ロシア人虐殺
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/06 08:50 UTC 版)
日本軍の決起に至るまで、赤軍が投獄した人々の処刑は、一応、赤軍裁判の手続きを経て行われていた。しかし、3月12日未明から14日の夜中の12時まで、3昼夜の間、裁判、審理なしで、一般住民の処刑が許されていたことが、残された書類でわかる。その書類と同時に、8日付けで、監獄の向かいの家に、死刑執行にあたった赤軍第一中隊の宿泊願いが出されていることから、グートマンは、「赤軍は、日本軍決起を挑発し、同時に手続きなしの市民殺戮を企てていたのではないか」と推測している。 日本人居留民の虐殺が始まると同時に、町の監獄と軍の留置所では、投獄されていた人々の惨殺がはじまった。監獄にいた160人のうち、生き残ったのは4人のみである。パルチザンは、銃弾を節約するために、囚人を裸にし、手を縛り、裏庭に連れ出して斧の背で頭を打ち、銃剣で突き、剣で斬った。死体は、町のゴミ捨て場に捨てられるか、アムール川の氷の中に投げ込まれた。街中で、一般の人々の家に押し入った場合は、銃殺した。資産家の妻から坑夫の娘まで、容赦がなかった。3月12日から16日までの5日間で、殺された日本人とロシア人の数は、1500人にのぼった。ロシア人のうち、600人は、企業家や知識人層として、町の誇りとなり、もっとも尊敬されていた人々だった。 続いて引き起こされる大量殺戮前の3月31日にニコラエフスクを脱出したアメリカ人マキエフは過激派がロシア人も日本人も関係なく掠奪惨殺を行い銃剣で蜂の巣のごとく刺殺するのを目撃している。
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