木俣氏の出自と、平成26年、小諸市乙に建立された木俣家石碑(碑文)
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「小諸藩牧野氏の家臣団」の記事における「木俣氏の出自と、平成26年、小諸市乙に建立された木俣家石碑(碑文)」の解説
小諸家臣木俣氏は、牧野家中(まきのかちゅう)・小諸藩牧野氏の家臣団の中では、上野国大胡以来の家柄であり、牧野家(藩主牧野氏)の先祖と共に、三河国牛久保城から、連綿と続いた家であるとは、言い難い。 平成26年(2014年)小諸家臣木俣氏墓地(小諸市乙)改修にあたって、その子孫の1人は、大きな石碑を新たに建立した(建立者の個人名は、碑に記載されている)。その石碑に刻まれた文字は、私有地であっても公衆の目に広く触れる状態にあるため、事実上、誰でも、碑文を査読ができる。 その碑文には、「木俣家は、三河譜代近江国彦根藩筆頭家老木俣守勝家から分かれ、牧野家と共に、三河国牛久保城、(中略)、信濃国小諸藩に至る」との文字が刻まれているため、史料学並びに歴史事実と矛盾する恐れがあり、公共の利益のため、ここで名指しして、説明することにした。 従来から、知られた史料や各種文献に背いて、突如として、降って沸いたように、三河国牛久保城の歴史に、木俣氏が、本当に現れるのかが、平成26年木俣家碑文の登場で、論ずべき点となった。 実は、小諸家臣木俣氏の子孫による大きな石碑の建立に先立ち、偶然、次のような報道があった。「(彦根)木俣家は、初代守勝が家康の近臣から(井伊)直政の補佐役に付けられ、草創期から幕末まで代々筆頭家老として藩政の中心を担った。市は昨年11月に伝来資料571点を一括購入し、今年2月に市文化財に指定して整理、研究を進めている。(以上、京都新聞2013年6月7日付けから引用)。」この中には、木俣氏系図が含まれており、まもなく滋賀県彦根市の市指定文化財に指定された。 同じ事実について、書かれているものであるので、当然と言えば、当然であるが、東京大学史料編纂所蔵の木俣家文書ほかと、彦根木俣家伝来史料(伝来資料)は、その内容に重複部分が多いだけでなく、つじつまが合っている。 ひるがえって、平成26年小諸家臣木俣氏墓地(小諸市乙)に建立された碑文の内容は、東京大学史料編纂所蔵の木俣家文書、彦根木俣家伝来史料(伝来資料)、三河文献集成(国書刊行会)に収載の記事、及び小諸藩文書等とは、矛盾が認められる。 木俣家碑文(小諸市乙)は、彦根藩筆頭家老木俣守勝家から分かれと主張している箇所と、牛久保城から牧野家と共にあったことを意味する記事がある。問題となる所在の第1は、「小諸家臣木俣氏の先祖が牛久保城以来の家」であるという条件と、「木俣守勝家から分かれ」という2つの条件が、碑文通り、同時に矛盾することなく成立することは、あり得るかである。第2は、小諸家臣木俣氏は、牛久保以来の家であるとは、言い難いという事実である。 下記掲載の公的機関に、存在する史料・文献(文献目録のみ公的機関にあり、史料は私的所有の文献だが、内容を公表されているものを含む)によれば、小諸家臣木俣氏を牛久保城から牧野家と共にあった家であることを、積極的に肯定できるものは、存在しないと断言できる。また小諸家臣木俣氏が、牛久保(城)以来の家であることを、間接的に否定した文献・史料が多数、存在している。
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