ロシア人によるアラスカ「発見」
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/25 00:42 UTC 版)
「ロシア領アメリカ」の記事における「ロシア人によるアラスカ「発見」」の解説
ロシアにおいてアラスカに初めて到達したヨーロッパ人の記録が残っているのは、セミョン・デジニョフが1648年にシベリア北東部のコリマ川河口から出帆し北極海を航海、ユーラシア大陸の東端を回航しアナディリ川まで辿り着いた記録である。一部の船が船団を離れアラスカに上陸したと言う伝承もあるが、確証はない。デジニョフの発見は中央政府に報告されておらず、シベリアは北アメリカ大陸と地続きなのかそうでないかは、この時点でまだ解明されていない疑問であった。 1725年、ロシア皇帝ピョートル1世は再度探索を指示した。1741年6月、第2次カムチャツカ遠征(1733-1743)の一部としてヴィトゥス・ベーリング(聖ピョートル号)とアレクセイ・チリコフ(聖パーヴェル号)がカムチャツカ半島のペトロパブロフスクから出帆した。それぞれすぐに2隊に分かれたが、そのまま東方で航海し続けた 。7月15日にチリコフは、おそらく現在のアラスカ南東端のプリンスオブウェールズ島に当たると思われる土地を「発見」。船員をロングボートで着岸させ、北アメリカ北西海岸に初めて上陸したヨーロッパ人となった。翌7月16日にはベーリングと聖ピョートル号船員はアラスカのセイントイライアス山を見つけ、その後進路を西方のロシア方面に戻した。チリコフと聖パーヴェル号も10月にはアラスカ「発見」のニュースをロシアへ持ち帰った。 11月にベーリングは現在のベーリング島で座礁。聖ピョートル号も強風で破壊され遭難、そのままそこで病死した。厳しい冬季を乗り越えた生存者は船の破片から造船し、1742年8月に島を出てカムチャツカに生還したため彼らのアラスカ「発見」のニュースが伝わった。彼らが持ち帰った高品質のラッコ毛皮の存在が、ロシアのアラスカへの入植の意欲を高めた。
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