ロシア・中央アジア諸国
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ロシアと国交が結ばれた段階ですでにロシアは南下政策をとっており、中央アジアやコーカサス地域も征服していた。社会主義革命でソ連(ソビエト社会主義共和国連邦)が成立してからも、これら地域はソ連の構成国として維持された。そのために、中央アジアの西トルキスタン諸国やコーカサス地方の国々との関係樹立は1991年のソビエト連邦の崩壊まで待たなければならなかった。1997年(平成9年)に橋本政権によって「ユーラシア外交」が提案されてロシアや中央アジア諸国との関係強化が志され、のちの政権も継承されることになった。しかし、2001年9月11日の米国ニューヨークでの同時多発テロ以降は低調である。経済基盤の貧弱な国が多く、更に海に面していないために輸送コストなども掛かるなどの理由から、一部の希少な地下資源を除き、貿易などの経済的な関係も他地域と比べて活発と言えない状況にある。ただし、この地域に栄えた古代王朝や仏教遺跡の研究などの学術関係での交流は活発である。 ロシア:日露関係は断続的に関係が深まる時期を挟みつつも、対立の時期が長い。これはかつての帝政ロシアが不凍港を求めて伝統的に南下政策を取り、太平洋への出口を求めたため、通り道の日本との間に地政学的な対立構造があるからである。外交関係としては、1792年にアダム・ラクスマンが当時のロシア帝国の使節として根室(現在の北海道根室市)に来航した時に非公式の接触が始まった。その後、江戸幕府は最上徳内、近藤重蔵、間宮林蔵、伊能忠敬といった者を千島列島や樺太を含む蝦夷地に向かわせ地理的な知識を得ようとしたが、それは領土を拡大するロシアの脅威に対して北方防備の必要性を悟ったからであった。 正式な国交が結ばれたのは、樺太の帰属を棚上げにして択捉島と得撫島の間を国境とする日露和親条約が1855年に締結されて以降であり、その直後に条約は日露修好通商条約に置き換わった。1875年の樺太・千島交換条約により、日本は樺太(サハリン)を放棄する代わりに千島列島全島をそれぞれ領有することとされて日露国境が一旦確定する。満州(現在の中国東北部)・朝鮮半島の支配権をめぐり、1904年に日露戦争が勃発し、勝利した日本は満州の利権に加えて樺太の北緯50度線以南の領有権を取得した。その後日本とロシアは接近して日露協約が結ばれた。 しかし、第一次世界大戦中の1917年に起こったロシア革命により史上初の社会主義国家であるロシア・ソビエト連邦社会主義共和国が樹立されると、日露協約は消滅した。日本は協商各国とシベリアへ共同出兵して革命に干渉したが、1925年の日ソ基本条約締結後に撤兵した。1931年の満洲事変以降国境紛争が頻発し、1939年のノモンハン事件では大規模な武力衝突に発展した。1941年には日ソ中立条約が締結されたものの、第二次世界大戦では条約の有効期間内であるにも関わらずソビエト連邦は終戦直前に対日参戦し、ソ連軍が日本支配地域に侵攻した。ソ連による旧満州国・朝鮮や南樺太・千島列島への侵攻は、日本がポツダム宣言を受諾(降伏)し戦闘行為停止を軍に発令した後も継続された。占守島の戦いなど現地守備隊による戦闘が行われたものの、日本が降伏文書に調印するのに前後して極東ソ連軍は南樺太と千島列島のすべてを占領した。特に江戸時代に帝政ロシアと国交を樹立して以来認められていた日本固有の領土である択捉島以南の千島列島の「不法占拠」は、北方領土問題として今日に至る禍根を残している。さらに武装解除した日本軍兵士を捕虜として連行して長期にわたる強制労働などを課して多数の犠牲者を出した「シベリア抑留」などの行為は、単なるイデオロギー上の対立にとどまらない反ソ感情を日本に植え付けた。1956年の日ソ共同宣言で一応の国交が回復した後も、冷戦期を通じて緊張関係が続いた。 1985年に最高指導者となったミハイル・ゴルバチョフにペレストロイカ政策のもとで関係改善の兆しが現れたものの、講和交渉が進展しないまま1991年のソビエト連邦の崩壊を迎えた。初代ロシア連邦大統領となったボリス・エリツィンは、当時経済大国であった日本からの経済援助を期待し、1993年の来日時に北方4島の帰属問題を解決して講和条約の早期締結を目ざすと記した東京宣言に合意した。2000年代前半に平和条約締結後に日本へ歯舞群島と色丹島を引き渡すことをうたった日ソ共同宣言が有効であることを認めるなど、ウラジーミル・プーチン大統領に交渉の意思があるとみなした第二次安倍政権による精力的な外交が2010年代に行われた。しかし具体的成果は得られず、2020年に改正されたロシア連邦憲法には「領土の割譲禁止」が明記された。2022年現在において領土問題の解消・平和条約締結の目処は全くたっていない。 ソ連崩壊後の両国間では経済的な交流が盛んに行われ、2013年前後に貿易額のピークを迎えたが、2014年クリミア危機以降落ち込みを見せている。ロシアへの輸出品目は自動車が大部分を締め(2020年は41.9%)、部分品まで含めると半分以上を構成する。ロシアからの主な輸入品目は液化天然ガス、石炭、原油、非鉄金属など、天然資源・原料が多く、2009年以降は慢性的な日本の輸入超過が続いている。 外交や政治では、上述の領土問題やそれに起因する漁民銃撃・拿捕事件、資源問題(サハリン2を参照)なども生じている。さらに近年では、日本政府は上記のクリミア危機に際しロシアによるクリミア併合を非難したうえ、2022ウクライナ侵攻においては国際社会の動きに呼応して制裁措置を発動し、ロシアの戦争犯罪を批判する声明を出すなど、緊張関係にある。 「日露関係史」も参照
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