初動対処の遅れ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 06:18 UTC 版)
兵庫県からの自衛隊への災害派遣要請が、発生後4時間以上も後であったことは前述の通りであるが、地元選出衆議院議員・高見裕一(新党さきがけ議員)も神戸市東灘区住吉山手にいて、JR住吉駅まで歩いて行き被災状況を直接目にしていた。県知事からの派遣要請がなされていないことを知った高見議員は、携帯電話で東京の議員会館にいる秘書を通じ、8時40分に防衛庁に緊急要請を行ったが、東京では「“大げさだ”」「非公式」「未確認情報」との認識しかされていなかった。高見議員は、さきがけ代表・武村正義大蔵大臣、社会党の五島正規衆議院議員にも8時30分に電話で連絡し、社会党の土井たか子衆議院議長に連絡をとろうとしたが、不在で秘書に連絡した。折り返しの連絡はなかった。 初動対処が遅れた原因として左翼的思想の影響を指摘する論評もあった。批判で指摘されたのは、社会党の反自衛隊思想、被災地である兵庫県をはじめ京阪神地域が革新勢力の票田であること、社会党を支持している全日本自治団体労働組合(自治労)の影響などといった主張だが、憶測やこじつけも多い。『産経新聞』は1月28日、1面コラムにて社会党が野党時代に自衛隊の廃止を誓ったことを挙げて批判した。国内の批判は日系資本の英字紙 や海外メディアでも伝えられた。内容的には初動期を通り越して復旧に着手するまでの期間全体を対象としたもの もあれば、自衛隊への出動命令や発生から数日間の首相のリーダーシップの問題に重きを置いた内容もある。ただし地震発生当時の内閣は自社さ連立政権下にあり、日本社会党は自衛隊を合憲と認めていた。また小沢潔国土庁長官と後に震災対策担当相に任命された小里貞利もいずれも自由民主党所属の国会議員であった。当時運輸大臣だった亀井静香は「自衛隊出動が遅れたのが社会党政権だからだと批判されたが、それは当たらない。まず自衛隊を認めていたし、運用する大臣は自民党で固めていたからだ。すぐに自衛隊を出動させようとしたが、残念ながら、当時法的には自治体から要請がないと出ていけなかったため、待機させることになった。実際の出動は、要請が来てから、午前10時になってしまったのだ。当初、復興計画は、おおよそ4年、早くて3年は難しいと思われたが、村山さんは「ただちに復興だ。金に糸目はつけない。2年計画でやる」と言った。これにはみんなびっくりした。それだけではない。「復興にあたっては元の港にするのではない。新しい大型の港にする。」と村山さんは言った。壊れたものを元に戻すのではなくもっといいものに作り変えてしまおうというのだ。村山さんは、担当をすべて任せて、責任は自分が取るという覚悟を持っていた。その後の復興ぶりを見れば村山さんの功績は明らかだ」 としている。 村山元首相は、1997年(平成9年)8月に行われたインタビューにて次のように述べた。 山川「たとえばアメリカの市会議員や神戸市の市会議員の場合、私たちの調査によると、かれらが選挙のことをかなり強く意識して行動したことが明らかになっています。それは政治家としては当然だと言えようかと思いますが、先生の場合は、いかがでしたか?」村山元首相「私は選挙のことを全く考えなかった。また考えるべきではないと考えていた。首相としての仕事に全力を投入するべきだと信じていました」 山川「(中略)たしかに危機管理の目的は、第一義的には、たしかに住民・市民を救済することで、政治的な目的とは区別されなければならないでしょう。しかし、言葉は熟しませんが、シンボリック・ユース・オブ・パワーといったようなことがあるのではないでしょうか。つまり、首相のような、権力を持った高い地位の人の行動が、国民に印象深い、象徴的で暗示的な作用をおよぼすということ。その行動から、被災者のことを親身に心配してくれているのだな、と国民が直感的に理解するような行動。そこから生まれる首相と政府への信頼感。その信頼感が首相をささえる与党の選挙における支持につながり、得票数を増やす、ということがあっても構わない、と思うのですが……」 村山元首相「まあ、そういうこともあったかも知れません……。