その後の北洋水師
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/07 15:57 UTC 版)
1895年の下関条約締結後、なお権力の座にあった李鴻章は北洋艦隊の再建に着手。1896年に他の三水師の大型艦を全て天津に回航させ直隷の防衛に当たらせた他、ドイツとイギリスに相次いで防護巡洋艦(海容級、海天級)5隻などを発注。1898年までに艦隊の再建を完了した。 しかし、日清戦争の敗北で清朝に対する列強の侵略は加速。旅順と威海衛はロシアとイギリスに租借され、ただ一つ残った天津も1900年の義和団事件で八ヶ国艦隊の前に陥落した。駆逐艦は全て鹵獲され、残りは混乱の中で江南へ脱出した。その後、1905年に(李鴻章の部下だった)袁世凱らが既存の水師を解体し統一。組織としての北洋水師は消滅した。残存艦艇はその後、1909年に巡洋艦隊と長江艦隊に再編され、辛亥革命を迎えた。革命後、中華民国の海軍に移籍した艦艇は、1930年代まで現役にあった。
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