ポツダム宣言
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ドイツ降伏後の1945年7月17日からベルリン郊外ポツダムにおいて、イギリスの首相ウィンストン・チャーチルおよびクレメント・アトリー、アメリカ合衆国大統領ハリー・S・トルーマン、スターリンが集まり、第二次世界大戦の戦後処理についての会議であるポツダム会談が開催された。その会談の期間中の7月26日にポツダム宣言が米英と中華民国国民政府主席・蔣介石による共同声明として発表され、日本に伝達された。 ポツダム宣言を伝達された日本政府は対応を協議するため翌27日に最高戦争指導会議と閣議を開催した。阿南は「政府として発表する以上は、断固これに対抗する意見を添え、国民が動揺することないよう、この宣言をどう考えるべきかの方向性を示すべき」と主張し、「和平交渉の道を残しておくため、宣言を拒否しないことが必要」と考えていた外務大臣東郷茂徳と真っ向から対立した。議論の末、一旦は日本政府として方針を示さないが、各新聞にコメント入りで報道させて国民に周知させるという結論となった。 翌28日の新聞では、「笑止、対日降伏条件」、「共同宣言、自惚れを撃破せん、聖戦飽くまで完遂」「白昼夢 錯覚を露呈」などという新聞社による論評が加えられて報じられたが、各社とも扱いは小さく、国民に大きな影響はなかった。しかし、支那派遣軍総司令岡村寧次大将の「ポツダム宣言は滑稽というべし」という意見に代表されるように、阿南は陸軍内部からの反撥もあって、再度「発表する以上は宣言を拒否することを明らかにすべき」と主張、この意見には和平派ながら同じく海軍の突き上げにあっていた米内も賛同した。同日、鈴木貫太郎は記者会見で「共同声明はカイロ会談の焼直しと思う、政府としては重大な価値あるものとは認めず“黙殺”し、我々は戦争完遂に邁進する」と述べ、翌日の29日の新聞各紙で「政府は黙殺」などと報道され、さらに海外では「黙殺」が「reject(拒絶)」と報道された。トルーマンは7月25日の日記に「日本がポツダム宣言を受諾しないことを確信している」と書いているなど、日本が一旦はポツダム宣言を拒絶することを予測しており、日本への原子爆弾投下を合理化する理由ともなった。戦後、鈴木はこの発言を振り返って「この一言は後々に至るまで、余の誠に遺憾と思う点であり・・・」と悔やんでいる。 この報道がなされて以降、日本政府はソ連を通じた和平に期待するという形で貴重な時間を無駄に費やしていった。そして、日本側のポツダム宣言拒否を大義名分として、アメリカ軍による1945年8月6日の広島への原子爆弾投下が行われ、広島は1発の原子爆弾で壊滅した。翌7日にはトルーマンが「我々は20億ドルを投じて歴史的な賭けを行い、そして勝ったのである」「広島に投下した爆弾は戦争に革命的な変化をあたえる原子爆弾であり、日本が降伏に応じない限り、さらに他の都市にも投下する」という声明を発表した。同日、午後から関係閣僚会議が開催され原爆について協議されたが、阿南は「たとえトルーマンが原子爆弾を投下したと声明しても、それは法螺かも知れぬ」と強く主張した。阿南を含む軍部は、自ら原子爆弾の開発を行ったこともあって薄々は解ってはいながら、原爆を認めて公表すれば軍と国民への士気の影響が大きすぎると考えて、協議の結果、詳細な調査が必要ということになり、大本営発表では原爆ではなく「新型爆弾」とされ、詳細は不明と報じられた。
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ポツダム宣言
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 07:35 UTC 版)
日本国憲法第9条の立法に至る背景には、大西洋憲章(1941年)、ポツダム宣言(1945年)、SWNCC228文書(1946年)などが挙げられる。このうち1945年(昭和20年)7月26日に発表されたポツダム宣言では、日本軍の武装解除とともに、再軍備の防止を示唆する条項が盛り込まれた。 Potsdam Declaration(7) Until such a new order is established and until there is convincing proof that Japan's war-making power is destroyed, points in Japanese territory to be designated by the Allies shall be occupied to secure the achievement of the basic objectives we are here setting forth. (9) The Japanese military forces, after being completely disarmed, shall be permitted to return to their homes with the opportunity to lead peaceful and productive lives. (11) Japan shall be permitted to maintain