主な亡命事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/08 19:06 UTC 版)
詳細は「Category:各国の亡命者」を参照 百済滅亡(660年)により、一部の百済人が日本へ亡命。王族は百済王氏となった。 高句麗滅亡(668年)により、一部の高句麗人が日本へ亡命。王族は高麗氏となった。 17世紀前半、朝鮮からの亡命者である佐野主馬が、但馬守となった柳生家の門番をしていたとされる(耳嚢を参照)。 1659年、復明運動(zh:反清复明)の失敗によって朱舜水が日本へ亡命。 フランス革命(1789年)による、フランス貴族、僧侶(聖職者)の亡命。亡命貴族のことをフランス語でエミグレと言う。聖職者民事基本法も参照。 ヴァレンヌ事件(1791年): フランス革命時のフランス王家の亡命事件。失敗におわり、反王家の傾向を激化させる一因となった。 1895年、孫文が日本に亡命。1911年、中国に帰国。 ロシア内戦(1917年 - 1922年)及びソビエト連邦誕生により、白系ロシア人が中華民国・日本・欧米へ亡命。 1929年、レフ・トロツキー、ソビエト連邦から追放。以後フランス、メキシコなどに亡命。1940年殺害。 1933年、アルベルト・アインシュタイン、ナチス・ドイツから追放。米国に亡命。 1938年、ゲンリフ・リュシコフがソ連の重要機密情報を持って満州国に亡命。 1945年、第二次世界大戦での日本敗戦による満州国滅亡で、皇帝・愛新覚羅溥儀、皇弟・愛新覚羅溥傑は、日本への亡命を図ったが、奉天にてソ連軍に捕えられ、亡命に失敗する。 1947年、ミハイ1世、ソ連軍占領下のルーマニア王国で共産党政府の成立と王制廃止により退位。スペインに亡命。 1949年、プリーディー・パノムヨン、クーデターに失敗し、フランスへ亡命。 1952年、チャールズ・チャップリン、アメリカから追放。スイスへ移住。 1957年、プレーク・ピブーンソンクラーム、クーデターによりカンボジア経由で出国。日本へ移住。 1959年、ダライ・ラマ14世、チベットからインドに亡命。チベット亡命政府を樹立。 1960年、李承晩、韓国からアメリカに亡命。 1970年、共産主義者同盟赤軍派メンバーが日本航空機(よど号)をハイジャックし、北朝鮮へ亡命(よど号ハイジャック事件)。 1974年、アレクサンドル・ソルジェニーツィンがソビエト連邦から国外追放。スイス経由で1976年にアメリカに移住。 1974年、ミハイル・バリシニコフ、ソビエト連邦からアメリカに亡命。 1975年、マルチナ・ナブラチロワ、チェコスロバキアからアメリカに亡命。 1976年、ソ連空軍のパイロット、ヴィクトル・イワノヴィチ・ベレンコ中尉が乗機MiG-25で函館空港に強行着陸。アメリカ合衆国に対し亡命を申請(ベレンコ中尉亡命事件)。 1979年、イディ・アミン、ウガンダからリビア経由でサウジアラビアに亡命。 1983年、アントニオ・ネグリ、イタリアからフランスに亡命。 1984年、アンドレイ・タルコフスキー、ソビエト連邦当局からの帰国要請を拒否しイタリアにて事実上の亡命を宣言。 1986年、フェルディナンド・マルコス及びイメルダ・マルコス、エドゥサ革命によりハワイへ亡命。 1989年、ナディア・コマネチ、ルーマニアからハンガリー経由でアメリカに亡命。 1989年、ハンガリーで汎ヨーロッパ・ピクニックが開催され、1000人以上の東ドイツ国民が集団亡命。 1998年、李洪志、中華人民共和国からアメリカ合衆国に亡命。 2000年、テルアビブ空港乱射事件に対してイスラエルで終身刑判決を受け、服役中に「捕虜交換」の名目で釈放され、レバノンに滞在していた岡本公三に、再びテルアビブ事件についての刑事責任を問う目的で、日本国政府が引き渡し要求をした事に対し、レバノン政府は岡本の政治亡命を認め保護。 2000年、日本滞在中のペルー大統領、アルベルト・フジモリが大統領辞任を表明後も日本滞在を続け、事実上亡命。大統領選出馬の意を表明、2005年帰国途中のチリで逮捕。 2002年、中国・瀋陽において北朝鮮を脱出した住民が亡命を目的に、日本総領事館に駆け込むが、総領事館を警備していた中国公安職員が敷地内に立ち入り住民を拘束。日本国政府が抗議。その後、住民らはマニラを経て韓国へ亡命(瀋陽総領事館北朝鮮人亡命者駆け込み事件)。 2004年、元チェス世界チャンピオンのボビー・フィッシャーが、成田空港で有効パスポート不所持により出国差止めのうえ身柄収容され、フィリピンへの亡命を申請。アイスランドが市民権を承認し出国。 2006年、タクシン・チナワット、外遊先からタイ王国に帰国せず、以来、事実上の亡命状態となる。 2007年、ネパールの親王族派の有力一族であるケー・シー・ディパックが、ネパール共産党毛沢東派からの迫害を受け、日本へと亡命。ディパックは、他にも難民認定の必要な亡命者が居るとしている。 2009年、キューバの野球選手アロルディス・チャップマンが、野球キューバ代表の遠征地オランダにて亡命。 2013年、アメリカ合衆国連邦政府の元CIA職員エドワード・スノーデンが、ロシア連邦に亡命。 2014年、郭文貴、中華人民共和国からアメリカ合衆国に亡命。 2015年、中国共産党中央統一戦線工作部元部長の令計劃の弟である令完成が、機密資料を持ってアメリカ合衆国に亡命。 2021年、サッカー・ワールドカップの予選に出場するために来日していたミャンマーの代表選手ピエ・リヤン・アウンが国軍のクーデターにより、母国が政情不安になっていることを理由として、関西国際空港にて帰国することを拒否する意向を示し、亡命した。 2021年、東京オリンピック女子陸上競技に出場していたベラルーシ代表のクリスツィナ・ツィマノウスカヤが羽田空港で帰国することを拒否する意向を示し、ポーランドに亡命した。 2022年、俳優のチュルパン・ハマートヴァがロシアによるウクライナ侵攻に反発し、ロシア連邦から亡命。 このほかの亡命の事例についてはCategory:亡命者を参照。
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