トロン仕様チップ(TRONCHIP)
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「TRONプロジェクト」の記事における「トロン仕様チップ(TRONCHIP)」の解説
TRONプロジェクトにおけるチップ(マイクロプロセッサ、現在で言うCPUに相当)の設計を目的とするサブプロジェクト。1986年開始。 アーキテクチャはCISC型を採用している。チップの設計においては、坂村は命令セットの設計のみを行い、実際の回路の設計は生産に当たる各社で行う、と言う形式を取った。そのため、同じアーキテクチャの製品が複数のメーカーから発売された。この方式は、後に組み込みCPU市場を寡占するARM社でも採用されることになる。 トロン仕様チップの策定は東京大学坂村研究室が行ったが、策定当初より日立製作所が積極的に関与した。1983年当時、日立はモトローラ68000のセカンドソースを製造していたが、当時のアメリカの各CPUメーカーは日本メーカーに対するCPUのライセンス供与に消極的になりつつあり、モトローラからの独立を果たそうとする日立のマイコン部門(日立製作所武蔵工場、日立製作所半導体事業部を経て、後のルネサス武蔵)は1983年頃より32bitマイコンの自力開発を進めていた。1986年5月、日立がモトローラのセカンドソースを利用して1985年より発売して大ヒット中の「ZTATマイコン」に関して、ついにモトローラからのライセンスを得られず、牧本次生(1986年当時は日立製作所武蔵工場長)率いる日立のマイコン部隊はモトローラに「ワインドダウン」を要求されるという屈辱を受ける。そのため奮起した日立のマイコン部隊は日立独自の新アーキテクチャ「H32」の仕様策定を進めていたが、1社単独で開発を行うのはリスクが大きいと判断し、日立製作所半導体事業部長の金原取締役に働きかけ、インテルのセカンドソースを製造していた富士通と1986年7月に提携して「GMICROグループ」を結成、2社共同開発体制を取ることにする。その過程で、アーキテクチャとして坂村の提唱するトロンチップを採用することで決定。1987年には三菱もGMICROグループに加盟。その頃には他のメーカーもトロンチップに興味を示し始めた。 最終的に、トロンチップの開発・製造には、富士通、三菱電機、日立製作所、松下電器産業、東芝、沖電気工業、の6社が参加した。主な実装としては、富士通・三菱電機・日立の3社(GMICROグループ)の共同開発によるGMICROシリーズや、沖電気の通信用システムで使われたOKI O32などが挙げられ、各社の製品は1988年頃よりサンプル出荷、1989年頃より量産された。 TRONプロジェクトにおいては、OSとCPUの仕様が並行して開発されたことが大きな特徴である。『トロン仕様チップ標準ハンドブック』によると、坂村はITRONとBTRONを「目標OS」としてアーキテクチャを決定したとしている。命令セットを設計した坂村によると、「仕様策定の段階でソフトウェアとハードウェアの総合した最適化の考え方が取り入れられている」とのことで、具体的には「オペレーティングシステムの高速実行に向いた命令セット、あるいはコンパイラ開発に有利な命令セットが準備されている」とのこと。坂村は1985年当時、ワークステーション並みの性能でパソコン並みの低価格なマシンである「スーパーパーソナルコンピュータ」の概念を提唱しており、トロンチップを主にパソコン向けとして想定していた。 しかし、トロンチップにメインフレーム用のIBMのOSを載せ、「IBM互換機の下位機種を作る」つもりの日立と富士通に、坂村は押し切られた。ミニコン・オフコンにも使いたい日立や富士通の意見を入れる形で、チップは高機能化。日立でTRONチップの設計が完了した1987年7月の時点では、TRON仕様OSであるリアルタイムOS(ITRON)やビジネス用OS(BTRON)の高速処理はもちろんの事、UNIXやその他のOSでも高速処理が行える汎用プロセッサとして設計されていた、と『日立評論』では語られているが、坂村の回想によると、「個人用のパソコンにUNIXを載せる」などの当時の坂村の構想は、実際は全く理解されず、「まずIBMのOSを載せる」と言われたとのこと。 トロン仕様チップでは、MMUなどを搭載した「L1(Level 1)」仕様と同時に、「L1」仕様から命令再実行(リラン)機能とMMUを除去した(ITRONとμBTRONの動作を想定した)「L1R(Level 1 Real)」仕様が規定された。『トロン仕様チップ標準ハンドブック』が刊行された1991年10月の時点では、将来製造されるトロンチップに実装される予定の「L2(Level 2)」も策定されていた。