木俣氏を牛久保城以来の家として処遇したとする記録が小諸藩文書に皆無とは? わかりやすく解説

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木俣氏を牛久保城以来の家として処遇したとする記録が小諸藩文書に皆無

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/15 19:53 UTC 版)

小諸藩牧野氏の家臣団」の記事における「木俣氏を牛久保城以来の家として処遇したとする記録が小諸藩文書に皆無」の解説

小諸家臣木俣氏先祖は、辛くも三河武士の定義に該当する一方で牛久保城古図には、木俣氏屋敷記載がない。それでだけではなく先祖三河国牛久保以来藩主牧野氏先祖と共に、あったほかの多く小諸家臣の家に見られるような「牛久保(城)以来家柄という事実」を説明できる痕跡が、各種文献下記掲載出典・参考文献)に、(木俣氏に関しては)、まったくと言ってよいほど存在しない木俣氏が、牛久保以来牧野氏と共になかったことは、概観としては、これだけ説明で、ほぼ決定的なはずである。これに対して小諸市乙の碑文は、その根拠については、何も明らかにていない詳細は、「木俣氏の出自と、平成26年、小諸市乙に建立された木俣家石碑碑文)」を参照のこと。 木俣氏が、三河国牛久保城以来の家であることは、あり得なかったとしても、家康三河国岡崎城以来系譜持っていたとみられ、元和年間藩主牧野氏家臣団名簿である「大胡ヨリ長峰御引越御人数帳」に木俣右衛門の名が見える。大胡在封期(1616年以前)以来藩主牧野氏仕えていた準古参である。長岡入封後に当家庶子が相次ぎ支藩などに別家召し出し新恩給付となった。また大胡城家臣木俣惣右衛門とある。 長岡家臣木俣氏は、長岡藩各種分限帳に、ほぼ100取り記載みられる馬上許され大組所属であったが、着座家上でなければ高禄支給されていたとする形跡は、まったくない。その一方で庶子たち別家召し出しを受け、牧野家中(かちゅう)に多く同姓支族を持つ特徴がある(明治維新時点長岡牧野家臣1家、小諸牧野家臣4家、三根山牧野家臣1家)。また当然のことであるが、足軽軽輩武士みられるような家を均分に割るような相続形態みられない木俣氏庶子たちが、別家召し出し多く行われた時期は、元和偃武以降平時であり、彼らに特別な武功があって召し出されたものではない。このように惣領家大きな加増がない一方で、1代〜2代の期間に多く庶子不自然に召し出しを受け、しかも庶子の1家が1代で、武功によらず惣領家より格上格式となったのは、長岡家臣では九里氏のみにみられる特異なものである。裏事情指摘する説や、推察想像される一次史料記事見て取れる近江国にあった木俣一門惣領家が、大きく出世したことが、影響されたのかもしれないが、想像の域を出ない初代木俣右衛門死亡時に残され遺児幼く実弟家督相続をして木俣右衛門あるいは重郎右衛門称して藩主分家創設に伴い与板随従遺児成長して2代目右衛門襲名し長岡家臣として連綿した。 長岡家臣木俣渋右衛門初代)の弟であった木俣重郎右衛門家は、別家召し出し1代にして与板藩抜擢家老230石)となった。これに対して木俣右衛門家が惣領家家督相続して、兄の遺児別家召し出し新恩給付となった解釈できる記事存在するが、渋右衛門通称は、兄の遺児襲名していったことは相違ない藩主与板から随従して、小諸家臣となった木俣氏の2家系が、分家の分出を各1度ずつ行ったので、小諸には木俣姓の家臣が4家あった。 与板藩家老野口氏失脚後木俣氏(重郎右衛門家)の2代目が、またも家老職就任し、この騒動で最も利益得ているので、野口氏失脚大きくかかわったものとみられる。しかし、2代目家老職就任した病気のため在職短く致仕隠居)。その後、しばらく当主幼少病身続き3代連綿して家老職とはならなかった。 武家社会幕藩体制下において、江戸時代中期ごろまでは、能力主義より、家柄先祖勲功重んじた人事が行われる傾向があったことは、歴史常識ではある。その一方で徳川御三家水戸藩主徳川氏仕えた家老の家である太田氏宇都宮氏どのように本拠地関東に移つしてから以降仕官したが、江戸時代初期に、家老家柄となった事例もある。よって木俣氏が、江戸時代初期に、与板藩家老職就任していたからといって藩主牧野氏仕えた古参の家(牛久保以来の家)であるという証拠には、ならない少なくとも名目上は、牛久保以来家柄ではなく当主幼少若輩病身続いた木俣重(郎)右衛門家は、小諸封前後は、重臣要職になく、小諸入封後は、分家の分出もおこなったため、100石から120程度家禄続き家老連綿家柄とは距離があった。 しかし宝暦年間木俣重(郎)右衛門成庸が家老職抜擢された。病身となったためか、在職期間が短かったが、ここに木俣氏は、家老職3代勤めたことで、家老連綿家柄になったとみられる持高170石)。成庸の家督相続した成喬は、重右衛門あるいは重郎右衛門称し文化2年1805年)、不始末懲戒処分受けたほか、病身となったためか、若くして致仕となり、出世しないまま終わった木俣成喬の家督相続した成績は、与板立藩以来4回目となる家老職就任して木俣右衛門成績称した木俣成積は、本藩である長岡家臣・氏(本姓真木氏)の庶流から養子入りした。 木俣成績は、班を進めて持高227石・役加増23石の計250石、家老職在職期間も10年以上に及んだ一方で文化11年1814年)、馬場町(現、古城2丁目にあった家老木俣氏屋敷火元大火になった。この罪により木俣氏押し込み屋敷内一室軟禁の意味閉門より軽い罰)の懲戒処分受けた。ただし、文化12年7月文字表紙にある分限では、火災原因として失脚したことが伺えない。このときの分限には家老木俣右衛門とあり、本藩長岡家臣である木俣右衛門家と同じ通称用いている。 大火出した家老職木俣右衛門成績は、文政8年1825年)に退役隠居して同年死亡した以後木俣氏家系から家老職は、2度と出ることはなかった。大火責任のためか、持高減石されて、家督相続認められたが、減石後も持高170石があり家老家柄であった大火のために家老家柄まで取りあげられたと断言するのは、行き過ぎである。 小諸藩では、重臣屋敷替えは、特に珍しいことではなかったが、馬場町木俣氏屋敷は、大火出したあとも、屋敷替えにならずに連綿した。 次の当主木俣多門成憲は、用人加判まで進んだ家老職となる前に病気となり、惣領(典之進成禮)を当主名代として天保14年1843年12月死亡した

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