文献史料と木簡
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/13 06:52 UTC 版)
『日本書紀』によれば、孝徳天皇が大化2年(646年)1月1日に出した大化改新の詔には、五十戸を一里とし、里に里長(後の郷長)を置くとあった。また、従来三十戸から一人出していた仕丁を五十戸から一人にするともある。これらの五十戸は五十の戸という意味で、組織単位としての五十戸は『日本書紀』を通じて見えない。詔の文は後の養老律令の文と似通っており、書紀の編者が引き写した可能性が高い。書紀には過去のことを編纂当時の用語で書いた箇所が他にもあり、ここも五十戸と書かれるべきところを里に改めたのである。 『万葉集』には五十戸と書いて「さと」と読ませる箇所が3つある。五十戸、五十戸長とあるほか、山上憶良の貧窮問答歌に「五十戸良」とあるのが「さとおさ」、すなわち里長とされる。五十戸が廃止され里があった時代に書かれたもので、前代の制度が文学に残したあとである。 五十戸制を発見させ、確証したのは1970年代以降に多数出土した木簡であった。主に都に貢進物を送り出すときの負担者・差出者を記す所に五十戸があり、評の後、人名の前に位置している。後の時代に評・郡の後、人名の前に位置するのは里であり、木簡では五十戸と里が時期的に明確に分かれることから、五十戸が里の前身であることが確証された。
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