ロシア人の進出とは? わかりやすく解説

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ロシア人の進出

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 15:13 UTC 版)

シベリア」の記事における「ロシア人の進出」の解説

ロシアのシベリア征服」、「シベリアの河川交通」、および「日露関係史」も参照 中世にはノヴゴロド共和国毛皮商人ウラル山脈北部超えてオビ川下流へと入った。またポモール呼ばれる白海沿岸スラブ人北極海沿岸を船で往来しており、オビ川河口マンガゼヤ交易拠点築いている。しかし、16世紀には北極海経てアジアに至る北東航路開拓しようとするイギリス船やオランダ船がバレンツ海沿岸出没始める。17世紀にはこれらの勢力シベリアに及ぶのを恐れたロシアマンガゼヤへの海路航行禁じた。これ以後ロシア人シベリア進出は海からではなく陸から行われるようになる。 最初にロシアからシベリア侵入したのは正規ロシア軍ではなくウラル西側カマ川チュソヴァヤ川流域領地としていたストロガノフという商人私兵である。当時すでに枯渇していたウラル以西毛皮資源替わる豊富な毛皮資源求めためだった。そしてシビル・ハン国1572年毛皮朝貢拒否したことでロシア・ツァーリ国シベリア侵攻決定的となった。この時のロシア人私兵コサック呼ばれ、これらを率いたコサック首長イェルマークによりシベリア征服進められた。イェルマーク1578年10月東進開始しシビル・ハン国攻撃イェルマーク自身途中戦死するものの、ついに1598年シビル・ハン国滅亡したその後ロシア人東進続け1636年にはコサックイヴァン・モスクヴィチンオホーツク海至りロシア人シベリア横断達成した。これ以後シベリアロシア人植民地となったロシア人短期間太平洋にまで至ることができた理由には、シベリア大河支流から支流伝うことで大きな地形的障害阻止されることなく東進できたこと、途中ロシア人激しく抵抗して前進押しとどめる強力な国家民族がなかったこと、毛皮交易による利益に対してロシア人たちが貪欲だったことが大きい。たとえばウラル山脈中部標高低くヨーロッパ側を流れヴォルガ川支流アジア側を流れオビ川支流入り組んで走っており、両方水系を結ぶ連水陸路通って舟でウラル超えることができた。またオビ川エニセイ川レナ川支流東西広く網の目のように流れ、各水系近接しており、シベリア横断に使うことができた。一方シベリアの南にはモンゴル・テュルク系遊牧民が住む草原地帯広がるが、毛皮のような交易資源はない上に、遊牧民は強力であることから、ロシア人中央アジア草原砂漠進出するのは後のことになる。

※この「ロシア人の進出」の解説は、「シベリア」の解説の一部です。
「ロシア人の進出」を含む「シベリア」の記事については、「シベリア」の概要を参照ください。

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