木俣氏を牛久保城以来の家として処遇したとする記録が小諸藩文書に皆無
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「小諸藩牧野氏の家臣団」の記事における「木俣氏を牛久保城以来の家として処遇したとする記録が小諸藩文書に皆無」の解説
小諸家臣木俣氏の先祖は、辛くも三河武士の定義に該当する一方で、牛久保城古図には、木俣氏屋敷の記載がない。それでだけではなく、先祖が三河国牛久保以来、藩主牧野氏の先祖と共に、あったほかの多くの小諸家臣の家に見られるような「牛久保(城)以来の家柄という事実」を説明できる痕跡が、各種文献(下記掲載の出典・参考文献)に、(木俣氏に関しては)、まったくと言ってよいほど存在しない。 木俣氏が、牛久保以来の牧野氏と共になかったことは、概観としては、これだけの説明で、ほぼ決定的なはずである。これに対して、小諸市乙の碑文は、その根拠については、何も明らかにしていない。詳細は、「木俣氏の出自と、平成26年、小諸市乙に建立された木俣家石碑(碑文)」を参照のこと。 木俣氏が、三河国牛久保城以来の家であることは、あり得なかったとしても、家康の三河国岡崎城以来の系譜を持っていたとみられ、元和年間の藩主牧野氏の家臣団名簿である「大胡ヨリ長峰御引越御人数帳」に木俣渋右衛門の名が見える。大胡在封期(1616年以前)以来、藩主牧野氏に仕えていた準古参である。長岡入封後に当家の庶子が相次ぎ支藩などに別家召し出し・新恩給付となった。また大胡城家臣に木俣惣右衛門とある。 長岡家臣木俣氏は、長岡藩の各種分限帳に、ほぼ100石取りで記載がみられる。馬上を許された大組所属であったが、着座家以上でもなければ、高禄を支給されていたとする形跡は、まったくない。その一方で、庶子たちが別家召し出しを受け、牧野家中(かちゅう)に多くの同姓支族を持つ特徴がある(明治維新の時点で長岡牧野家臣1家、小諸牧野家臣4家、三根山牧野家臣1家)。また当然のことであるが、足軽・軽輩の武士にみられるような家を均分に割るような相続形態もみられない。 木俣氏の庶子たちが、別家召し出しが多く行われた時期は、元和偃武以降の平時であり、彼らに特別な武功があって召し出されたものではない。このように惣領家に大きな加増がない一方で、1代〜2代の期間に多くの庶子が不自然に召し出しを受け、しかも庶子の1家が1代で、武功によらず惣領家より格上の格式となったのは、長岡家臣では九里氏のみにみられる特異なものである。裏事情を指摘する説や、推察・想像される一次史料の記事も見て取れる。近江国にあった木俣一門の惣領家が、大きく出世したことが、影響されたのかもしれないが、想像の域を出ない。 初代木俣渋右衛門が死亡時に、残された遺児は幼く、実弟が家督相続をして木俣重右衛門あるいは重郎右衛門と称して、藩主の分家の創設に伴い与板に随従。遺児は成長して、2代目渋右衛門を襲名して長岡家臣として連綿した。 長岡家臣木俣渋右衛門(初代)の弟であった木俣重郎右衛門家は、別家召し出し1代にして与板藩の抜擢家老(230石)となった。これに対して木俣重右衛門家が惣領家の家督を相続して、兄の遺児が別家召し出し新恩給付となったと解釈できる記事も存在するが、渋右衛門の通称は、兄の遺児が襲名していったことは相違ない。 藩主に与板から随従して、小諸家臣となった木俣氏の2家系が、分家の分出を各1度ずつ行ったので、小諸には木俣姓の家臣が4家あった。 与板藩家老の野口氏失脚後に木俣氏(重郎右衛門家)の2代目が、またも家老職に就任し、この騒動で最も利益を得ているので、野口氏失脚に大きくかかわったものとみられる。しかし、2代目は家老職に就任したが病気のため在職は短く致仕(隠居)。その後、しばらく当主の幼少と病身が続き、3代連綿して家老職とはならなかった。 武家社会・幕藩体制下において、江戸時代中期ごろまでは、能力主義より、家柄や先祖の勲功を重んじた人事が行われる傾向があったことは、歴史の常識ではある。その一方で徳川御三家の水戸藩主・徳川氏に仕えた家老の家である太田氏・宇都宮氏などのように、本拠地を関東に移つしてから以降に仕官したが、江戸時代初期に、家老の家柄となった事例もある。よって木俣氏が、江戸時代初期に、与板藩・家老職に就任していたからといって、藩主・牧野氏に仕えた古参の家(牛久保以来の家)であるという証拠には、ならない。 少なくとも名目上は、牛久保以来の家柄ではなく、当主の幼少・若輩・病身が続いた木俣重(郎)右衛門家は、小諸入封前後は、重臣・要職になく、小諸入封後は、分家の分出もおこなったため、100石から120石程度の家禄が続き、家老連綿の家柄とは距離があった。 しかし宝暦年間に木俣重(郎)右衛門成庸が家老職に抜擢された。病身となったためか、在職期間が短かったが、ここに木俣氏は、家老職を3代勤めたことで、家老連綿の家柄になったとみられる(持高170石)。成庸の家督を相続した成喬は、重右衛門あるいは重郎右衛門と称し、文化2年(1805年)、槍の不始末で懲戒処分を受けたほか、病身となったためか、若くして致仕となり、出世しないまま終わった。 木俣成喬の家督を相続した成績は、与板立藩以来、4回目となる家老職に就任して、木俣渋右衛門成績と称した。木俣成積は、本藩である長岡家臣・槇氏(本姓真木氏)の庶流から養子入りした。 木俣成績は、班を進めて持高227石・役高加増分23石の計250石、家老職の在職期間も10年以上に及んだ一方で、文化11年(1814年)、馬場町(現、古城2丁目)にあった家老木俣氏の屋敷が火元で大火になった。この罪により木俣氏は押し込み(屋敷内の一室に軟禁の意味・閉門より軽い罰)の懲戒処分を受けた。ただし、文化12年7月の文字が表紙にある分限では、火災を原因として失脚したことが伺えない。このときの分限には家老・木俣渋右衛門とあり、本藩長岡家臣である木俣渋右衛門家と同じ通称を用いている。 大火を出した家老職・木俣渋右衛門成績は、文政8年(1825年)に退役・隠居して同年死亡した。以後、木俣氏家系から家老職は、2度と出ることはなかった。大火の責任のためか、持高を減石されて、家督相続が認められたが、減石後も持高170石があり家老の家柄であった。大火のために家老の家柄まで取りあげられたと断言するのは、行き過ぎである。 小諸藩では、重臣の屋敷替えは、特に珍しいことではなかったが、馬場町の木俣氏屋敷は、大火を出したあとも、屋敷替えにならずに連綿した。 次の当主・木俣多門成憲は、用人・加判まで進んだが家老職となる前に病気となり、惣領(典之進成禮)を当主名代として天保14年(1843年)12月、死亡した。
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