木俣氏が牛久保城以来の家であることを間接的に否定する一次史料や文献が多数存在
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「小諸藩牧野氏の家臣団」の記事における「木俣氏が牛久保城以来の家であることを間接的に否定する一次史料や文献が多数存在」の解説
平成26年(2014年)、小諸家臣木俣氏の子孫の1人は、その先祖は、三河譜代近江国彦根藩筆頭家老・木俣守勝家から分かれ、三河国牛久保城から牧野家と共に、あった家であるいう主張を含む文章を刻んだ大きな石碑を、小諸市乙に建立した。 小諸家臣木俣氏が、木俣守勝家と、同姓一門や連枝である可能性までは否定しないが、「木俣守勝家から分かれ、かつ牛久保城以来の家柄」ということを、証明できる一次史料が存在しないだけでなく、これを間接的に否定する各種文献が存在するため、問題となる。 永禄8年(1565年)、徳川家臣の酒井氏によってもたらされた降伏勧告を受け、永禄9年(1566年)5月、牛久保城が徳川家康に対して正式開城(降伏)するまでは、同城は駿府城の今川氏に属していた。木俣守時、守勝親子は、牧野氏を中心とする牛久保年寄衆を攻めた徳川に属していたため、両者は敵対関係にあったことは、疑う余地がない事実である。木俣守勝は元亀元年(1570年)に元服しているため、代表的な牛久保城における牧野対徳川戦があった永禄3年(1560年)4月や、永禄6年(1563年)3月のときは、まだ守勝は幼少であり、父の守時が、木俣氏の当主であったと考えられる。
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