反転の動機
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栗田は、反転の決断について「その日に受けた攻撃状況や、われわれの対空砲火がその空中攻撃に対抗できないという結論から、もしこのままレイテ湾に突入しても、さらにひどい空中攻撃の餌食になって、損害だけが大きくなり、折角進入した甲斐がちっともないことを私に信じ込ませた。そんなことなら、むしろ、北上して米機動部隊に対して小沢部隊と協同作戦をやろうということに追いついてきた」と語っている。反転の動機は艦隊決戦思想から出たものかという質問に対して、「いや、輸送船も叩かねばならぬと思っていました」と答えている。南西方面艦隊からの発信とされる北方機動部隊電報により反転したことについて「そのときの心境というものは、あとで考えてみても良くわからんものがある」「あの電報がなかったら、まっすぐレイテに行ったでしょうね。とにかく、ですよ。敵情はさっぱりわからん。それで、まだこっちにはこれだけ兵力が残っている。一方、レイテに行っても収穫は期待できない。そういうとき、敵がいるという電報がはいった。それじゃあ、ということになったわけですね」「あとから考えれば、ですがね。何だって見えもしないものを追って、……それも飛行機もないし、向こうもスピードを上げて逃げ回るのに……いってみれば、ハエタタキも持たずにハエを追うようなものじゃないか、といわれると、ちょっと困る」と語っている。また、「あれは三川が打ったんだよ。三川の電報だったので、俺は北へ行ったんだよ」という。「あれは偽物だったという話もあるようですが」と質問すると、不機嫌そうに答え、30海里なら追尾が可能で、当時相対したばかりの南方の敵部隊は雑魚だと思っていた旨を述べている。 9時11分追撃を中止しヤヒセ43に部隊集結を命じたことについて、GHQ参謀第2部歴史課陳述に栗田は「部隊に集合を命じたのは、レイテ湾突入の主目的達成を考えたからである。敵機動部隊は二時間以内に戦場に到着するという敵側情報も、当面の戦闘を早目に切り上げた理由の一つであった。当時、第一戦隊は敵魚雷回避のため針路北で航走したので、前方に進出していた軽快部隊と隔在し、かつ有効な敵の煙幕展張とあいまって敵情はほとんどわかっていなかった。したがって集合を発令しようとした直前のことであるが、第十戦隊から『我突撃に転ずる』むね電報があったので、その攻撃の終了の頃あいを見はからって、〇九一一集合を命じたのである」と答えている。 1955年、元海軍記者・伊藤正徳の取材で、栗田は反転の動機について、「あの時は非常に疲れていた」と語っている。パラワン水道にて最初の旗艦の愛宕が沈没した為、艦隊司令部要員は重油の漂う中を予備の旗艦に指定されていた大和に向けて移乗する事態に陥った。その後も戦闘が続き、サンベルナルジノ海峡を通過した際には夜戦を覚悟していた。そのためサマール島沖海戦後に反転を行った際、栗田をはじめ第一遊撃部隊司令部は連日休む暇も無かった。 この取材で栗田は「その判断も今から思えば健全でなかったと思う。その時はベストと信じたが、考えてみると、非常に疲れている頭で判断したのだから、疲れた判断だということになるだろう」と語り、伊藤に「そんなにつかれていたのか」と問われ、「その時は疲労は感じていなかった。しかし、三日三晩殆んど眠らないで神経を使った後だから、身体の方も頭脳の方も駄目になっていたのだろう」と答えた。「情報を手にして幕僚会議を開いて反転退却した真相は」と問われ、「その時は退却という考えはない。幕僚とは相談しなかった。自分一個の責任でやった。情報の正否を確かめる暇もなかったが、要するに敵の機動部隊が直ぐ近所にいると信じたのが間違いだった。(中略)いくら追っても捕まるわけはないのだが、それを捕捉して潰してやろうと考えたのが間違いだった。何しろ敵空母撃滅が先入観になっていたので、それに引摺られた」と答えている。(ただし、第二艦隊参謀長であった小柳冨次は、1945年10月24日、GHQでの陳述にて、栗田中将は幕僚会議で十分意見を述べさせたのか、それとも自分一人の所信で命令を下したのかをJames.A.Field予備少佐から質問された際、幕僚会議を開いて、決定は全員一致であった旨を回答している。) ただし、伊藤の取材について栗田は不満を述べている。栗田は「あの男は、もう二〇年も会わないでいたとき、(伊藤と栗田は水戸中学の同期生)ひょっこりたずねてきて、じつはねえと聞くんだ。(中略)ノートもなにもとらずに、それでいて私のいったことはみんな書いている(中略)。疲れていたっていったのは、自分はちっともくたびれというものは感じていなかった。しかし、あの電報(南西方面艦隊電)をもっと分析して発信者、時間などを研究すれば、インチキと分かったかも知れない。