such industries as will sustain her economy and permit the exaction of just reparations in kind, but not those which would enable her to re-arm for war. To this end, access to, as distinguished from control of, raw materials shall be permitted. Eventual Japanese, participation in world trade relations shall be permitted. — Potsdam Declaration ポツダム宣言第七條右ノ如キ新秩序ガ建設セラレ且日本国ノ戦争遂行能力ガ破砕セラレタルコトノ確証アルニ至ル迄ハ聯合国ノ指定スベキ日本国領域内ノ諸地点ハ吾等ノ茲ニ指示スル基本的目的ノ達成ヲ確保スル為占領セラルベシ 第九條日本国軍隊ハ完全ニ武装ヲ解除セラレタル後各自ノ家庭ニ復帰シ平和的且生産的ノ生活ヲ営ムノ機会ヲ得シメラルベシ 第十一條日本国ハ其ノ経済ヲ支持シ且公正ナル実物賠償ノ取立ヲ可能ナラシムルガ如キ産業ヲ維持スルコトヲ許サルベシ但シ日本国ヲシテ戦争ノ為再軍備ヲ為スコトヲ得シムルガ如キ産業ハ此ノ限ニ在ラズ右目的ノ為原料ノ入手(其ノ支配トハ之ヲ区別ス)ヲ許可サルベシ日本国ハ将来世界貿易関係ヘノ参加ヲ許サルベシ — ポツダム宣言
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ポツダム宣言
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 00:44 UTC 版)
ドイツ降伏後の1945年(昭和20年)7月17日から8月2日にかけ、アメリカ大統領トルーマン、大英帝国首相チャーチルおよびクレメント・アトリー、ソ連書記長スターリンがベルリン郊外ポツダムに集まり、第二次世界大戦の戦後処理について協議した(ポツダム会談)。そして、この会談の期間中の1945年7月26日に、主にアメリカによって作成された後、大英帝国が修正を加え中華民国が同意していたポツダム宣言が3か国の共同声明として発表された。宣言は日本に無条件降伏を迫り、その後の連合国による日本占領と、日本軍国主義勢力の排除、カイロ宣言の履行、日本の主権を本州・北海道・九州・四国および連合国が決める諸小島に制限すること、軍隊の武装解除、戦争犯罪人の処罰、民主主義・基本的人権の確立など、全13項が日本に伝達された。 ポツダム宣言を伝達された日本政府は対応を協議するため翌27日に最高戦争指導会議と閣議を開催した。議論の末、一旦は日本政府として方針を示さないが、各新聞にコメント入りで報道させて国民に周知させるという結論となった。翌28日の新聞では、「笑止、対日降伏条件」、「共同宣言、自惚れを撃破せん、聖戦飽くまで完遂」「白昼夢 錯覚を露呈」などという新聞社による論評が加えられて報じられたが、各社とも扱いは小さく、国民に大きな影響はなかった。しかし、支那派遣軍総司令岡村寧次大将の「ポツダム宣言は滑稽というべし」という意見に代表されるように、首相の鈴木は軍の突き上げによって、やむなく記者会見で「共同声明はカイロ会談の焼直しと思う、政府としては重大な価値あるものとは認めず“黙殺”し、我々は戦争完遂に邁進する」との談話を発表したが、これが新聞各紙で「政府は黙殺」などと報道され、さらに海外では「黙殺」が「reject(拒絶)」と報道された。ポツダム会談中にトルーマンの元にトリニティ実験の成功の報がもたらされると、トルーマンは日本に降伏を促す手段として原爆の使用を決定したが、トルーマンは7月25日の日記に「日本がポツダム宣言を受諾しないことを確信している」と書いているなど、一旦はポツダム宣言を拒絶されることを予測しており、鈴木の“黙殺”は日本への原子爆弾投下を正当化する理由ともなった。戦後、鈴木はこの発言を振り返って「この一言は後々に至るまで、余の誠に遺憾と思う点であり・・・」と悔やんでいる。
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ポツダム宣言
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 05:12 UTC 版)
和訳原文(抜粋) ポツダム宣言 八 「カイロ」宣言ノ條項ハ履行セラルベク又日本國ノ主權ハ本州、北海道、九州及四國竝ニ吾等ノ決定スル諸小島ニ局限セラルベシ 現代文 「カイロ」宣言の条項は履行されなければならず、また、日本国の主権は本州、北海道、九州、および四国ならびにわれらの決定する諸小島に限られなければならない ポツダム宣言ではカイロ宣言を履行されなければならないとしている。カイロ宣言では南樺太・千島には言及されておらず、ポツダム宣言でも千島列島・南樺太に関する言及は無い。ただし、四国よりも大きい樺太が諸小島に含まれるとも解釈できない。宣言ではソ連への千島・南樺太の譲与にも言及がない。
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