また、32ビット版トロンチップの設計時点で64ビットまでの上位拡張性が確保されており、64ビット版トロンチップの仕様である「LX (eXtension)」仕様も策定される予定であった。 トロンチップが各社から出そろった1990年当時、32bitのCPUはほとんど普及していなかったが、今後の普及が予想されており、例えばGMICROグループでは、組み込みやパーソナルワークステーション向けのGMICRO/100(日立の資料では「H32/100」と呼称しているが、実際の製造は三菱が担当し「M32」としてリリース)、エンジニアリングワークステーションやFAコントローラ向けのGMICRO/200(日立が「H32/200」としてリリース)、スーパーミニコンやオフィスワークステーション向けのGMICRO/300(日立の資料では「H32/300」と呼称しているが、実際の製造は富士通が担当し「F32」としてリリース)、と規模に応じて3種類を用意し、幅広い要求に応えられるようにしていた。 しかし組み込み用としては、トロンチップは元々パソコンやワークステーション用として開発されていたこともあって、COBOLコンパイラを使うときのための十進演算命令や、MMUを搭載するなど組み込みには不相応なほど規模が大きく、コストパフォーマンスが悪すぎたため、成功しなかった(日立のGmicro/200のトランジスタ数は730K、MMUを搭載しない三菱のGmicro/100ですら340Kであり、トランジスタ数70KのHD68000はおろか273Kの68030すら上回る。ちなみに1994年発売のSH-2のトランジスタ数は450Kで、トロンチップH32シリーズと比較するとSHシリーズがどれだけ高コスパであったかが分かる)。例えば日立では、1988年12月にはトロンチップのH32/200(日立版のGMICRO/200)にITRONを載せた開発用シングルボードコンピュータをリリースしており、制御用プロセッサとしての需要を早くから見込んでいたが、組み込み用としてはITRONを搭載した8bitのH8シリーズ(1988年6月リリース)が主力であり続けた。H8とH16がモトローラの特許侵害として訴えられ、H16は1989年1月より法廷での特許紛争が始まったために製造ができなくなったことにより、1990年頃の日立ではH16を代替する次世代組み込み用マイコンの開発が急務となっていたが、来るべきマルチメディア時代において、日立の既存の技術であるトロンチップのH32やRISC型チップのHPPA(PA-RISC)ではコストパフォーマンスの点で戦えない、と木原利昌が率いる日立のマイコン部門は1990年に判断。次世代CPUの設計は河崎俊平(日立製作所半導体事業部マイコン設計部)に一任され、H8シリーズと並行してSHマイコンの開発が開始された。ちなみにSHシリーズがMMUを搭載するのは日立がマイクロソフトと提携してWindows CEの搭載を前提として開発されたSH-3(1995年リリース)以降である。 パソコン・オフコン・ワークステーション用としても採用例が無く、同時期にはPA-RISC(日立のHP/PA互換CPUで、マイコン部隊がいる日立武蔵より「格上」とされる、日立の中央研究所が開発)やMC68040が存在したこともあり、日立のマイコン部門が設計したH32を、日立のオフコン部門は採用しなかった。『日立評論』1990年1月号ではH32シリーズのファミリー展開に大いに期待を寄せているが、『日立評論』1991年1月号ではH8シリーズのH8/300しか取り上げられておらず、日立(のマイコン部門)は1990年内にH32シリーズの多展開を諦めたようだ。 組み込み専用のアーキテクチャとなると、敢えてCISC型で行く意味はなく、ちょうどそのころ組み込み用CPUとしてRISC型のアーキテクチャが注目されていたこともあり、各社とも1990年頃には組み込み用32ビットCPUとしてのTRONチップの継続を諦め、RISCによる独自アーキテクチャの開発が行われることとなった。日立でも、1992年11月にはH32シリーズの後継として、高性能、低消費電力、低価格を同時に満たすRISC型CPUのSH-1をリリースし、SHシリーズを32bit版組み込み用CPUの主力としている。 一方、NTTによるCTRONプロジェクトは成功していたため、トロンチップは1990年代中頃まで電話交換機用プロセッサとして各社で開発が続けられた。例えば日立もNTTに通信機を納入しているため、CTRONを載せた通信用プラットフォームを作るためにはGMICRO/300を使った方がコストパフォーマンスが高いと日立の情報システム部門は判断し、1993年にはGMICRO/500を完成させるなど、トロンチップの開発を続けた。 