被災地での両陛下のお見舞いの態度のご立派なことに本当に感服しましたが、私の場合は、現地に行って被災者をお見舞いしたとき、どうもマスコミ関係者たちの雰囲気がよくなくて、なんだか苛々した感じを味わったことを思い出します……。訪れた避難所が板敷きで、被災者の皆さんが椅子に腰をかけておられたので、中腰でお見舞いの言葉をかけたところが、新聞などで『高い姿勢だった』と報道されたりして、難しいものだと感じた、というようなこともありました……」 — 山川雄巳「阪神・淡路大震災における村山首相の危機管理リーダーシップ」『関西大学法学論集』47巻5号 1997年12月 2006年(平成18年)に『大分合同新聞』が大分大学と共同で行った連載企画「明日を守る―防災立県めざして―」では、責任について次のように語っている。 被災地との通信網が途絶え、誰も情報をつかめなかった。当時、官邸には二十四時間体制で、災害や事故に対応する機能もシステムもなかった。アメリカのように、人口や地形、産業の分布などからコンピューターで地震被害を想定し、対応する仕組みもなかった。国の行政としては人命の救助が第一。官邸がいち早く被害を把握し、手を打っていかねばならないが、あのような大地震が起きることは想定してもいなかった。突発的な大災害に、緊急対応できる行政の仕組みそのものがなかった。初動対応が遅れた、と責められても弁明の余地がない — 「明日を守る-防災立県めざして- 第5部 行政の役割 当時首相 村山氏に聞く」『大分合同新聞』 村山元首相は2012年に出版した回顧録で次のように述べた。 あの地震があった時、僕は公邸にいて朝六時のNHKのニュースを見た。トップニュースは山花氏が国会の会派を出るというニュースだった。神戸の映像は映ってなくて、地震のあった京都など二~三か所が報道されていた。震度は5とか6とかいっていた。神戸の方が被害は大きかったのだが、通信機器が壊れて連絡ができなくなっていたためか、ぜんぜん情報が入ってなかった。僕はすぐに京都の知人に電話したんだが、「震度は大変大きかったけど、幸い被害はなかった」と言うのでそれはよかったと言って安心した。そしたら、しばらくして災害を担当する秘書官から電話があった。(中略)「神戸の方で地震がありました。大変大きいようです。まだはっきりとした情報がないのですが、大きな被害が出たそうです」と報告してくれた。 (中略) 当時はこうした災害時の政府の対応がきちんと整備されてなかった。首相官邸には二四時間対応するシステムはなかったし、担当の国土庁には当直制度もなかったんだ。神戸との連絡もお昼近くになって初めてとれた。対応が遅れたと言われると弁解の余地はない。 厚生省(当時)は、2月上旬から国立病院の医師、看護師、ケースワーカーなどを現地に派遣し、災害地の医療を側面から支援する対策を行った。ただし、これについては、各地の国立病院職員(医師、看護師、他)たちが、震災直後からボランティアとして現地に急行する希望を出していたにも関わらず、厚生省が直ちにはこれを認めず、派遣が大幅に遅れたことへの批判がある。 日本が地震多発地帯であるにもかかわらず、前述の被害地域の惨状を把握する手段が十分に講じられていなかったことや、危機管理体制の欠如・縦割り行政といった行政上の様々な弊害が現れた。 最も、政府の初動が実際よりも早かったとしても震災の被害規模は大差が無かったのではないかとの指摘もある。防災科学技術研究所の理事長を務めた岡田義光によると、死者の90%は木造家屋の倒壊によるもので、うち80%は午前6時までに亡くなっており、ほぼ即死の状態だった。昭和30年代以前の建物に倒壊が多く、昭和40年代後半ごろまでの建物は大破、昭和50年以降の建物は被害が少なかったことから、すべての建物が1981年の新耐震設計法に適合してつくられていたら、死者は200~500人ほどだったとの予測もある。
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