マレー沖海戦
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「レパルス (巡洋戦艦)」の記事における「マレー沖海戦」の解説
12月10日、Z部隊は南シナ海において行われたマレー沖海戦で、九六式陸上攻撃機(美幌海軍航空隊、元山海軍航空隊)と鹿屋海軍航空隊の一式陸上攻撃機で編成された大部隊に襲撃された。レパルスは最初に九六式陸攻8機(美幌空、白井中隊)の水平爆撃を受けた。最初の被害は水上機甲板に命中した250kg爆弾で、水上機甲板を貫通して水平装甲に達し、そこで炸裂する。レパルスに残っていた水上機は、延焼する恐れがあったために海面に投棄された。この爆弾命中による被害は最小限だった。続いて戦場に到着した元山空と美幌空の九六陸攻(魚雷装備)の雷撃をレパルスはすべて回避し、九六陸攻の二度目の水平爆撃も回避した。テナント艦長の操艦が見事だった事、穏やかな海面で魚雷の航跡を視認しやすかった事が、レパルスの回避につながった。 レパルスがシンガポール基地に航空機の支援を要請し終わった頃、日本軍陸攻部隊の雷撃・爆撃同時攻撃がはじまった。鹿屋空の一式陸攻(魚雷装備)が出現し、レパルスに4-5発の魚雷を命中させた(日本側記録7本命中)。生存者は左舷中央に2発、後部砲塔左舷に1発、スクリュー付近の左舷に1発、右舷船体中央部に1発の合計5本の魚雷命中を主張している。それまで損害軽微だったレパルスだが複数魚雷による損害は致命的で、テナント艦長は総員退去を命じた。12時33分(日本側記録午後2時3分)に転覆して沈没した。また“不沈戦艦”と謳われていたプリンス・オブ・ウェールズにも陸攻の魚雷と爆弾多数が命中し、13時50分(日本時間午後2時50分)に沈没した。 テナント艦長を含むレパルスの生存乗員は、駆逐艦エレクトラ(英語版) (HMS Electra,H27) とヴァンパイア (HMAS Vampire, I68) によって救助されている。乗員1,309名のうち、艦長以下796名が救助されたという。レパルスの戦死者は508名(文献によって513名とも)。日本海軍機は英側救助作業を一切攻撃しなかった。また翌日、撃沈した航空隊員の1人である壱岐春記大尉は搭乗機で現場を訪れ、日英双方の鎮魂のために花束を投下している。 なお日本軍航空部隊の攻撃の前にレパルスからビル・クローザー准尉のウォーラス1機が発進している。この機は対潜哨戒を行うよう指示されていたがボートを曳航する汽船を発見したのみであり、レパルスの上空に戻って報告を行った。このウォーラスを日本軍陸攻部隊(鹿屋空の一式陸攻26機)が発見して追跡しており、結果的に敵攻撃隊を母艦に誘導してしまった。日本軍の空襲が始まるとウォーラスは対空砲火の射程外へ逃れ、それからシンガポールへ向かった。途中で燃料不足のため不時着水したが、イギリス領シンガポールから捜索のため派遣されたカタリナにまず発見され、それから駆逐艦ストロングホールド (HMS Stronghold) が現れてウォーラスをシンガポールまで曳航する。このウォーラスはプリンス・オブ・ウェールズのウォーラスとともに、イギリス空軍の第205飛行隊 (No. 205 Squadron RAF) に引き取られた。
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マレー沖海戦
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「伊165」は海大5型潜水艦の1番艦で、「日本式潜水艦はようやくその体をなし」と評価された海大3型の改良型である。最新鋭艦ではないものの、やはり「呂65」から転任し原田の後任艦長となる鳥巣建之助(海兵58期)は、「潜水艦長としては、天にも昇る思い」であったと回想している。「伊165」は南方作戦の責任部隊であった第二艦隊(近藤信竹司令長官)隷下の第五潜水部隊(指揮官は第五潜水戦隊司令官醍醐忠重)に属し、「伊166」とともに第三十潜水隊を構成した。同潜水隊の司令はレイテ沖海戦で重巡「鈴谷」艦長として戦う寺岡正雄(海兵46期)で、原田にとって同郷の先輩であった。寺岡は「伊165」に乗り組み、原田は司令潜水艦艦長としてマレー作戦に参戦する。 「伊165」は英東洋艦隊に備えるため、開戦時にはマレー半島東方で散開線についていた。イギリス東洋艦隊にはプリンス・オブ・ウェールズ、レパルスの2戦艦が配備されており、その動向はマレー作戦の帰趨に関わると考えられていた。その所在は日本海軍の大きな関心を集めていたが、中央散開線の最東端にあった「伊165」は両戦艦の発見に成功する。1941年(昭和16年)12月9日15時15分、原田が発した敵発見電は次の通りであった。 敵レパルス型戦艦二隻見ユ、地点コチサ一一、針路三四〇度、速力十四節、一五一五 この発見電が端緒となり、翌日には帆足正音搭乗の索敵機(九六式陸攻)によって2戦艦の所在が再発見されマレー沖海戦が生起。陸上攻撃機部隊は航行中の2戦艦を撃沈したのである。軍令部で潜水艦を担当していた井浦祥二郎はこの「伊165」の発見電につき、「世に秘められた潜水艦の大きな功績というべき」としている。この後、「伊165」は乙潜水艦部隊に編入され、翌年1月にはフランス領インドシナのカムラン湾から出撃しインド洋方面で交通破壊戦に従う。「伊165」の戦果は1月に2隻(計6105t)、2月に2隻(計9961t)の商船撃沈とするものや、商船3隻(計6105t)、商船5隻とするものがある。
