トラファルガーの海戦
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「ウィリアム・ビーティ」の記事における「トラファルガーの海戦」の解説
1805年10月21日、トラファルガーの海戦の当日には、「ヴィクトリー」には815人が乗り組んでいて、そのうち57人が戦死、109人が負傷した。ビーティ1人で10の切断手術に駆り出された。大部分は脚の切断で、この手術により多くの命が救われた。負傷した者のうち、後に死亡したのはわずか6人だった。しかし、ネルソン自身が負傷した時は、ビーティは治療を施さなかった。これについてビーティは、もう手の施しようがなかったのだと主張した。 ネルソンは自分が死んだ場合、当時の他の海軍軍人や乗員のように、単に水葬されるのではなくて、故国に埋葬してもらいたいと話していた。そこでビーティは、イギリスに帰り着くまで提督の遺体を保存する必要があり、ブランデーの樽に漬けておくことにした。1805年10月28日、ビーティは、遺体から放出される気体類のため樽の栓が吹き飛んだことを話して、位置についていた歩哨の海兵を驚かせた。ジブラルタルに着いてから、樽にはエチルアルコールがなみなみと入れられた。そうすることで、遺体の空洞となった部分が満たされるからだった 。この事件が、イギリスの乗員が、遺体の入っていた樽のブランデーを飲んだとする伝説につながったものと思われる。ヴィクトリーがノアに近づいたため、ビーティは検死を行い、致命傷のもととなった銃弾を除去し、その後に報告書"A Concise History of the Wound"(致命傷についての簡潔な事実)を書いた。ビーティはロンドンで行われたネルソンの国葬に出席した。ヴィクトリーは1806年1月に退役し、ビーティはシアネスの病院船サセックスの軍医となった。そこで彼は"Authentic Narrative of the Death of Lord Nelson"(ネルソン卿の戦死の真実)をものし、これは結局1807年の初頭に出版された。
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トラファルガーの海戦
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「トマス・ハーディ (イギリス海軍)」の記事における「トラファルガーの海戦」の解説
1805年10月21日、「ヴィクトリー」が敵の防御線に近づき、ハーディはネルソンに、必ずや起こるであろう混乱を避けるために、ネルソンに他の艦に移るように促した。しかしネルソンは拒否した。「ヴィクトリー」は風上に戦列を率いて、トラファルガーの海戦の第一章である激しい砲撃を浴びた。とある局面で、艦の破片がハーディの靴のバックルをはがしたが、ネルソンはそれを見てこう言った。「これはかなりの激戦だな、長くは続かんぞ」ネルソンが砲撃された時ハーディは一緒にいたが、戦闘が終わりに近づき、ネルソンが瀕死の床に横たわっている時、この両者は共に多くの会話を交わした。ハーディはネルソンに、14隻ないしは15隻のイギリス艦が敵を打ち負かしたことを伝えた、ネルソンはこれにこう答えた。「20隻は敵を敗れたはずだが」彼らの最後の会話では、ハーディに艦隊に投錨するよう注意した。続けてネルソンはこうも言った、「わが愛するハミルトン夫人、ハーディ、あの気の毒な夫人の面倒を見てくれ。キスしてくれ、ハーディ」そして最後の言葉が「君に神のご加護があらんことを」「ヴィクトリー」はジブラルタルに曳航され、1805年10月28日にジブラルタルに入港して、大がかりな修理に入り、11月4日にイギリスに向けて出港して、12月5日にポーツマスに戻った。そこでネルソンの遺体は、シアネス(英語版)の長官ジョージ・グレイのヨットに乗せられ、グリニッジへと運ばれた。ハーディはネルソンの葬礼で、彼の将官旗の1枚を持って進んだ。
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トラファルガーの海戦
