その後の南部戦線
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「バナスター・タールトン」の記事における「その後の南部戦線」の解説
サウスカロライナにおけるタールトンの宿敵は大陸民兵隊の指揮官でゲリラ戦術を早くから実行したフランシス・マリオンだった。タールトンは一度もマリオンを捕まえたり無力化することができなかった。マリオンはサウスカロライナ住民の間で大きな人気を持ち続け、彼らの支援でゲリラ作戦を続けた。対照的にタールトンは地元住民に対する多くの残虐行為で市民から見放されていった。例えば、死んだ愛国者士官の農園で、タールトンは死体を掘り出させ、一方で未亡人には食事を供するよう要求した。マリオンの部下の一人がこの事件について後に書き記した。 1780年11月、ネルソンズ・フェリーへの遠征で、タールトンはリチャードソン将軍の農園で家屋とその屋外のとうもろこしと飼料、さらに牛、豚、家禽の大部分を焼いた。将軍は大陸軍で活躍していたが、その時は死んでいた。イギリス軍の指揮官はリチャードソン将軍の未亡人や子供に向かい、この文明の時代に東方のバーバリ海岸(注:アフリカ北部地方)の作法に従って、その夫や両親の偉業を貶めさせた。この残虐な行為に付け加えてタールトンはその家でまず食事をし、それができる余裕があることで上機嫌に振舞った。しかし我々は受けた接待に彼が報いた方法を目にしたことはそれまで無かった。タールトンとその部隊はイギリス軍のどの部隊よりも残酷な行動を取ったばかりでなく、略奪行為をほしいままにしたのが一般に観察されたことである。 このタールトンに関する記述は、トーマス・ジェファーソンが後に記したモンティチェロでのタールトンの行動によって表されたその性格とは対照をなしている。 私は彼から害を受けなかった。それどころか私には非常に紳士的に振舞った。彼はマクロード大尉に何ものも傷つけないよう厳格な命令を出した。 タールトンは1780年8月のキャムデンの戦いでコーンウォリスが勝利するのをおおいに支援した。彼はフィッシング・クリークあるいはカトーバ・フォーヅで大陸軍のトーマス・サムター将軍と戦い完勝したが、11月にブラックストックヒルで再度まみえた時は、それほどの成功を収められなかった。続く1781年1月、個人的な勇猛さにも拘わらず、タールトン軍はカウペンスの戦いで大陸軍のダニエル・モーガン准将率いる部隊に事実上打ち破られた。タールトンは約250名の部下と共にかろうじて逃げおおせることができた。 タランツハウスでの小競り合いでは勝利し、1781年3月のギルフォード郡庁舎の戦いに参加した後、タールトンはコーンウォリスとともにバージニアに移動した。バージニアでのタールトンは小さな遠征を繰り返した。この遠征の中でも、当時のバージニア知事トーマス・ジェファーソンと議会議員を捕獲するために行った、シャーロッツビルの襲撃が特筆される。襲撃を知ったジャック・ジューエットが夜通し40マイル(64km)を駆けてジェファーソンと議員達に通報し、襲撃の一部は失敗した。議員7人の他はすべて逃げられたが、タールトンは武器や弾薬を破壊し、議会を蹴散らすという目的は果たした。他にも1781年7月にフランシスコの戦いがあった。これはピーター・フランシスコとタールトンの竜騎兵9騎との小競り合いであり、竜騎兵の1名が戦死、8名が負傷し、馬8頭が捕獲された。他にも任務をこなした後、コーンウォリスがタールトンにグロースター・ポイントを確保するよう指示を出した。しかし、この場所は1781年10月にヨークタウンとともに大陸軍に降伏した。タールトンは釈放されてイギリスに戻った。 ヨークタウンの降伏後、イギリス軍の指揮を執っていた士官全員が大陸軍の士官から食事に招待された。ただし一人を除いて。その一人とはバナスター・タールトンであった。
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