県鈴鹿郡村田家文書)。 楠木正顯の2男正理村田古伝信じるならば、川俣正重・弟家系)は、長禄の変討死したが、楠木正理は、楠木正顯の2男ではなく楠木正行嫡流5世とする説明が、熊野年代記などを根拠に、流布されている。三重県鈴鹿郡村田家文書村田古伝)と、熊野新宮熊野三山歴史伝え第一級史料といわれる熊野年代記のいずれに信憑性あるかの問題であるが、楠木正理による嫡流養子入りや、名跡継承があったとすればいずれも誤りとは、決めつけられない楠木正顯の3男正威の家系別の川俣正重・弟家系)が、数々疑問は残るが、やがて伊勢国城主となったのである川俣氏はその後4代渡り正重という名を連綿と称しそのうち3代伊勢国守護北畠氏によって城の代官(敵を欺くためとする村田古伝もあるが、なぜか城主空席にされていた)に、任じられていた。村田古伝信じるならば、4代目川俣正重の女婿が、城主正充となった川俣家が、姓で、城主となり、伊勢国楠木家(楠氏)の嫡流や、それに近い存在であると内外知らしめてしまうと、室町幕府足利将軍家)などの旧北朝勢力から、南朝英雄で、カリスマ的響き残っていた楠木氏であるため、重点的討伐対象に、なりかねない状況にあったからである。城主正充のころになると、戦国時代となり、室町幕府朝廷は、弱体化して遠国に自ら派兵する力はなくなっていた(川俣氏や、正充が子孫末路については、本論から外れるが脚注簡単な説明がある)。 室町時代亀山市地区住人であった初代木俣氏母体となった楠木氏出自に関して、その確実性乏しくよくわからない結論的には盛仲弟・末裔であるのか、それとも、正威の庶子であったのか、その折衷(盛仲弟・末裔に、正威の庶子養子入りか、名跡継承をした)などが考えられる村田古伝によると、正威の庶子1人が、亀山市地区住し川俣正重の娘を娶ったことになっているが、これが事実であれば初代木俣氏は、 いとこ婚cousincest)である。木俣氏初代は、真っ新まっさら)な初代であるのか、あるいは何らかの擬制続柄を、特に持っていたかについては、確実なとは言えない。 亀山市地区住人であった楠氏1人が、木俣氏となったであれば、なぜ戦国時代後期になると、同じ北勢地区とはいえ鈴鹿郡から離れた土地朝明四日市市)や桑名勢力を持つようになったのかが、よくわからない勢州軍記三重県四日市市誌)。そのうえ、三河国牛久保には、史料文献比較豊富に残っている一方で伊勢国北部北伊勢)の一次史料は、少ないことが知られている(出典飯田良一「北伊勢国人領主・十ヶ所人数北方一揆中心として」『年報中世史研究』)。なお桑名は、文献誤記であるとの指摘多く前掲年報中世史研究など)、戦国時代後期木俣氏は、四日市市と、その周辺だけを勢力圏していた可能性が高い。 川俣氏と、城主楠氏とは、一族の関係があることは、実は家系図伝説基礎に、その当時続柄擬制養子入りや、名跡譲渡兄弟分契り結んだり)したものか、あるいは後世になって系図屋や、歴史家都合の良いように、作くったものであってヒントはなっても、信じるに足らないという見方もできる。史実世界では血縁的関係がなかったか、血縁があったとしても希薄な関係しかなかった土豪国人)・地侍小領主)・大百姓等の離合集散事実ではないかとの疑いも残る。いずれにせよ前述したように、北伊勢は、三河国牛久保異なり一次史料文献少ないので、疑えば切りがないということである。 楠氏か、あるいは自称楠木正成流れを汲む勢力が、川俣氏を下剋上したり、屈服させて城を乗っ取ったであれば近縁であろうなかろうが、川俣氏の娘を、人質性格持って楠氏楠木氏)の一族が娶り、その家系木俣称したという言い方もできる。本稿は、小諸藩家臣木俣氏について論じることが目的であるため、これ以上木俣氏起源に関する説明は控える。 伊勢国朝明郡三重県四日市市北部)で根を張り城の一門家老的な存在とも、云われた木俣氏は、織田信長からの圧迫のためか、木俣守時は、先祖土地離れて徳川家康仕えた太田説は守勝が家康仕えたという)。 近江国彦根藩主井伊氏筆頭家老木俣氏家祖となった前述の守勝は、その若き日元亀4年1573年)ごろにおきた木俣氏内紛家内騒動のため、三河国額田郡岡崎から京方面に向けて出奔浪々転々とした後、一時明智光秀仕えた家禄50石)。 実は、1568年ごろから、はじまった織田信長伊勢国侵略にあたって伊勢国朝明郡諸将地侍小領主などに対して降伏説得をしたのが、明智光秀であった実際に敵地派遣され使者は、光秀親し僧侶勝恵)。木俣守勝出身母体とされる朝明郡木俣氏は、これを早々に受け入れて主家裏切っていた過去持っていた。このため木俣守勝と、明智光秀は、守勝が、岡崎から出奔する以前から、面識人脈があったとしても、おかしくはない。 約8年の時を経て出奔していた木俣守勝は、徳川家康によって帰参求められて、その旗本となった。守勝は、家康神君)の伊賀越え や、武田甲州家臣団取り込み等に功績があり、譜代大名である彦根藩家臣中にはその先祖に、かつては徳川井伊敵軍であった甲州武田家遺臣か、小田原北条家遺臣を持つ者が珍しくないことは、知られている。 木俣守勝は、天正18年1590年8月1日関東移封時(家康江戸城入城の日)は、家康旗本であり、1582年天正壬午の変滅亡した武田勝頼遺領奪い合った争乱以降に、旧武田軍団を井伊氏旗下再編するために、井伊直政寄騎として、派遣されていたことはあっても、守勝は、井伊氏家老や、家臣ではなかった。その後同年中)、家康関東仕置きにより、井伊氏家臣団組み換えがあり、近江国彦根藩祖(当時領国は、関東地方上野国一部にあった井伊直政御付人として添えられた(事実上筆頭家老就任)。 井伊直政が、井伊氏家督相続する前の井伊氏と、木俣守勝は、共に徳川家康旗下であり、遠い先祖南朝方という以外には、関係がなかった。よって、おんな城主井伊直虎遠江国井伊谷土豪1582年没)と、木俣氏先祖とは、直接的なつながりは、一切なかったことがわかる。

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