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「カスバート・コリングウッド」の記事における「トラファルガーの海戦」の解説
詳細は「トラファルガーの海戦」を参照 フランス・スペイン艦隊は最終的に1805年10月にカディスを出航し、直後にトラファルガーの海戦が生起した。フランスのピエール=シャルル・ヴィルヌーヴ提督は艦隊を三日月型の縦陣にしていたが、ネルソンのヴィクトリーとコリングウッドのロイヤル・ソブリンに率いられたイギリスの2つの戦列で接近していった。ロイヤル・ソブリンは他の列艦に比べて高速を発揮したが、これは主に船体の銅被覆を交換したばかりで抵抗が少なかったためである。ロイヤル・ソブリンが後続を引き離して単独で敵艦隊に突入していくのを見たネルソンは指さしながら「コリングウッドのすばらしい戦い方を見たまえ!」と言ったが、このときコリングウッドもまるでネルソンに返答するかのように「ネルソンはこの場にいたかっただろうね」と艦長に語ったと言われている。 ロイヤル・ソブリンはまずスペインの旗艦サンタ・アナに接近し、激しい砲撃を浴びせて沈没寸前に追い込む。しかしサンタ・アナの救援に駆けつけた敵艦の集中砲火を受けてロイヤル・ソブリンもまた手ひどい損傷を負ってしまう。しかしサンタ・アナの降伏直後に僚艦が戦闘に加わり、窮地を脱する。この海戦でネルソンが死亡したため、コリングウッドはイギリス側の最高指揮官となったが、ネルソンが「錨を降ろせ」と遺言したのにも関わらず無視した。このため捕獲艦の多くが海戦に続いて発生した嵐で失われることになった。 コリングウッドは海戦後に「コールドバーンとヒースプールのコリングウッド男爵」に叙せられ、国会両院から2000ポンドの年金が贈られることになった。 コリングウッドは軍務についていないとき、ノーサンバーランド州のモーペスに住んでいた。彼は「幸せについて考えるとき、必ずモーペスのことを思い出す」と述べていたことが知られている。
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トラファルガーの海戦
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「第三次対仏大同盟」の記事における「トラファルガーの海戦」の解説
詳細は「トラファルガーの海戦」を参照 イギリス本土へ侵攻するためには、ドーバー海峡の制海権を獲得しなくてはならなかった。ナポレオンはスペインと協力して多数の軍船と輸送船を建造した。さらにイギリス海軍の戦力を分散させるため、イギリス領西インド諸島の攻撃を計画、ヴィルヌーヴ率いるフランス・スペイン連合艦隊を派遣した。しかし、西インド諸島への攻撃は失敗に終わった。ヴィルヌーヴ艦隊は本国への帰路で、カルダー率いるイギリス艦隊と交戦、7月22日のフィニステレ岬の海戦に敗れ、カディス港へと避退した。 8月、内陸部での戦闘のため、ナポレオンはブローニュの兵員をライン方面へ移動させた。事実上、この時点でイギリス侵攻作戦を断念したのである。10月19日、フランス艦隊がナポリへ向けて出航すると、ネルソン率いるイギリス艦隊がこれを捕捉し、10月21日、トラファルガーの海戦でフランス艦隊を撃破した。海戦によりイギリスはネルソン提督を失ったが、フランスの海軍力は大きく減退させられ、ナポレオンは制海権の奪取は不可能と判断し、イギリス侵攻作戦を完全に中止した。
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トラファルガーの海戦
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「ジョン・クック (イギリス海軍)」の記事における「トラファルガーの海戦」の解説
