一般市民に関して
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/30 20:12 UTC 版)
日本の研究者の共通の意見として、日本軍による南京事件の南京城内での民間人の殺害数は、中国兵への日本軍の違法殺人よりはずっと少ないとされており、その理由には後述の様に、欧米の宣教師らが組織した南京安全区国際委員会による約20万人ともされる避難民への人道支援が存在する。南京事件の犠牲者を約12万人以上と主張する笠原十九司も、南京城内の民間人犠牲は1万2千人程度と主張し、むしろ日本軍の違法殺人は中国兵への殺人が主であるとする。また、日本軍による南京事件の民間人死者数を示す調査である、事件直後に行われたスマイス調査では死者は6千6百人〜1万2千人と記録された。 南京陥落後に残った民間人は、南京市陥落前から欧米の宣教師らが組織した南京安全区国際委員会が設定した南京市内の安全区へと避難できた。「ラーベの感謝状」にもあるように、南京安全区(別称 難民区)に対しては、日本軍は砲撃を仕掛けなかったとされ、占領後も日本軍は立ち入りは制限されており、組織的な住民虐殺を行っていない。ただし、安全区内でも、日本軍は、敗残兵狩りとして誤って多くの民間人を捕まえて安全区の外で殺したりする等の市民への違法殺人などの問題有る行為を行っているとされる。 しかし、南京周辺の農村部では、日本軍が組織的でときに村単位の住民虐殺を南京への進軍中に行ったとの記録がのこると、笠原十九司は述べる。この農村での虐殺については日中共同研究において中国側も具体的に指摘しており、スマイス調査でも農村地域の犠牲者は2万6千人以上と記録されており、南京城内の被害者数を上回る。 南京市内での市民の殺害では、安全区へと避難民の避難が終了する前、つまり日本軍による南京城市陥落(12月13日)の前後に、日本軍の攻撃や掃討や暴力行為に巻き込まれた市民が少なからず存在したとされ(城外を出て長江を渡って逃げる途中の市民(婦女子も含む)が兵士とともに銃撃を受けて殺された証言、日本兵による攻撃や暴力で殺害された証言(新路口事件)がある)、この時点での南京城内の殺害の実数は不明であり、南京城外において占領戦前後の避難中のかなりの市民(数は不明)が兵卒とともに巻き込まれて殺害されて遺体が長江に流された記録(徳川義親やジョン・ラーベの残した記述など)は存在するものの、その数も不明である。 また、南京占領後も、南京市内の安全区外を中心にした、日本軍による、民間人の老若男女の殺害事例が、個々の件数や被害者数は過多ではないが当時安全区にいた欧米人の記録として残っている(安全区外なので被害者関係者による伝聞が主であるために記録の正確性は問われるが、逆に記録された以外の事件発生の可能性もありうる)。なお、日本軍は、南京占領直後に(警察官や消防夫の殺害もあったが)、中国側の発電所の技術者を政府企業に勤めていたというだけの理由で虐殺したため、日本側は電力復旧に困り、一時はシーメンスのラーベに故障をそちらで修理できないかと相談しにくるような状態であった。 ただし、単に場所が南京城外に若干外れるというだけで、南京の一般住民に対する殺害として以下のような証言がある。 当時、松井司令官専属副官であった角良晴は、生前、偕行社の調査に対し、当時18日若しくは17日に総司令部に電話があり、下関に中国人約12~13万人がいるとの連絡があり、情報課長の長勇(中佐)が独断で「ヤッチマエ」と指示、角が松井に知らせたところ、長中佐は中国人の中には軍人も混じっていると抗弁したものの松井は解放するよう指示、長中佐はそれを承諾しながら再度問合せ電話が入ったときに再び「ヤッチマエ」と指示し、角自身もそれ以上松井に報告できなかったと回答を寄せた。 これは、戦後まもなく、田中隆吉が著書の一つで、長勇から聞いた話として、日本軍が鎮江付近に進出したとき、柳川兵団の進出によって退路を断たれた約三十万の中国兵が武器を捨てて日本軍に投じてきた、直ちに無断で隷下の各部隊に対し、これらの捕虜をみな殺しにすべしとの命令を発したと既に書いていたこと(田中自身は長勇のホラと思うことにしたと述べている)と、南京・鎮江(隣接の都市)、民間人・中国兵の違いはあるが極めて一致している。 