平田家時代
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1868年(慶應4年)に、初代平田佐次郎が伊勢湾を中心とする漁網の製造販売を目的として四日市市富洲原地区の富田一色の自宅に製網工場をつくり「平田商店」(平田漁網商店を開業)を創業した。 1889年(明治22年)から1890年(明治23年)頃には、四日市市内の東洋紡績の前身の三重紡績が新たに綿撚糸を製造を始めた事から、平田紡績の前身の平田商店は漁網の原糸とした。これまでの製網業での画期的な原料革命であり、編網機の開発と共に大量生産が可能となった。 明治末期の明治40年代に入ると富田一色塩役運河沿いの松原西元町塩役に漁網工場を設置して、ロシア(ロシア帝国)・イギリス(大英帝国内のオーストラリア・カナダ・ニュージーランド)・フィリピン・デンマーク・ポルトガルへの漁網の輸出をはじめた。1909年(明治42年)から1910年(明治43年)頃には、ロシア向けの漁網輸出が最盛期に達した頃には、綿糸網が小包として毎日約1000個も送り出された。 伊勢国四日市を中心とする漁網産業の開始は江戸時代の末期である。背景は麻を使用した製網が富洲原地域で盛んであり、江戸時代に行われていた近世期の家内工業から綿を使用した工場制の工業形態へと変化した事である。主要生産地は富田地域・富洲原地域である。富田・富洲原は日本の水産業を支える漁網生産の拠点であり、富田・富洲原の生産額は、3大産地の北海道を抜き、愛知県と並んで全国1位~2位を争うほどであった。昭和40年代に200海里(カイリ制度の創設)宣言や漁業の衰退で苦しい経営となった。 製網が盛んになった歴史として、伊勢湾で漁業が盛んで、鰯漁業の時期に漁網の需要が高かった事を背景に四日市地域の漁網製造は幕末に初代平田佐次郎が創設した平田紡績によって富田地域・富洲原地域を中心に製網業が発達した。明治時代の漁網は、極めて幼稚な、全部麻糸を原料とした「手結網」で地元の人々中心の手工業に頼っていたため、品質がそろわず粗悪であったが、1882年(明治25年)に綿糸漁網が生産されるようになった、 初代平田佐次郎が海運業していた事から富洲原で盛んだった麻から生産する製網産業が儲かる事に気づき、1868年(慶応4年)漁網の製造販売を目的に麻屋である<平田漁網商店>を刻苦精励して創設をした。1894年(明治27年)から1895年(明治28年)頃から綿糸を原料とした漁網の生産をする綿網業を追加して、麻糸を買い入れては富田地域・富洲原地域周辺や桑名地方の住民に配り、麻糸や漁網の生産をはかった。製網会社であった「平田商店」は綿花を原料として紡績部門を新設して総合繊維企業の平田紡績となるまで発展した。 明治時代になり、近代化で 漁網生産は問屋制家内工業の形式を導入した。富洲原の漁網問屋は稲葉三右衛門が開発した四日市港に陸揚げされた麻糸で富田・富洲原・桑名の家内工業者に「手すき網」 を賃しだして加工したが生産性は低かった。 漁業が盛んな時期になると、購入量が急増して売り切れてしまった。2代目平田佐次郎の時代に平田紡績は原料を麻から綿糸に切り換えることにより、機械編網の研究開発が行われ、明治30年代には編網機を導入して工場制工業形態へと変化をした。明治40年代にドイツのイッツエホニー式やフランスのボナミー式・ザング式などの蛙股編網機に研究が進んで1910年(明治43年)に設置導入した。3代目平田佐十郎がドイツから動力式蛙股編網機を導入した。 大正時代には編網機が動力化され、平田紡績で製網が大量生産されて工業化の時代を迎えた。1937年(昭和12年)には四日市港からの輸出総額のうち、漁網は陶磁器に次ぐ22%を占めていた。 富田地区・富洲原地区は、日本の水産業を支える漁網生産の拠点で、生産量は、 愛知県に次いで全国第2位である。 大正時代に平田商店が躍進して、1912年(大正元年)に組織を改めて資本金5万円の平田製網合名会社を設立し、1918年(大正7年)2月に 旭製網株式会社と改称して資本金を20万円に増資した。 大正時代には以下の設備体制であった。 本目編網機220台 手動式蛙股編網機250台 動力式蛙股編網機2台 男女工員430人 分工場工員190人 生産高55万円 1918年(大正7年)3月1日が、平田紡績の株式会社の創立年月日となり、同日に資本金30万円の平田製網株式会社に改組した。その後平田製網の漁網生産が伸びて、輸出が拡大した1922年(大正11年)ごろには、従業員も増加して、女子だけで352人を数えて、川越村の若者も多くいた。1927年(昭和2年)には紡績事業に手を広げて、川越村高松地内に工場が増設された。東北方面から女子従業員が多く働きに来たが、寮生活の女子従業員の購買力を目当てに、昭和初期に三重郡川越村天神町商店街が形成された。工場の機械設備の拡充に伴い、川越付近の男子従業員の雇用機会も増加した。 1926年(大正15年)5月に資本金を100万円にして、事業対象を製網業単独から紡績部門を増設して製網業と紡績業を兼営して、2代目平田佐次郎から相続した平田佐矩が平田製網(富洲原平田家当主と平田紡績)の第4代社長となった。麻糸漁網から我国初の綿糸から網への一貫製造販売を行なう。全国でただ一つの紡績までの一貫作業体制を確立した。漁網の原糸はこれまで外部から買っていたが、品質の均一化とコストの低減を図るために自社内に紡績部門と持った方が良いと判断からだった。 三重郡富洲原町一帯の土地を製網工場用地にする事として、天ヶ須賀本町の田畑を買収して工場敷地にあてた。紡績部門の設備は大正時代の平田製網設立当初は1万3000錘だったが、1938年(昭和13年)6月に増錘して<平田紡績株式会社>と改称して、10万錘まで拡張された。平田製網の漁網生産高に戦前において全国一を誇っていた。合成繊維(ナイロン糸)を全国で初めて導入して日本全国の漁網生産のシェア(35%)を占めた。 1938年(昭和13年)に豊田自動織機製作所(豊田自動織機)と藤田製作所と共に、企業が所在地する愛知県と三重県の一文字を取って愛三工業の出資企業となる。 その後、戦時中の1943年(昭和18年)4月に、国策で企業整備が実施されて、紡績設備は撤廃されて軍需工場となり平田漁網製造株式会社と改称した。1944年(昭和19年)には漁網工場も中島飛行機製作所に接収されて、終戦まで航空機の油圧系統の配管接手部品を製作する中島飛行機四日市第1工場として使用された。当時の従業員数は2500人であった。中島飛行機の軍事工場供出で会社の名称と略称を以下に変更した。 1945年(昭和20年)7月に平田紡績の漁網工場を接収していた中島飛行機株式会社四日市工場が建設していた三重郡川越村高松地区の社宅が米軍のB29の爆撃を受ける。八軒茶屋(爆弾茶屋)と云うが、戦後に設計を変更して住宅にして平田紡績の社員に賃与して、その後分譲して一般住宅地となった。2発の爆弾の穴は子供が遊ぶ池となったが、1953年(昭和28年)ころに埋め立てられた。 →略称の平田紡績から変更して以下とした。 →略称を平田製網に名称を変更した。
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