ロシア人の進出
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「ロシアのシベリア征服」、「シベリアの河川交通」、および「日露関係史」も参照 中世にはノヴゴロド共和国の毛皮商人がウラル山脈北部を超えてオビ川下流へと入った。またポモールと呼ばれる白海沿岸のスラブ人が北極海沿岸を船で往来しており、オビ川河口のマンガゼヤに交易拠点を築いている。しかし、16世紀には北極海を経てアジアに至る北東航路を開拓しようとするイギリス船やオランダ船がバレンツ海沿岸に出没を始める。17世紀にはこれらの勢力がシベリアに及ぶのを恐れたロシアはマンガゼヤへの海路の航行を禁じた。これ以後、ロシア人のシベリア進出は海からではなく陸から行われるようになる。 最初にロシアからシベリアに侵入したのは正規ロシア軍ではなく、ウラルの西側のカマ川やチュソヴァヤ川流域を領地としていたストロガノフという商人の私兵である。当時すでに枯渇していたウラル以西の毛皮資源に替わる、豊富な毛皮資源を求めたためだった。そしてシビル・ハン国が1572年に毛皮の朝貢を拒否したことでロシア・ツァーリ国のシベリア侵攻は決定的となった。この時のロシア人私兵はコサックと呼ばれ、これらを率いたコサックの首長イェルマークによりシベリア征服が進められた。イェルマークは1578年10月に東進を開始し、シビル・ハン国を攻撃、イェルマーク自身は途中戦死するものの、ついに1598年シビル・ハン国は滅亡した。その後ロシア人は東進を続け、1636年にはコサックのイヴァン・モスクヴィチンがオホーツク海へ至り、ロシア人はシベリア横断を達成した。これ以後シベリアはロシア人の植民地となった。 ロシア人が短期間で太平洋にまで至ることができた理由には、シベリアの大河の支流から支流を伝うことで大きな地形的障害に阻止されることなく東進できたこと、途中にロシア人に激しく抵抗して前進を押しとどめる強力な国家や民族がなかったこと、毛皮交易による利益に対してロシア人たちが貪欲だったことが大きい。たとえばウラル山脈中部は標高が低く、ヨーロッパ側を流れるヴォルガ川の支流とアジア側を流れるオビ川の支流が入り組んで走っており、両方の水系を結ぶ連水陸路を通って舟でウラルを超えることができた。またオビ川・エニセイ川・レナ川も支流は東西に広く網の目のように流れ、各水系が近接しており、シベリア横断に使うことができた。一方、シベリアの南にはモンゴル・テュルク系遊牧民が住む草原地帯が広がるが、毛皮のような交易資源はない上に、遊牧民は強力であることから、ロシア人が中央アジアの草原や砂漠に進出するのは後のことになる。
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