もともと11月末に50万人いて日本軍進攻までに20万人に減るとみられていた南京城内の住民につき、多数が、南京攻略直前の時期までには渡し場のある下関地区に殺到したものの船不足や船賃の高騰などで逃げられず、荷物が積み上げられていたことなどが東京裁判でも外国人証言者によって証言されている(その時、それらの住民がどこにいたかは証言されていない)。また、太田寿男(当時舶輸送司令部所属)が、日本軍が捕虜3万人及び住民12万人を殺害し下関でその死体処理をしたと、撫順戦犯管理所で戦後供述していたことが、後年中国側から情報が出されており、これも太田寿男の証言する死体処理の日付が14~18日とズレはあるものの極めて一致している。 中国軍敗残兵の暴行が日本兵の仕業と誤った可能性や、中国側の漢奸狩りや「堅壁清野作戦」という焼き払い作戦のように中国側も残虐行為を行ったことを東中野修道らは主張している(ただし、堅壁清野作戦は家を焼き払って住民を追い立てたもので、それ自体では死者は出ていない。清野作戦だからとして、根拠なく死者が出たかのような飛躍した主張のしかたについては、虐殺の存在を認める派からは批判が強い)。 多数の敗残兵が便衣に着替えて安全区(難民区)に逃れたことは孫宅巍や臼井勝美なども認めている。そして、南京における日本軍の乱暴狼藉と思われる中には、中国側の撹乱工作隊の仕業とされる事件があったと1938年1月4日にニューヨーク・タイムズも報道している(ただし、これは王新倫事件のことで、難民区内で元国民党軍の隠匿武器がたまたま摘発され、関係すると思われる人物が逮捕されたものだが、南京での日本軍の非行に対する諸外国からの非難に抗するため、日本軍側が過大にフレームアップあるいはその他の罪状まで転嫁し、外資系紙に情報工作して報道につなげた可能性も高い。)また、ベイツも日本軍の犯行だけではなく、1月初旬以降中国人による略奪や強盗の犯行が始まり、後には特に農村部において盗賊行為が増加し、日本軍と匹敵するか時には凌ぐほどであったと記録している。 板倉由明によれば、日本兵の仕業と見せかけた中国軍敗残兵の暴行であったとする、東中野修道らの中国敗残兵工作説については、中国軍兵士と疑われる人物の安全区内での逮捕事件を日本側が「中国兵も悪いのだ」と宣伝した当時の記事を誇張しているだけで、工作隊を捕らえたのがどの部隊かも明らかでなく、第16師団関係者、憲兵隊関係者の日記や証言や新聞にも全く見当たらないと批判している。 なお、中国軍が陥落前に南京市内やその周辺の建物を焼いたことは当時のニューヨーク・タイムズにも報道されており、中国軍の南京市の焼き払いは、南部と南東部の城壁周辺の一部と城の西方面にある建物が中心であった。しかし、城内の南京安全区外の中心街の放火(太平路周辺など)をはじめとした市内広範囲は、日本軍の放火であるともニューヨークタイムズは報道し、ジョン・ラーベやスマイスら欧米人の記録にも書いてある。ベイツはスマイス報告の序文で中国軍が城壁周辺での焼き払いを行ったのは事実だが、城内の焼き払いの全てと近郊農村の焼き払いの多くは日本軍によるものとしている。上海派遣軍参謀長飯沼守も日記でソ連大使館の放火は日本軍による疑いがあるとした。ただし、放火に関して、家屋、集落に対する焼却(放火)は戦争時に戦術上行われることがあり、防守されている都市、集落、住宅または建物に対する攻撃はハーグ陸戦条約上は禁止されてはいない。もっとも南京攻略中に行われた戦術的な放火は別として、当時南京に入ったカメラマン浅井達三は、火事はむしろ南京陥落後に日本兵が城内に入ってきた頃から城内各地で始まったとしている。また、ベイツは19日か20日あたりから日本兵の放火が本格的になり、日本兵は樹脂でできたような火の灯った火付け棒で火を点けていたと証言している。
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