ロシア人の移住
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/18 15:22 UTC 版)
各地の労働力不足は、都市から学生や軍の兵士も動員され、外から補給された。空になった農村にはロシア人が移住した。移住したロシア人には一ヶ月に小麦50ポンドの配給をもらっていた。 ハリコフ州のムラファ村では、ウクライナ人の孤児たちが死んだ親と生活していた家に、移住してきたロシア人が住んだために、孤児たちがロシア人の子供に「泥棒、人殺し」と罵った。孤児たちに理解を示した村の教員はその責任を問われ、12年の強制労働の刑となった。 1933年5月27日にはハリコフで給食に並んでいた数千人の農民を、警察が貨車に載せてリソヴェ駅近くの窪地に連行して、餓死するまで放置した。 6月にはカリーニンは、穀物不足は農民が怠けるからだと報告し、1933年6月17日、スターリンはウクライナに対して、去年の過ちを繰り返せばもっと極端な対策をとらざるをえなくなると通達した。オデッサ州の委員会が地元住民にも小麦を渡すべきだと進言すると、ボリシェヴィキは、国家への供出を後回しにすることはできない、富農への同情は「プロレタリア国家の敵の利益に奉仕すること」だと批判した。共産党新聞は、農民のためにパンを作ったコルホーズ議長を告発し、この議長は裁判に訴えられた。
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