その後の北米植民地
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/26 00:05 UTC 版)
「フレンチ・インディアン戦争」の記事における「その後の北米植民地」の解説
この戦争はヨーロッパの大国(イギリス、フランス、スペイン)の経済、政治、そして行政面と社会面での関係を変えた。これらの国の植民地や入植者、そして原住の人々は、彼らが領有した土地に住んだ。フランスとイギリスはこの戦争でかなりの経費を使い、これが後々長期にわたり重大な問題となった。 イギリスはヌーベルフランスとアカディアを支配下に置いた。約8万人の人口があり、その大部分はフランス語を話すカトリック信者だった。1755年に始まったアカディア人の追放は、最終的にはヨーロッパや南の方の植民地からの入植者を受け入れ可能にした。イギリスは、北アメリカの植民地のあちこちに彼らを入植させたが、多くはヨーロッパに戻り、また一部はニューオーリンズに行った、そこではフランス語が使えると期待したからだ。また一部の者は、フランス領ギアナやフォークランド諸島など、さまざまな地域に入植者として送られた。後者の方はうまく行かなかった。また、サントドミンゴのような場所へ移住した者、ハイチ革命の後でニューオーリンズへ入植した者もいて、独自のケイジャン文化をはぐくんだ。ルイジアナの人口は、現在のケイジャンの人口の入植によるところが大きい。ケイジャンとは、フランス語のアカディアンがカディアンとなり、そしてケイジャンとなったものである。 和平条約の後、ジョージ3世が国王宣言を10月7日に行った。これは新しくイギリス領となった土地の区分と行政の概略で、このうちの一部は、現在のカナダの行政とインディアンの関係に引き継がれている。インディアンにはアパラチア山脈の西部を居住地とするといった条項があり、西の境界の入植者の勢いが高まっていたこともあり、この境界線はどう見ても一時的な足枷であった。この声明には、カトリック信者のカナダ人の、公民としての参加を妨げる条項もあった。1774年のケベック法による和解で、これらの諸問題は処理されたが、宗教に関しては、13植民地の多数のプロテスタントが、カトリックを大きく上回っていた。 この戦争には経費が掛かった。特にピットの在任時には出費が多く1億4千万ポンドにも上り、その半分はアメリカ植民地の防御に費やされた。七年戦争により、イギリスの国債はほぼ2倍となった。国王は債務を支払うための財源として、植民地に新しい税をかけることにした。イギリス人は、この負担は植民地も引き受けるべきだと考えた。このため、13植民地に対し、1764年に砂糖法が施行された。これは砂糖のみならず、コーヒーやワインも対象となり、その後対個人の税である印紙法も施行された。 この新税の導入に対して、大規模かつ徹底した抗議行動が起こり、このため軍が出動し、総督府は何とか無事に仕事を遂行できた。これらの課税条例は最終的にアメリカ独立戦争の発端となった一方で、この戦争でフランスとの植民地獲得競争での優位を確実にしたイギリスは、植民地貿易の利潤をよりいっそう蓄積することが可能となった。このことは1760年代以降のイギリス産業革命を促した、数ある要因のなかのひとつになっている。 多くのインディアンにとって、北アメリカでのフランスの軍事力が失われたことは、強力な同盟の消失を意味し、イギリス支配でそれが埋め合わされたことは、彼らにとって最大の追い立てが始まることであった。オハイオ領土は特に、法的、あるいは非合法いずれの入植地も攻撃されやすかった。ブラドックとフォーブズが、この地へ軍事用の道路を作ったからだった。スペインはルイジアナの領土を手に入れたが(1769年まで正式な領土ではなかった)、戦争の反響が穏やかなのはここだけだった。イギリスがフロリダを手に入れると、ここの部族は西へと移動した。彼らはイギリス人と仕事をしたくなかったのだ。また、チョクトー族とクリーク族の、長い間の仇敵同士の反目を当時イギリスが利用したのである。フロリダの支配が変わることで、この地の、カトリックのスペイン人入植者もまた移動した。大部分はキューバへ行った。彼らはサン・オーガスティンの行政のすべての記録を携えていた、しかし洗礼を受けたヤマシー族はメキシコの湾岸に入植しなおした。 フランスは北アメリカの所有に関しては比較的わずかな価値しか認めず、砂糖を多く産出して利益が上がるアンティル諸島に関しては特に価値を見出しており、ここをどうにかして保持しようとした。条約締結代表のセザール・ガブリエル・ド・ショワゾーは、パリ条約ではかなりのことをしたと考えており、哲学者のヴォルテールは、ルイ15世はたかだか数エーカーの雪を失っただけだと書いた。しかしフランスにとって、戦争での財政負担は王国の力を弱め、これが1789年のフランス革命の遠因となった。この当時の啓蒙主義により、絶対王政への不信感が民衆の間に広まって行き、晩年のルイ15世統治下のフランスでは、オーストリア継承戦争からこの戦争および七年戦争の戦費と、ヴェルサイユ宮殿での豪奢な生活などによって財政事情がきわめて悪化した。ルイ16世の時代に入ると、アメリカ独立戦争支援のための出費があり、フランスの尽力で、アメリカはヨークタウンの戦いで独立をかちとった。このため財政は継続して逼迫し、これを打開するため新税を導入しようとして全国三部会が招集されたことがフランス革命勃発のきっかけとなっている。 北部にあったフランスの脅威が去り、イギリスは沿岸部の防衛をアメリカ植民地の民兵に委託した、そうすうることで、カリブ海に軍を送れたからだ。また、イギリスの軍事力はカナダのフランス植民地への抑止力であり、それがなくなったため、逆にアメリカ植民地の独立を招いたのだった。また、フランス系カナダ人の権限をかなり認めた1774年のケベック法施行も、イギリス系アメリカ人にとっては脅威となり、これも独立戦争の一因と考えられている。 1778年のアメリカ独立戦争時、フランスはイギリスに対してアメリカと同盟を結び、北アメリカに戻ってきた。この時フランスはイギリスに勝利し、これを歴史家のアルフレッド・ケイヴは「フランスは…モンカルムの仇討ちを果たしたのだ」と述べている。
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