その後の協会
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協会はアパラチア山脈から西にアメリカでは最初の大都市の多くを建設していく時に必要不可欠な存在だった。オハイオ州シンシナティ市、ペンシルベニア州ピッツバーグ市などが顕著な例である。北西部領土の初代知事アーサー・セントクレアも協会員であった。セントクレアは小さな開拓地であったシンシナティに協会の名前を採って名づけ、協会員の入植を奨励した。エベネザー・デニー中尉 (1761-1822)は当初からペンシルベニアの会員であり、1816年にピッツバーグが市制を布いた時に初代市長になった。ピッツバーグはピット砦が成長した町であり、独立戦争中の砦の指揮官は4人とも当初の会員になった。 南北戦争は合衆国全体と同様に協会にとっても大きな試練となった。ロバート・E・リーは会員の資格があったし、北軍も南軍も多くの士官が会員であった。それにも拘らず、協会は戦後回復し、21世紀まで活動を続けている。 今日の協会はアメリカ独立を成し遂げた男達の理想と行動、およびアメリカの歴史、特に独立戦争の勃発から米英戦争にいたる期間に対して、大衆が理解度を増す努力を支援している。協会の本部はワシントンD.C.のアンダーソン・ハウスにあり、当時の出来事や軍事科学に関連する原稿、文献、肖像画、模型など多くの収集品を維持している。協会員は、アメリカ合衆国の代表する民主主義の重要性について共和主義的政体という流れの中で、アメリカ人に教えるために、教師役になったり、表彰したり、教材を作る活動をボランティアで行っている。会員の定義と入会はワシントンの本部ではなく、各州の支部での機能となっている。 協会の立てた目的は既に現実のものとなってきた。協会は独立戦争の退役軍人に対する補償を政府がおこなうべきということを提唱した。退役者の給与、健康管理および傷痍軍人や元軍の関係者の福祉、戦争未亡人や孤児の補償という概念も協会の主要な目的であった。この目的の達成までには多くの年月を要した。例えば、独立戦争退役軍人が補償を受け取ったのは1834年のことであり、傷痍軍人や生存者の補償計画が実現したのは1865年であった。軍属の福祉、補償、および記念を行う補償統合制度をアメリカ合衆国が始めたのは、連邦退役軍人管理の始まった1930年のことであった。さらに、連邦政府退役軍人担当局を立ち上げて、独立した内閣の中の局レベルまでにしたのは1989年であった。協会の目的は兵士、士官双方の福祉を良くすることであり、その家族、あらゆる人種、少数民族、教義も含まれた。退役軍人に関する協会の計画は大半が達成され、今日の協会は「友の協会」となり、その目的はアメリカ合衆国の設立に貢献した歴史、原理および価値観の大衆に対する教育に変わって来た。 長い間、会員資格の規定は基本的に変わっていない。直系の男の子孫が絶えた場合には傍系子孫の入会を受け付ける規定もある。戦争中に亡くなった者の子孫を含める州の協会では会員が拡大しているが、また資格制限は厳しいままである。公式記録は公にされていないが、世界の会員数は3,700名と見られており、この中には元大統領、内閣の構成員およびその長子(男)が含まれている。より広い会員組織が別に創られた。アメリカ独立の息子達、およびアメリカ独立の娘達である。真の直系子孫会員であった大統領はフランクリン・ピアース唯一人(ジョージ・ワシントンとジェームズ・モンローは初期の会員)であり、ロナルド・レーガンは直系ではないがシンシナティ協会本部の名誉会員として現職のまま入会を認められた最後の大統領であった。ジョージ・H・W・ブッシュは大統領を辞めた後に名誉会員になった。アンドリュー・ジャクソンとザカリー・テイラーは大統領になる前に名誉会員になった。ジェームズ・ブキャナン、ウィリアム・マッキンリー、セオドア・ルーズベルト、ウィリアム・タフト、ウッドロウ・ウィルソン、ウォレン・ハーディング、フランクリン・ルーズベルトおよびハリー・トルーマンは就任中に名誉会員になった。ユリシーズ・グラント、グロバー・クリーブランド、およびハーバート・フーバーは辞任後に名誉会員になった。 協会の会員の概観はかなり変わって来た。教会は長い間、プロテスタントでアングロサクソン人の血を引く上流階級の社会と見なされてきた。今日、ローマカトリック教会の者もおればヒスパニックあるいはアフリカ系アメリカ人も居る。会員になるためには応募者の血統を公式の書類で証明し、家系学的な調査と経歴の審査が行われる。応募書類は、その父親が会員であっても本人自ら提出する必要がある。アメリカ独立の息子達、およびアメリカ独立の娘達とは異なり、アメリカ独立戦争当時の大陸軍指揮官一人につき同時期に一人の子孫が認められる。ただし、例外はある。 14の支部には名誉会員がいるが、軍隊で傑出した業績を上げた者(例えば、栄誉メダルの受賞者、高位の将軍や提督)、あるいは傑出した公的役職を担った者(例えば大使、連邦上院議員)に与えられる。名誉会員には正規の会員と同じ権利と責任が付与されるが、死んだときの継承者を指名することはできない。 過去に多くの世襲会員が特命士官や海外勤務士官として従軍した。今日大きく変わったことは、多くの世襲会員が一度も特命士官や海外勤務士官として従軍することがなくなったことである。しかし、数多い世襲会員は軍隊の1兵卒として従軍したり、あるいは投資銀行家、健康管理者、医者、判事、弁護士、教授を務めている。基本的に協会の会員はかなり選別されているが、現会員の社会的地位や職業はその先祖よりも多様化している。 協会はアメリカ政府で伝統的に強い影響力を維持し続けており、特に連邦の実行部局で強い。大統領そのものは別にしても、国務省など大統領が指名する省庁に長い執務記録がある。典型的な例がラーズ・アンダーソン3世であり、著名なオハイオ州シンシナティ市の家庭から出てきており、バージニア協会のリチャード・クラフ・アンダーソンの曾孫でもあった。ラーズ・アンダーソンの優れた経歴の中には駐ロンドン公使館と大使館での第二書記官、駐ローマ大使館の一等書記官と代理公使、駐東京特命全権公使があった。アンダーソンはワシントンD.C.に冬を過ごす宮殿のような住居(現在アンダーソン・ハウスと呼ばれる)を建て、彼の死んだ1937年に未亡人が室内装飾や家具もろとも協会本部に寄付した
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