文献史学研究での活動
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1969年(昭和44年)、『史学雑誌』に邪馬壹国説を発表。1970年(昭和45年)に教職を離れ、以後研究に専念する。九州王朝説を中心とする独自の古代史像を提示し、学界の通説に再検討を迫る。 このなかには神武天皇実在説など「記紀」の内容を信用したうえでの説があるため釈古派や右翼とも言われている。また好太王碑の改竄否定説を主張。1985年には自説を証明するために好太王碑の現地調査を行い「碑文に意図的な改ざんは認められない」と結論付けるなど、自説証明のために積極的に活動したため学界からも一定の評価を得た。古田の論文は史学雑誌や史林にも掲載されたこともあり学会の注目を受けたほか、初期はマスコミからも取り上げられることは少なくなかった。 それにより、多くの支持者・賛同者を集めるとともに、自説を巡って安本美典など多くの研究者と論争を繰り広げた。一時は高校教科書の脚注に仮説(邪馬壹国説、また親鸞研究時代の内容)が掲載されたこともある。賛同者・読者の会として「市民の古代研究会」が組織され、1979年(昭和54年)より雑誌『市民の古代』が刊行された。 親鸞研究でも注目を集め、1975年(昭和50年)に偽書説が定説であった三夢記の真作説を唱え、学界での論争のキッカケとなった。1979年(昭和54年)度、龍谷大学文学部非常勤講師。1984年(昭和59年)4月より1996年(平成8年)3月まで昭和薬科大学(文化史研究室=歴史学)教授。
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