その後の北風家
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厳しい時代を乗り越え、再び繁栄の時代がやって来る。47代良村の後、本家は2家に分かれ、宗家は六右衛門(48代行村から)、嫡家は荘右衛門(48代惟春から)を代々名乗った。宗家は酢の販売、嫡家は海運業を主に取扱い、張り合いながら繁栄した。今は生田裔神八社の1社とされているが、七宮神社は出自が敏馬神社か長田神社といわれ、元々会下山に北風家が祀っていた。また、菩提寺については元々西光寺(藤の寺)であったが、荘右衛門家は能福寺を新に菩提寺とした。北風家は江戸時代、主要7家に分かれ、兵庫十二浜を支配した。 江戸時代、河村瑞賢に先立ち、1639年加賀藩の用命で北前船の航路を初めて開いたのは一族の北風彦太郎である。また、尼子氏の武将山中幸盛の遺児で、鴻池家の祖であり、清酒の発明者といわれる伊丹の鴻池幸元が1600年、馬で伊丹酒を江戸まで初めて運んだ事跡に続き、初めて船で上方の酒を大量に江戸まで回送し、「下り酒」ブームの火付け役となったのも北風彦太郎である。さらに、これは後の樽廻船の先駆けともなった。なお、北風六右衛門家の『ちとせ酢』等の高級酢は江戸で「北風酢」と呼ばれて珍重された。また、取扱店では「北風酢颪:きたかぜすおろし」と看板を出す酢屋もあったという。 俳人与謝蕪村の主要なパトロンが63代北風荘右衛門貞幹である。貞幹は無名時代の高田屋嘉兵衛を後援したことで知られる。 また、幕末から明治にかけての当主・北風正造(66代荘右衛門貞忠)は、表向き幕府の御用達を勤めながら、勤王の志士側について百年除金・別途除金(1796年以降代々の主人が個人の剰余金を居間と土蔵の2つの地下秘密蔵に貯め、60万両以上あったという)の資金と情報を提供、倒幕を推進。明治に入っては、初代兵庫県知事伊藤博文のもと、国事・県政に尽力した。 しかし、正造はあまりにも公徳心の権化であり、友人の伊藤博文も「きれいごとだけでは生きていけん」と忠告するが、理想とのギャップから正造は官を辞する。家業も終には倒産し、正造は東京で客死する。 正造の死を惜しんだ伊藤博文はその後すぐ、自ら筆をふるい、正造の菩提寺、能福寺の北風正造君(顕彰)碑の文字を書いた。 こうして、荘右衛門家は没落し、六右衛門家も寛政年間に血脈が絶え、荘右衛門家が引継ぎ、家財・遺品等の管理をしていたことから、両家の没落はほぼ時期を同じくしたこととなる。 北風家2大本家の葛藤 46代目を兄の貞彦、47代目を弟の良村が継いだのを嚆矢として、48代目から嫡家(ちゃっけ) 惟春(貞彦の子)、宗家(そうけ) 行村(良村の子)に分かれる。ここから両家の仲が悪くなっていく。一番仲が悪かったときは、50代目嫡家 一村(大内家側)と49代目宗家 長村(赤松家側)の時で、合戦に及んだとも言われている。54代目嫡家 資村と53代目宗家 村吉(豊臣秀吉から吉の字を賜うとの伝説有:当主名に「吉」の字の初出;実際、堺の豪商津田家と親戚関係になり織豊政権を支えていた。)の時に戦乱中一緒に戦って一緒に逃げた縁で仲直りし、宗家が嫡家を従える形で、通字が「村」から「よし」に変わり始める(家訓「尼ぜ文書」の原本が焼失。復元を図ったのもこの両名である)。尚、もう一つの通字である「貞」は、44代目貞村(白藤(しらふじ)氏から初めて「きたかぜ」を姓とする)以降、通字として使用されている。60代目嫡家は本来 吉兵衛であったが、宗家出身の貞好が60代目嫡家当主の座を奪い、両家とも宗家の血筋となった。62代目嫡家の時、宗家の血筋も絶えそうになり、宗家からの養子は期待できず、急遽、譜代の家宰杉谷氏より養子をとり貞員となった。以後、嫡家は宗家に対して巻き返しを図っていく。これより嫡家は血脈より人物の優秀さに重点を置き、養子が多くなる。次代松田家からの養子、63代目嫡家 貞幹の時、北風家の全盛期を迎えると共に、宗家を正し(性・金銭面など乱脈多しと)、62代目宗家に嫡家から貞幹の孫の貞章を入れて、嫡家が宗家を引き継ぎ、そのまま明治時代に入る。 主な北風一族 六右衛門家、荘右衛門家、彦六家、三郎右衛門家、七郎右衛門家、七兵衛家、彦太郎(彦太夫)家。 彦六家から七兵衛家までは六右衛門家の支流。彦太郎家の出自は不詳も、菩提寺が能福寺であることから元々は荘右衛門家支流と考えられる。他に六右衛門家の支流で薬種取扱いから医家になった愿之進(玄進)家、荘右衛門家支流の丈助家、彦太郎家の末流と考えられる又太郎家などがある。また、武家の中村四郎三郎家や堺の天王寺屋津田家の方につながる等、姓を変えて存続した家もあった。子孫はおおむね、まず廻船取次ぎを生業とし、本家の情報網としても活動したので、主要な港町に散在していると言われている。特に氷上回廊を越えた与謝郡に多い。 別家 別家とは商売上の主家に対する擬制的分家であり、子飼いの手代・番頭などが称することを許された。主に「喜多(きた)」姓、あるいは「喜多屋」の屋号を称した。なお小曽根財閥は北風家の番頭から始まっている。[要出典]なお、北風家では奉公人のことを花隈城荒木村重旗下の戦国武将をしていたころの名残なのか『家来:けらい』などと呼んだ。家老格に杉谷氏がいたが、絶家し、名跡を受け継ぐ形で北風丈助家が設立された。尚、北風家の墓地は能福寺の裏(道路挟んで西)の他に、神戸市立鵯越墓園の旧墓地37区(鵯越大仏より手前で神戸電鉄鵯越駅より比較的近い)
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