ロシア人とモンゴル帝国元朝とは? わかりやすく解説

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ロシア人とモンゴル帝国元朝

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/04 07:30 UTC 版)

中露関係」の記事における「ロシア人とモンゴル帝国元朝」の解説

ロシアルーシ)の諸公国と中国初めての繋がりは、13世紀さかのぼるものと推定できる現在の中国領土内におけるロシア人存在について信頼できる最初史料14世紀のもので、モンゴルによるルーシ諸国への侵攻関連しており、ルーシ侵攻結果として多く虜囚たちがモンゴル帝国一角を成す元朝中国へと連行されのであるロシア中国大地は、長きわたってモンゴル帝国影響圏を構成する一部に過ぎなかった。16世紀イヴァン雷帝による治世の頃には、既に二つ使節団中央アジアモンゴル通過して中国へ行く経路確保していた。シベリアトボリスク建設した後、トボリスク首長極東コサック派遣したロシア人コサック農民は、ザバイカリエザバイカル地方と沿アムール地方ロシア語版)に定住してアムール川沿いにオストログ防衛機能のある植民拠点)を建設し、その数あるオストログのうち最大規模であったのが、アムール川左岸アルバジンシルカ川沿いのネルチンスクである。 『元史』によると、「至順」を元号掲げた最初の年1330年)に中国連行されロシア人虜囚たちが屯田兵として国境防衛耕作の任に充てられた。元朝政府は、大都北京)に屯田兵管理する特別機構を設置した大都北京)で、ロシア人虜囚たちはハーン親衛隊入隊させられた。キプチャク人キプチャクすなわちポロヴツィ人)、アス人(アスすなわちアラン人)、ロシア人連隊編成された。ハーン親衛隊ロシア人部隊は、「忠誠心篤いロシア人連隊」を意味する「宣忠斡羅思衛親軍」と称された。結成当初部隊人数について現存する史料では確認できない。しかし、1331年人数明らかにされており、600であった記されている。 『元史』の1332年の条によると、ロシア人虜囚たちの到着三度あったことが言及されており、その人数は一度目が170人、二度目2500人、三度目30人青壮年103人の未成年であったまた、モンゴル人キプチャク人ロシア人混成部隊指揮官としてモンゴル人指揮官ボヤニ(Боянь)が任命された件についても言及されている。 留意すべきは、元朝とはモンゴル人王朝であって中国人国家ではなく中国領土内にロシア人出現したことは元朝時代においてであり、中露関係というよりむしろ露蒙関係枠組み捉えるべきであろう

※この「ロシア人とモンゴル帝国元朝」の解説は、「中露関係」の解説の一部です。
「ロシア人とモンゴル帝国元朝」を含む「中露関係」の記事については、「中露関係」の概要を参照ください。

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