ロシア主導の汎スラヴ主義
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/05 02:44 UTC 版)
「汎スラヴ主義」の記事における「ロシア主導の汎スラヴ主義」の解説
19世紀後半、オスマン帝国の衰退が明らかになると(いわゆる「東方問題」)、ロシア帝国はバルカン半島への勢力拡大のために汎スラヴ主義を唱えるようになる。こちらは主にバルカン半島においてギリシア正教会の信仰を同じくするスラヴ諸民族の連帯であり、一般に「汎スラヴ主義」と言った場合には当時の汎スラヴ主義運動を指すことが多いが、その結実した時期は非常に短い。第一次世界大戦の起源として、ロシア帝国主導の汎スラヴ主義とドイツ帝国・ハプスブルク君主国主導の汎ゲルマン主義の衝突の構造を推定するのは、一般的には行われているが、疑問が残る。 ロシア主導の汎スラヴ主義が結実するのは、1912年にロシアの外相セルゲイ・ドミトリーイェフ・サゾノフの尽力によってバルカン同盟が結成されたときであった。しかしバルカン同盟諸国は各々別の思惑で同盟に参加し、結束は弱かった。そのため、1912年から1913年に第一次バルカン戦争が行われると、オスマン帝国から獲得した領土を巡って同盟諸国が分裂した。 この分裂の結果、1913年中にバルカン同盟加盟国であったブルガリアがギリシアに攻撃を仕掛けて第二次バルカン戦争が勃発、バルカン同盟は崩壊した。汎スラヴ主義者、とくにロシア帝国内の汎スラヴ主義者はこれに失望し、汎スラヴ主義も終焉を迎えることとなる。 特に戦後から第一次世界大戦にかけてロシアが度々ブルガリアとセルビア・ギリシアの関係修復を試みたにもかかわらず、ブルガリアが両国に奪われたマケドニア地方の割譲を要求し続けたことは、スラヴ諸国の連帯が幻想であることを見せつけることとなった。結局、ブルガリアはマケドニアの領有を目指して第一次世界大戦では他のスラヴ陣営とは決別、中央同盟国側に立って参戦してセルビアを壊滅に追いやることになる。 そして第一次世界大戦中の1917年にロシア革命が発生し、ソヴィエト政権が単一民族優位主義を否定したため、大国ロシアが主導する汎スラヴ主義は名実ともに消滅することになった。
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