文献史料
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ウナスの実在を立証する文献史料として第一に挙げられるのは、彼の名が記されている新王国時代の三つの王名表である。セティ1世治世時代(紀元前1290年–紀元前1279年)に制作されたアビドスの王名表(英語版)では、ウナスは33番目に記載されている。ラムセス2世治世時代(紀元前1279年–紀元前1213年)に作成された二つの王名表では、サッカラのタブレット(英語版)の32番目、トリノ王名表の第3欄・25番目にその名が見える。トリノ王名表はまた、ウナスの統治期間を30年間と記している。三つの王名表の全てが、ウナスは第5王朝の9代目にして最後のファラオであり、先代はジェドカラー、後を継いだのはテティだとしている。これら年表の記述は、王墓などの発掘史料によって内容が立証された。 三つの王名表の他に、プトレマイオス2世時代(紀元前283年–紀元前246年)に神官マネトが著したエジプト史『アイギュプティカ』にもウナスに関する記述があったと考えられる。『アイギュプティカ』は現存する版本が無く、後世のセクストゥス・ユリウス・アフリカヌス(英語版)やエウセビオスの著作中に佚文が残るのみである。アフリカヌスによれば『アイギュプティカ』には「第5王朝の最後の王は名をOnnosといい、治世は33年間である」との記述があるという。Onnosはウナスの名をギリシャ語表記したものと考えられ、33年という統治期間はトリノ王名表の30年間という記録と比較的符合する。
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文献史料
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 13:50 UTC 版)
詳細は「流鬼国」を参照 日本書紀には、7世紀に阿倍比羅夫が遠征の航海の途上、大河の河口で蝦夷と粛慎の交戦を知り、幣賄弁島(へろべのしま、樺太や奥尻島ではないかと言う説がある)で粛慎と戦ったと記されている。その大河を石狩川とし、粛慎をオホーツク人とする説はあるが、確証はない。 『通典』 『唐会要』、『資治通鑑』、『新唐書』など中国唐時代の記録には、2代皇帝・太宗の貞観14年(640年)、北方の流鬼国より朝貢使節団が来朝したとの記述がある。この流鬼国は、オホーツク文化人を指すのではないかという説がある。
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文献史料
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/19 02:34 UTC 版)
北海道の擦文時代は、道外の飛鳥時代から鎌倉時代後期にかけての時期に相当する。『日本書紀』にある7世紀後半(飛鳥時代)の阿倍比羅夫の航海をはじめとして、六国史には渡島(わたりしま)の蝦夷(えみし)との交渉記事が多数ある。渡島の所在をめぐってはこれまで諸説あったが、近年では北海道とみなしてよいとする意見が多い。もしその通りだとすると、渡島蝦夷は擦文文化の人々ということになる。
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