特許紛争
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「ヘンリー・ベッセマー」の記事における「特許紛争」の解説
もちろん、そのような重要な特許がほうっておかれるはずもなく、その特許に対する無効性の訴えが様々な形で起きた。しかしベッセマーはそれらを訴訟に持ち込むことなく処理し、ある特許を買い取らざるを得ないということも生じたが、その特許は1859年に消滅し、心配がなくなった。ただ1つ、ロバート・フォレスター・マシェットの件だけが残った。 マシェットの製法は根本的というわけではなく、ベッセマーも1865年に自身の製法だけで鋼のサンプルを製造してそれを証明した。しかし、ベッセマーの製鋼法を使うとき常にマシェットの製法も採用しているのが実状であり、そこにマシェットの製法の価値が示されていた。マシェットの特許が成立していたかどうかは不明だが、1866年、マシェットの16歳の娘が1人でロンドンまで旅をし、ヘンリー・ベッセマーのオフィスで彼に会い、ベッセマーの成功は彼女の父の業績あってこそだと主張した。ベッセマーはマシェットに毎年300ポンドを支払うことにした。実際これを25年間続けたので、総額はかなりの金額になった。これをマシェットに訴訟を起こさせないための行為と見ることもできる。 1866年、ベッセマーはアメリカの鉄道技師 Zerah Colburn に匿名で資金を提供し、技術系の週刊紙 Engineering をロンドンで発行させた。Colburn の恩人の名が明らかになるのは何年もたってからである。Engineering の発刊に先駆けて、Colburn は The Engineer の誌上でベッセマーの製鋼業に支持を表明していた。
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特許紛争
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「リチウムイオン二次電池」の記事における「特許紛争」の解説
1993年に日本電信電話 (NTT) からテキサス大学のジョン・グッドイナフ研究室に研究員として派遣された職員が機密保持に関する契約に反して、リン酸鉄リチウム電池に関する機密情報を自分の勤務先に漏洩し、1995年11月、NTTが密かに特許を出願して日本の電子機器メーカーに売り込みをはじめた。 テキサス大学はNTTに対して5億ドルの損害賠償訴訟を起こしたが、結果的にNTTがテキサス大学に3000万ドルを支払い、日本での特許から生じる利益の一部も大学に譲渡する内容で和解が成立した。
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特許紛争
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「グリエルモ・マルコーニ」の記事における「特許紛争」の解説
マルコーニの業績は他の様々な科学者や発明家の成果の上に成り立っている。彼の火花送信機とコヒーラ検波器も先人が設計したものと似ており、特にオリバー・ロッジが行った一連の公開実験(1894年)の装置によく似ている。マルコーニはこの組み合わせで最も遠距離まで信号を届かせることができると主張していたが、ニコラ・テスラなどはその点についても異論を述べている。 1900年、アレクサンドル・ポポフはロシアの電気技術者会議で「マルコーニの行っている電気振動による信号の送受信は、まるで新規性がない。アメリカでは、1893年に有名な技術者ニコラ・テスラが同じ実験を実施している」と述べている。 イタリアのファシスト党は無線通信技術の創始者をマルコーニだとした。彼の貢献が特許に値するかどうかについては異論もあり、ヘルツ、ブランリー、テスラ、ロッジといった先人の発明に似すぎているという指摘もある。 マルコーニの装置は基本的に同調回路がなく、混信を防ぐため、ひとつの地域で運用可能な火花送信機の数が限定されることになった。マルコーニはこの欠点への対策としてより洗練された "four-circuit" 設計の特許を取得している。これは、送信側と受信側のアンテナに同調回路を装備したものである。この特許は1900年4月26日にイギリスで出願された(英国特許番号7777)。しかし、そのずっと以前にニコラ・テスラとオリバー・ロッジが電気同調回路を考案している。1911年、マルコーニ社は防衛手段としてオリバー・ロッジの1897年の同調回路の特許を買い取っている。そのため、7777特許とそれに対応する各国で出願された特許は、国によって特許として認められた場合もあれば、全く無効とされた場合もある。 1943年、マルコーニの無線に関する複数の特許についてのアメリカでの訴訟が結審した。判決は、ニコラ・テスラ、オリバー・ロッジ、ジョン・ストーン・ストーンらの先例やマルコーニ自身の別の先例(例えば アメリカ合衆国特許第 763,772号)に基づいて下された。アメリカ最高裁判所は次のように決定した。 1897年9月2日出願、1900年3月20日登録のテスラの特許第645,576号は、送信機と受信機がそれぞれ2つの回路を持つ4回路システムに関するもので、4回路全てを同じ周波数に同調させることを推奨している。その装置は電力伝送に関するものだが、(彼は)変更なしでそれを無線通信に使えることを認識していた。 この判決に際して法廷は次のように注記している。 最初に無線通信に成功した人物として、マルコーニの評価は最初の特許(11,913号、この法廷で問題としている部分とは無関係)にかかっている。どんなに評価の高い人物であっても、その後の無線関係の特許が全て無条件で認められるわけではない。特許訴訟は、当事者の名声ではなく、それぞれの主張と証拠の綿密な調査によって決定されなければならない。 また、次のようにも述べている。 2人の発明者の発明の優先順位の決定は、先に発明したことを立証することによってなされる。 この裁判では、マルコーニのイギリスでの特許や無線通信の発明者としての名声を議論しなかった。 この件では、マルコーニの特許のほとんどが(アメリカでは)無効とされた。当時、アメリカ陸軍がマルコーニ社から特許侵害で損害賠償を請求されていたため、特許を無効とすることで侵害もなかったとするという意図があったと言われている。もともと、テスラの特許が既に成立していたにも関わらず、マルコーニの特許が成立した背景にも、テスラがアメリカ政府を特許侵害で訴えていたからだとする説もある。それとは対照的にイギリスではマルコーニの特許7777号の有効性が法廷で認められた。一連の特許紛争は大企業間の覇権争いの一部に過ぎない。 1895年、コルカタではジャガディッシュ・チャンドラ・ボースがマルコーニのソールズベリー平野での実験(1897年5月)より前に無線通信の公開実験を行っている。1896年にはイギリスの新聞がボースの実験について「この発明者(ボース)は約1マイルの距離で無線を使って信号を送ることに世界で初めて成功した。これには様々な重要な応用が可能である」と記していた。マルコーニは明らかにこのことを知っていたが、独占的な特許権を主張した。
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