その後の反響
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「妻に捧げた1778話」の記事における「その後の反響」の解説
その後、読者からは「ショートショートのお話自体はくすりとさせられるが、やはり奥様にあてて書かれたものとあって、ご夫婦にしかわからない笑いのツボのようなものがあるのかなと思いながら拝読」「奥様の病状や取り巻く環境の変化、それに影響されてお話の内容や結末が少しずつ変わっていくところに胸が締め付けられました」などと、感想が寄せられた。医学博士の長尾和宏は、眉村が妻のために物語を書き続けたことについて、「これ以上の免疫療法はない」「この人以上の愛妻家はいない」と語った。野村克也も、2019年(平成31年)4月放送の『爆報! THE フライデー』(TBS)で本書を、妻(野村沙知代)を喪って以来の愛読書と語った。 映画『僕と妻の1778の物語』で、主人公の親友役として出演した俳優の谷原章介は、朝日新聞社の本の情報サイト「好書好日」で、月替わりで良書を紹介する連載企画「谷原書店」で本書について、コロナ禍で早朝より家事をこなす自分にとっては、難病の妻のために作品を書き続けた眉村の、作家としての矜持を強く感じられたことから、「非常の状態を日常として受けとめるようになった眉村さんに、頭が下がる」と語った。また最終回については、その話に込められた想いを感じて、「最後のページをめくる時は、涙が止まらなかった」「言葉が出ないほど胸が苦しい」とのことだった。谷原はその翌年にも同サイトで、「コロナ禍で向き合った5冊」の内の1冊として、本書を「家族との距離感について考える機会が増えた今こそ、身に染みる1冊」として紹介した。
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その後の反響
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「カレーショップ志み津」の記事における「その後の反響」の解説
このように不安な状態での開店、営業であったが、予想に反して開店当日は約20人の来客が、長蛇の列をなした。開店翌日の8月17日の公式Twitterでは、カレーが完売とのことであった。その後も連日、カレーもほぼ完売になるほど人気となった。この月には300人の来客があり、その内の9割以上がカレーを完食した。 翌9月にも、好奇心旺盛な男女客が、1日に数十人は来店していた。同9月の情報サイト「Goo いまトピ」(NTTレゾナント)の企画による取材時も、開店前から並んでいる客がおり、開店時刻から30分後にすでに店内が満席で、「でっけぇの」が完売であった。同月の情報サイト「探偵ファイル」による取材時には、取材依頼が殺到していた。しみけんはAV男優としての本業が多忙なため、おぱんぽんが店長として実質的に店舗を切り盛りしていたが、しみけんがいる日は特に予約が困難とのことであった。 予想外の人気で人手が圧倒的に不足し、おぱんぽんが調理や雑用などあまりの作業の多さに「この体制で営業を続け、高いパフォーマンスを維持していくは難しい」と限界を感じたことで、2015年9月からは「インターン制度」が導入された。希望者が技術などを教わりつつ、ビジネスを一緒に体験できる制度である。求人ウェブサイト「ウォンテッドリー」で募集開始が告知されたところ、開始から数時間で東京大学の大学院生や早稲田大学の学生などから応募があった。東大の総長賞を受賞した院生からも申込みがあり、東大院生は英語とITとファイナンスに加え、「このカレーが世界で通用する人材としての必要スキルだと思った」ことが応募の理由とのことだった。留学経験のある早稲田大の学生など、一流企業のインターン並みの高学歴な人材からの応募もあった。 この9月時点では、営業期間について店舗側は「早いと9月末に閉店」「長くても年内まで」と答えていたが、後述のように日本国外のメディアでも多く取り上げられたこと、Twitterなどで「行きたい」という声を多く寄せられたことに応えて期間を延長。さらに遠方からの客や、帰省のタイミングでしか来店できない客への配慮から、大晦日や元旦および正月三が日にかけての、年末年始の営業を経て、その翌日の1月4日まで営業が続けられた。 客層は、おぱんぽんによれば好奇心が強い人が主で、年齢層は高校2年生から50歳くらいまであり、女性の来客もあった。高校2年生の少年は、しみけんやAV男優に憧れて「うんこカレーを食べることが男優になる第一歩」と、愛知県から東京まで来店して来た。壁にはカレーを完食した来客の写真が貼られており、それによれば、2015年10月時点で、少なくとも百人の常連客がいた。2015年11月のプレスリリースによれば、男女比は7対3で男性が多かったが、女性1人での来店も多かった。糞尿愛好症の来客はむしろ時々であったが、本物の食糞経験者は、より「うんこ味」に近くなるよう助言をしてくれたという。2015年12月時点で30回以上来店したリピーターも複数、存在した。コミュニケーション空間としての感想では、「楽しかった」という来客が圧倒的に多かった。罰ゲームとしても使用された。 作家の長倉顕太は、この店を「本当にくだらない。俺は好きだけど」と感想を語ると共に、このようなカレー店の繁盛ぶりを、「1食くらいどうでもいい」、転じて「日本が非常に平和で豊かな国」の証と述べている。
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その後の反響
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「お母さん、ぼくが生まれてごめんなさい」の記事における「その後の反響」の解説
康文の死を受けて同1975年6月末、彼の好きだったラジオ番組『おはようパーソナリティ中村鋭一です』(朝日放送ラジオ)で、パーソナリティの中村鋭一がこの詩を朗読した。中村は朗読しながら涙を抑えるのに困り、アシスタントはそのそばで泣いていたという。放送直後、朝日放送には「感動した」との電話が殺到した。康文の家には朝日放送から、彼の大好きだった中村の曲「吠えろタイガース」が贈られた。 同年8月、前述のレコードが「みんな同じ空の下に生きている」の題で完成した。この詩については、音楽を通じて障害者への理解を深めることが狙いであったため、曲の付いていない詩を収録することに反対意見もあったが、最終的には康文の生涯を人々の心に残すため、コンサート同様に向野の朗読により収録された。このレコードを通して詩はさらに反響を呼び、懸命な生き様、親子の情愛に感動したとの手紙が連日のように届いた。 1977年(昭和52年)、「わたぼうし全国縦断コンサート」開始。東京都での開催時、実行委員の1人がフジテレビのディレクターである小林信正の娘だったことから、小林も観客として来場していた。小林によれば、この詩の朗読の場面では観客たちが静まり返り、やがて涙声になっていたという。この小林の依頼により、作曲家の遠藤実が初めてこの詩に曲をつけた。遠藤は「初めて詩を読んで、四、五行目あたりから泣けて泣けて仕方がありませんでした」と語った。
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