アミアンの和約の後、クックは陸上で半給生活をしばらく続け、その後、1803年のナポレオン戦争の勃発と共に艦隊に呼び戻された。クックは、プリマスでウィリアム・ヤング(英語版)提督から旗艦艦長を打診されたが、クックはうまくそれを断り、その代わりに現役の指揮官を願い出て、1805年4月25日に地中海艦隊の「ベレロフォン」の指揮官に就任した。その年の5月、ピエール・シャルル・ヴィルヌーヴ指揮下の、フランスとスペインの合同作戦による大規模な艦隊がトゥーロンを出た。トラファルガー作戦の開始に向けて、クックはカスバート・コリングウッド中将指揮下の遊撃艦隊に参加した。この遊撃隊は6月9日にカディスを出港し、コリングウッドは「ベレロフォン」ほか3隻の艦を派遣して、リチャード・ビッカートン(英語版)の指揮のもとカルタヘナを封鎖した。仏西両艦隊が8月20日にカディスに入港した際、コリングウッドはビッカートンの軍を召集して、港の封鎖を開始した。多くの艦がコリングウッドを支援し、その後コリングウッドはホレーショ・ネルソンと役目を交代した。クックはこの時、「ホレーショ・ネルソンに、我が軍の野望を担わせることをすべて約束する」と口にしたと言われる。ネルソンはそれ以前にヴィルヌーヴの艦隊をカディスで捕らえたことがあり、彼らが逃げ帰ってくるであろうことを予期して、港を封鎖し続けた。 フランスとスペインの艦隊は、1805年10月18日にカディスに戻ったが、すぐにネルソンに追跡され、10月21日に戦闘状態に突入した。この戦闘で、ネルソンは艦隊を2つに分けた。風下縦列はネルソン指揮下の縦列で北へ向かい、風下縦列は「ロイヤル・ソヴリン」座乗のコリングウッドに指揮されて南へ向かうことになった。クックはコリングウッドの風下縦列の5番目に位置して、仏西合同艦隊との交戦で、最初の砲火を構える艦の1隻だった。クックは、自分が戦死した時のために、一等海尉のウィリアム・プライス・カンビー(英語版)と彼の教官であるエドワード・オーヴァートンに、ネルソンの命令を伝えると言う異例の方法を取った。 「ベレロフォン」は間もなく、フランスとの接近戦に入り、敵の防御線を破って「レーグル(英語版)」と砲火を交わした。この艦隊には他のフランス艦もいたため、「レーグル」の艤装と檣頭(マストヘッド)とは、マスケット銃を持った兵士と擲弾兵とで埋め尽くされ、「ベレロフォン」を射程内にとらえており、「ベレロフォン」艦上におびただしい水兵の遺体がさらされていた。クックとカンビー、オーヴァートンが立っていた船尾甲板にも多くの砲撃が放たれた。カンビーは、クックがこの期に及んでまだ制服を、それも、肩章で、艦長の地位であることが敵軍の狙撃兵にわかる制服を着ていたことを、驚きを持って書き留めている。クックは肩章を外すのを忘れており、また肩章が身の危険を招くことも認めていた。しかし彼は答えた「時すでに遅しだ。私はこの現状をわきまえている、しかし死ぬときは潔く死ぬつもりだ」 戦闘が進むにつれ、「レーグル」のピエール=パウル・グレージュ艦長は、乗員に、「ベレロフォン」に乗り込んで、この艦を強奪するように命令した。グレージュには、数に勝る自軍の兵が、イギリス軍の乗員を圧倒するという期待もあった。クックはカンビーを下げ甲板にやって、そこの大砲がフランス艦を砲撃し続けているかを確かめさせた、戦闘は上甲板の方で続いていたからだ。そしてクック自身は、「ベレロフォン」の船尾甲板に砲弾を浴びせているフランス軍に突進し、敵の士官を射殺して、その後ろにいた兵たちとの白兵戦に持ち込んだ。何分かののち、カンビーは援軍と共に上甲板へと戻り、段索の上で致命傷を負っているオーヴァートンのところを通り過ぎた。「ベレロフォン」もかなりの損害を受けており、やはりそこにいた操舵員が、混戦状態の中でクックが倒れたと伝えた。カンビーの命令により、「ベレロフォン」のフランス軍は一掃された。そして彼は、船尾甲板にクックの遺体を発見した。2つの銃弾が彼の胸を貫いていた。クックの最後の言葉は「しばらく静かに休ませてくれ、カンビーに降伏しないように伝えろ」だった。 満身創痍の「ベレロフォン」の指揮を執ったのはカンビーだった。彼は艦の大砲を「レーグル」に向け、他のイギリス艦が到着した後、このフランス艦を降伏させた。「ベレロフォン」の損害は悲惨なものであった、27人が戦死し、127人が負傷していた 。戦闘の後の激しい嵐で、「レーグル」は行方不明になったが、「ベレロフォン」は、主にカンビーのリーダーシップによって、迷わずに済んだ。彼は後に、この時の功績によってポストキャプテンに昇進した。クックの遺体は翌日、ベルロフォンの、致命傷を負って死んだ他の者達と共に水葬にされた。
