平田増宗暗殺とは? わかりやすく解説

平田増宗暗殺

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/02/12 17:14 UTC 版)

桐野九郎左衛門尉」の記事における「平田増宗暗殺」の解説

1610年慶長15年)に清敷郷地頭で琉球王国遠征副将でもある平田増宗謀叛企んでいると聞いた藩主島津忠恒は、歴戦武将である押川強兵衛に増宗暗殺命じた。増宗は、かつて先代藩主島津義久外孫に当たる島津忠仍後継推したことがあった。忠恒の後継が決まると、忠仍擁立には無関係釈明したものの、忠恒との間に遺恨残った。そのため、忠恒は増宗を始末する機会狙っていたのであるその道案内として入来行司山の案内に詳しい九郎左衛門尉着けられた。6月19日押川強兵衛が土瀬戸越現在の入来峠付近)で平田増宗射殺する。忠恒は7月7日付の父・島義弘の手紙で「為何者之仕哉(何者仕業か)」と事件無関係装っていたが、のちに桐野銀子拝領され、鹿児島城下の御里内へ召し移され切米10石が下賜された。なお、忠恒の増宗一族粛清その後続き1634年には琉球逃れた最後一人処刑されている。 増宗暗殺後九郎左衛門尉の子・源之丞は母方の姓を称して中村氏名乗り、のちに中村与兵衛称すという。「本藩人物誌」の作成されたときの子孫は中村右衛門という。また、樋脇村史前編」では九郎左衛門尉始め永野にいて清敷に移り1614年10石の采地を賜って、次男の源之亟と鹿児島城下に移り、後に清敷に戻るという。長男宮内左衛門といい、その子孫脇郷に居住して桐野姓を称し次男の源之亟は鹿児島城下に住んで母方中村氏称したとしている。宮内左衛門家と桐野利秋家という略系図が「さつまの姓氏」に紹介されている。

※この「平田増宗暗殺」の解説は、「桐野九郎左衛門尉」の解説の一部です。
「平田増宗暗殺」を含む「桐野九郎左衛門尉」の記事については、「桐野九郎左衛門尉」の概要を参照ください。

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