1994年に三菱がリリースしたGmicro/400(40MHz)が最後のトロンチップとなる。ただし、性能自体は日立のGmicro/500(66MHz)の方が高い。 坂村自身の考えでは、トロンチップを制作した各電機メーカーからトロンチップを使ったパソコンが出なかった理由として、半導体部門が作ったトロンチップをコンピュータ部門は「おもちゃ」として見ておらず、半導体部門が勝手にコンピュータを作れない以上、トロンチップはソフトウェア開発装置かCPU評価基板として作られるしかなかった、としている。また、半導体部門を抱える電機メーカー以外のメーカーからトロンチップを使ったパソコンが出なかった理由としては、「周辺チップの不足」を理由に挙げており、各社がCPUを作ることを第一義としていたため周辺チップが揃わず、周辺チップが揃ったIntelのチップと比べてパソコンが作りづらかった、としている。そして、パソコンと言う応用を実現できなかったために、組み込みにも使われなかった、結果としてトロンチップは普及しなかった、と考えている。坂村は、1993年にパーソナルメディア社が制作した、日立のGmicro/300にBTRON仕様OSを載せたパソコンの試作機が、Intel iAPX486で動くWindows 3.1と比較して非常に軽快に作動したことや、1993年にリリースされた日立のGmicro/500が、同年にリリースされたIntelのPentiumと比べても遜色ない性能・技術であったことから、トロンチップがパソコンに向いてなかったわけでは無い、と考えている。 1986年10月に「マイコン独立宣言」を発表して日立の独自マイコンHシリーズ(H8・H16・H32)の開発を指揮した牧本次生(1989年当時は「(半セ)」こと日立製作所半導体事業部半導体設計開発センター長、後に日立製作所専務取締役)の回想によると、トロンチップが失敗したのは「日米貿易摩擦のターゲットとして取り上げられた」ためとのことで、Hシリーズの後継であるSHシリーズの開発を指揮した木原利昌(当時は半導体設計開発センター・マイコン設計部長、後にSuperH,Inc.のCEO)の回想によると、トロンチップが組み込みに使えなかったのはコスパが悪かったからとのこと。なお、SHマイコンを設計した河崎俊平は、トロンチップの浮動小数点演算ユニット「GMICRO/FPU」の設計の中心人物として『TRONプロジェクト '88-'89』にも名を連ねているが、CPUの設計がしたかったのにFPUの仕事をさせられた上に、当時は既にトロンチップの市場がしぼみかけていたので仕事がイヤだったが、「ガマンして働いていた」とのこと。SHマイコンの命令セットをほぼ一人で設計した河崎は、命令セットの設計に大勢が関わり、各人が提案する命令を寄せ集めてほとんど使わない命令をたくさん搭載するような従来の日立の方式を「まるで万葉集」と批判している(編注:トロンチップが失敗した理由として、マイコンを売りたいマイコン部門と、大型機を売りたいコンピュータ部門との意識の差異を坂村は指摘しているが、トロンチップを設計した日立のマイコン部門・(半セ)の内部でも、日米貿易摩擦に巻き込まれた牧本らの世代と、SHマイコンで成功した木原らの世代では、トロンチップの評価に差異があることが分かる)。 統一規格であったものの、各社で用途に応じて様々な工夫を行い、例えば三菱のGMICRO/200は宇宙線対策が施され、技術試験衛星「きく7号」に搭載され、32bitのプロセッサとしては初めて宇宙に行った。 パーソナルメディア社が1993年に制作した、BTRONを搭載したパソコンの試作機「SIGBTRON基本ボード」でGmicro/300が採用され、1995年に発売したBTRONワークステーションMCUBEでGmicro/500が採用された。 また、日本の電機メーカーは、TRONチップの開発を通じてマイコン開発のノウハウを蓄積した。後の各社の32ビットマイコンの命令セットにいくらかの影響がみられる。特に三菱・M16シリーズはトロンチップM32の下位版として開発され、トロンチップにかなり近い設計思想であり、販売面でも組み込み用として日立のH8シリーズと並ぶほど売れたという。日立(特にSHの開発陣)におけるトロンチップの評価はとても低いが、トロンチップのコスパの悪さを反面教師として開発されたという点で、日立・SHシリーズにも影響を与えた。
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