反軍政闘争、民政復帰以降とは? わかりやすく解説

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反軍政闘争、民政復帰以降

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/12 18:06 UTC 版)

チリ社会党」の記事における「反軍政闘争、民政復帰以降」の解説

その後軍政対す闘争方針巡り1978年に、共産党との共闘優先し武装闘争容認するアルタミラーノ書記長派(左派)と、キリスト教民主党など中道勢力との共闘重視するアルメイダ外相派(右派)に分裂した。アルタミラーノ派は、1983年9月共産党革命的左翼運動と共に人民民主運動MDP)を結成一方アルメイダ派は、キリスト教民主党急進党社会民主党など共に、民主同盟AD)を結成それぞれ別個に反軍政の運動進めていった。しかし、1986年以降軍政側との対話通じて民政回復進め穏健派が力を持つようになる中で、これまでのマルクス・レーニン主義放棄し1989年12月再統一した。以来、コンセルタシオンの一員として活動している。なお、同じくコンセルタシオンの一員である「民主主義のための政党」(PPD)は、社会党右派一部ヌニェス派)が結成した政党で、二重党籍認められているため、社会党党籍がある人たちも参加している。 2009年12月大統領選挙ではコンセルタシオン加盟政党キリスト教民主党エドゥアルド・フレイ支持したが、同年6月12日PS離党したエンリケス=オミナミ下院議員無所属立候補したことで票が割れ2位留まり、翌2010年1月決選投票セバスティアン・ピニェラ候補変革のための同盟)に敗れた。この選挙でコンセルタシオンのフレイ候補敗北した責任を取る形で、1月23日にカミロ・エスカロナ党首やイザベル・アジェンデ副党首など党幹部辞任表明し、フルビオ・ロッシ下院議員暫定的党首就任したその後8月21日に元労働大臣のアンドラデ(Osvaldo Andrade)が新党首に就任した。アンドラデ党首ピニェラ大統領対抗するため、コンセルタシオンの改革左派傾向強める必要を主張したが、同連合枠外にある政党との連携については否定した2013年11月第1回投票)と12月決選投票)に行われたチリ大統領選挙では、野党による政党連合新多数派」(Nueva Mayoría)に参加新多数派大統領候補となったミシェル・バチェレ大統領支援大統領選第1回投票同時に実施され上下両院選挙では、上院6議席改選前5)・下院15議席(同11)をそれぞれ獲得した2015年4月党内選挙が行われ、新体制となって初め行われた5月党中央委員会3月まで上院議長務めていたイザベル・アジェンデを新たな党首選出した

※この「反軍政闘争、民政復帰以降」の解説は、「チリ社会党」の解説の一部です。
「反軍政闘争、民政復帰以降」を含む「チリ社会党」の記事については、「チリ社会党」の概要を参照ください。

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