反転に関する議論
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/04 10:13 UTC 版)
作戦目的である敵上陸部隊の殲滅に向かわず、反転を指示した事について、海戦直後から現在に至るまで様々な議論がある。非難の二本柱は、「栗田艦隊をレイテ湾に突入させるために犠牲となった陸海軍双方の多大な将兵の死を無駄なものにし、自分は生き残った」というものと、「絶対である(突入の)命令を守らなかった」というものである。特に小沢機動部隊の犠牲は栗田艦隊の反転によって全く無意味なものとなってしまった。反転については、栗田の臆病さ、または栗田の根本的無能力、つまり栗田は「戦略不適応」あるいは「作戦全体の戦略的目的と自分に課せられた任務とを十分に理解していたとはいえなかった」などの批判がある。これに対し、「栗田は作戦の目的や任務を理解していなかったのではなく、作戦と任務そのものに反対していた」と擁護する意見もある。また机上の論理を現場に押し付け、十分なバックアップを行なわなかった連合艦隊の責任が大きいとする意見もあり、海戦直後に書かれた大淀の戦闘詳報にもそうした指摘がある。一方で、反転の判断自体は正しい選択であったという主張もある。 野村実大尉は「栗田の反転は独断専行であったが正しかったとは言えない」としつつ、同時に「栗田は逃げたのではない」と述べている。「大和」艦橋で栗田の判断を見ていた石田恒夫(レイテ沖海戦時、大和主計長)は、「レイテ沖の反転は敵を求めての反転であり、長官の自信ある用兵、決断による作戦行動であったことは、かの激しい戦場にあった者のみ知るところでありましょう」と栗田の葬儀で述べている。小板橋幸策元海軍上等兵は、レイテに向かうまでの途中でシブヤン海や、サマール沖での戦いなど様々な不確定要素などもいろいろ加わった結果、弾薬や燃料の消耗も著しく、各艦艇の燃料消費量も考えた上での反転ではなかったかと語っている。アメリカ戦略爆撃調査団がレイテ沖海戦他について118問に渡って行った質問、及びその数年後GHQ参謀二課が行った聞き取りで、当時第三艦隊長官だった小沢治三郎は、海戦の計画の精緻さと頓挫について聞かれた際「あの場合の処置としては他に方法がなかった」と発言している。 栗田本人は批判に関して、「戦略も戦術も全然無視した問題だから、それをわれわれがやったことに戦術がどうだこうだといわれては、困る。私にも、あのときレイテに行ったほうが良かったと考えることはできる。しかし、それはあとから考えて、あのときマックがいたからとか、まだ輸送船の荷揚げが終わっていなかったからとか、だから突入したほうが良いという意味じゃないんです。つまり、当時の事情としてあの電報を信じてひき返したことが大きな作戦の齟齬をきたした。そういえるなら、電報がなければむろんのこと、あっても信じずにそのまま中にはいっていけば、これは大きな戦争目的にかなうというか、命令そのままを守ることになる。そうなれば、これは全滅してもですよ。一人も残らなくても、気持は安らかに眠れる。恐らく西村も同じ考えだったでしょう。突っ込めば助かりっこない。といって、敵を屈服させる力もない。それじゃ、逃げるかといえば、逃げたって自分にも国家にもなんの効果ももたらさない。しかし、突っ込めば、少なくともそのうちはいってくる私のほうの助けにはなる。少し早いけどやってしまえ……そんな胸のうちだったかもしれんと思います。敵情はわからない。どんな大物がいるかも知れぬ。そういう場合、敵とぶつかって全滅してしまえば、それで問題はなくなる。しかし、一隻のこったら、やはり命令は命令だから、その一隻でも行かなければならんのか。自分がやりもしないで……という反駁はしませんよ。しかし、結局は、こりゃあ命令違反かどうかということは裁判にかけないとわからんでしょうね」と語っている。 レイテ沖海戦中に起こったシブヤン海海戦後、一時反転した際、欺瞞を成功させるため、再反転報告を行動開始後数時間遅れて連合艦隊司令部に発信したが、連合艦隊司令部と小沢艦隊、栗田艦隊の行動の連携不足の一因として論議の対象になることもある。 パラワン水道を直進した件について栗田は、「パラワン水道を行かずに、西方の南沙諸島をまわれば、その付近には岩礁が多いので、敵潜水艦が出没せず、安全であることがわかっていました。だが、そうすれば、1日遅れるのです。その時間がなかったのです」と語っている。
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