そこまで頭がまわらなかったのは、自分ではそう思わなかったけれど、あるいはくたびれていて判断を誤ったというようなこともあったかも知れん、とそういう意味ですよ。これはだれにでもあることでしょ」と語っている。 作家の大岡次郎(海兵78期)は酒席(1970年頃)において栗田から「本当のことを話す。疲れていたというのは、言わされた。戦闘中に疲れることは決してない。戦闘中に疲れてしまう者に司令官を努める資格などありはしないのだ」と聞いたという。黛治夫海軍大佐は「疲れて判断を誤るということは絶対にないね。三日三晩、一睡もしないということは戦前の訓練でもよくあったことだし、まして戦闘情況の中では疲れを覚えるどころか、頭はますます冴えてくるものだ。事実、レイテへ行ったときのわたしはそうだった」と述べている。反転について正しかったとする立場から論じた際に、世間の風当たりを考慮して、疲労説を誘導するような状況があったという伝聞もある。作家の半藤一利は、この発言を引き出したのは伊藤の著書の出版を記念した伊藤宅での天ぷらを食す小パーティであったとして、栗田を嘘つきと主張している。また、栗田艦隊が反転を「事実を捏造して隠蔽するため」と主張している。 シブヤン海海戦後に反転した際、大谷作戦参謀発案のアメリカ軍に対する欺瞞として、栗田艦隊司令部は二四一六〇〇電で「今迄の処航空索敵攻撃の成果も期し得ず。逐次被害累増するのみにて無理に突入するも徒に好餌となり、成果記し難し。一次敵機の空襲圏外に避退、友隊の戦果に策応進撃するを可と認む」と発信した。これは味方にも完全な避退と解釈されやすい文面である。栗田は「少しくどかったね」「部隊が反転後敵の空襲は絶えたので私は速に、「サンベルナルヂノ」海峡の入口に到る予定で反転を命じた。幕僚の中には連合艦隊からの返電を待つべき意見もあったが私は断乎(だんこ)反転前進の方策を執ったのである。此の時参謀長から「又行くのですか」との反問を受けた事は今でも明瞭に記憶している」という。戦後に第一回フィリピン方面海上慰霊巡拝団に参加した際、戦艦武蔵信号部先任下士官だった細谷四郎に対し、「北方ニ敵大部隊アリ」は陸軍索敵機がサマール沖の栗田艦隊を米機動部隊と誤認し、陸軍司令部を通さず大和に直接送信してきたものだと語ったという。レイテ沖海戦の反転の原因になった電報を栗田の頭の中に存在した幻想とする主張もある。 大和主計長で当時艦橋にいた石田恒夫少佐によれば、「参謀長、敵は向こうだぜ」という宇垣の指摘に対し、栗田は「ああ、北へ行くよ」と答えたという。大谷藤之助参謀が「参謀長、回れ右しましょう」と進言し、小柳富次参謀も同様に栗田に進言、栗田が頷いた瞬間、宇垣が振り向いて「参謀長〜」「北へ〜」のやりとりになったという。このやり取りから「宇垣は港湾突入すべきだと思っていた」という主張もあるが、栗田艦隊がサマール沖海戦を終えて南下を再開した直後、大和の見張り員から「北東方面に数本のマスト発見」という報告が上がり、第一戦隊の末松虎雄参謀も確認したので宇垣第一戦隊司令から「北東の敵を討つべく直ちに反転すべき」という意見具申もでたが、栗田はレイテ湾への進撃を継続させたという主張もある。 この直後、「ヤキ1カ」電の報告があり、第二艦隊司令部は南下を止めて北上する決断をした。宇垣のこの発言は先程の決断を直ぐに翻した艦隊司令部の判断を不満に思い「参謀長〜(北にいた敵よりも港湾にいる敵を優先するのではなかったのか?)」の発言へとなった。石田少佐によれば、宇垣の「参謀長、敵はあっちだぞ」に対し、栗田は「いや、貴官の進言通り、北東の機動部隊に向かう」と答え、栗田は宇垣の進言も考慮して反転北上したとしている。大和副砲長として艦橋にいた深井俊之助は戦後、宇垣が「南へ行くんじゃないのか」と言いながらプリプリしていたと証言している GHQ参謀第2部歴史課陳述にて、栗田は「小沢部隊が敵の快速空母の全グループを北方に牽制しつつあると云ふ情報はその片鱗すらも私の耳に入らなかった。今でも明瞭に覚えてゐる事は二十五日夕、部隊がサンベルナルジノ海峡に入る前、小沢部隊の戦況を報ずる電報を見た。私はこのとき、折角の小沢部隊の奮戦であるけれど今となってはもう時期遅れだと思った。大和の戦闘詳報によると一二時過ぎと一四時過ぎに小沢部隊の電報を受領してゐるが、私は部隊がレイテ湾突入を中止した前後にこのやうな電報は聞いた記憶がない」と証言している。一二三一電機動部隊本隊戦闘速報を大和で14時30分に受信し、内容は小沢艦隊が空襲を受けている事を述べていたが、その時栗田は「この電報が、いままで私のところへとどかなかったのはどういうわけか。着信してから、なぜこんなに遅れたのか。まだほかにないか」と言ったという。
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