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マレー沖海戦
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詳細は「マレー沖海戦」を参照 1941年12月9日午前0時、マレー第一次上陸作戦を概成したと判断した馬来部隊指揮官の小沢治三郎海軍中将は、マレー第二次上陸作戦と英領北ボルネオ攻略作戦の編制に切り替えた。海軍の第一航空部隊による開戦初頭のシンガーポールに対する空襲は相当の成果を収めたと判断され、陸軍の第三飛行集団の北部マレー方面の航空作戦はおおむね順調に経過している模様であった。英航空部隊の活動は一般的に低調なため、防備に追われ、消極作戦に終始しているものと判断された。 9日午後2時30分、馬来部隊司令部は、英戦艦がセレター軍港に在泊しているという陸偵報告を受信した。英艦隊は将来的に好機をつかんで反撃に来る公算があるため、南シナ海の哨戒強化、セレター在泊中の英戦艦に航空攻撃を加えて同港からの後退を強要する必要があった。さらに作戦海面では敵潜出没の報が頻繁にあり、少なくとも3隻以上の潜水艦が作戦に従事している様子で各部隊は対潜掃蕩を徹底してその制圧撃破を図る必要もあった。これらの情勢判断に基づき、小沢中将は主に航空部隊と潜水部隊をもって英海空部隊の反撃に備え、水上部隊の大部分は次期作戦の準備を行うと定めて発令した。一方、開戦前に日本の船団の接近を知った英東洋艦隊司令長官トーマス・フィリップス中将は、英艦隊で出撃して日本船団を攻撃する決意をして、8日午後6時55分、戦艦2隻(プリンス・オブ・ウェールズ、巡洋戦艦レパルス)、駆逐艦4隻(エレクトラ、エクスプレス、テネドス、オーストラリア籍のヴァンパイア)を率いてシンガーポールを出撃していた。 9日午後3時15分、伊65(原田毫衛艦長)が艦影二を発見、英艦隊発見の第一報を打電した。その後見失ったが、10日午前4時41分、潜水艦による再発見の報で英艦隊が反転してシンガーポールに避退中と知った南方部隊指揮官:近藤信竹海軍中将は、午前5時、これを追撃するとともに、第一航空部隊及び潜水部隊に対し「敵ハ〇三四一地点フモロ四五ヲ「シンガーポール」ニ向ケ遁走中ナリ 航空部隊及び潜水部隊ハ極力此ノ敵ヲ捕捉撃滅スベシ」と命じた。第一航空部隊による索敵攻撃が行われた結果、午後1時頃、イギリス東洋艦隊の戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」と巡洋戦艦「レパルス」が撃沈された。航行中の戦艦を航空機だけで撃沈した世界初の海戦となった。
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マレー沖海戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/23 14:30 UTC 版)
渡洋爆撃に続く陸攻の晴れ舞台は1941年12月10日、対米英開戦劈頭のマレー沖海戦におけるイギリス東洋艦隊の撃滅である。 不沈艦と言われた新鋭戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」と巡洋戦艦「レパルス」を九六陸攻と一式陸攻の部隊が沈めたこの戦いは、航空機だけで作戦行動中の主力艦を沈めた初めての戦いとして世界を驚愕させた。
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マレー沖海戦
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元山空は第22航空戦隊に属し、サイゴンを基地として南方作戦に従事していたが、英国東洋艦隊所属の戦艦・プリンス・オブ・ウェールズ、レパルスの出撃を迎え、陸攻部隊による攻撃を企図した。1941年(昭和16年)12月10日午前6時、帆足は敵艦隊捜索にあたる索敵機(96式陸攻)の機長として出撃した。3番索敵線を飛行した帆足機は、帰途に就いた午前11時30分に艦隊を発見。高度3000メートルで接触し敵艦隊であることを確認し、"敵主力見ユ、北緯4度、東経103度55分、針路60度、1145"の無電を発した。その後も触敵を続け攻撃隊の攻撃を確認。英国2戦艦の沈没を見届けサイゴン基地に帰還したのは午後7時20分である。燃料は限界に来ており、機を整列させる間にエンジンは停止した。 この帆足機の行動は絶賛を受け、戦中は教科書に掲載されたほどであった。なお、この時の帆足機搭乗員は田中喜作を除き、1942年3月に帆足が行方不明となった際に運命を共にしている。
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