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トラファルガーの海戦
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「トラファルガー戦役」の記事における「トラファルガーの海戦」の解説
詳細は「トラファルガーの海戦」を参照 ヴィルヌーヴの艦隊はカディスで修理を行った。カディスはイギリス艦による急ごしらえの封鎖が行われており、はじめはカスバート・コリングウッド少将、9月27日からはネルソン中将がイギリスから来て指揮を執った。ネルソンはそれから何週間かを、来る戦闘のための戦術を作成してそれに磨きをかけ、自分の意図を艦長たちが理解しているか確認するために、彼らと会食した。ネルソンは、連合艦隊相手が伝統的な戦列でくるであろうことを予測して、攻撃計画を工夫した。ナイルの海戦、コペンハーゲンの海戦での自らの経験、キャンパーダウンの海戦のアダム・ダンカンの例、そしてセインツの海戦でのジョージ・ブリッジズ・ロドニーの先例を活用し、敵と同じような平行な戦列を作るよりも、艦隊を戦隊に分割することにした。そうすることによって、その戦隊はかなりの位置で敵の戦列を切り裂くことができ、混戦が可能になり、この混戦でイギリス艦が敵艦を圧倒して、交戦していない敵艦が支援に戻ってくる前に、敵の布陣のあちこちを破壊するという筋書きだった。 一方ナポレオンは、いよいよヴィルヌーヴの行動に不満を抱くようになり、フランソワ・エティエンヌ・ド・ロジリ=メスロ(英語版)に、カディスに向かって艦隊を指揮し、地中海に乗り出してナポリ王国に部隊を上陸させ、トゥーロンに帰港するように命じた。ヴィルヌーヴは、ロジリが来る前に出港することにした。10月20日、ヴィルヌーヴは、出港しようとしていたところを、巡回していたイギリスのフリゲート艦に見つかり、どうやら西へ向かうらしいという知らせがネルソンに届いた。ネルソンは縦列を率いて、ヴィクトリー艦上で交戦に入り、敵艦隊の戦列を切り裂いて、自らが切望した混戦に持ち込んだ。数時間に及ぶ戦闘の後、仏西艦隊の17隻の艦が拿捕され、他は破壊されたが、イギリス艦は1隻も失われなかった。この海戦で戦死したイギリスの将兵の中に、戦闘中に敵の狙撃兵により致命傷を負ったネルソンもいた。拿捕艦のうち9隻は、翌日の嵐の中で後に人為的に沈められるか、沈没した。その直後の1805年10月23日の海戦は、スペイン艦サンタ・アナを再拿捕しようとしたジュリアン・コズマオ(英語版)指揮下の数隻の艦が、追跡を何とか免れようとして起こったものだった。再拿捕中にコズマオはさらに3隻の艦を強風で難破させて失い、4隻目はイギリス艦隊により拿捕されたが、のちにこれも難破した。その後数日をかけて、イギリス艦隊と拿捕されたフランス艦船はジブラルタルに入港した。
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トラファルガーの海戦と同じ種類の言葉
固有名詞の分類
イギリスの戦闘 |
1702年8月の海戦 アッコ攻囲戦 トラファルガーの海戦 トゥーロンの海戦 三元里事件 |
スペインの戦闘 |
レパントの海戦 ナバス・デ・トロサの戦い トラファルガーの海戦 ジブラルタルの海戦 スペイン・モロッコ戦争 |
ナポレオン戦争の戦闘 |
ビトリアの戦い ワーテルローの戦い トラファルガーの海戦 アウステルリッツの戦い ヴァグラムの戦い |
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