その後の北風家とは? わかりやすく解説

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その後の北風家

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/23 23:16 UTC 版)

北風家」の記事における「その後の北風家」の解説

厳し時代乗り越え、再び繁栄の時代やって来る47代良の後、本家は2家に分かれ宗家六右衛門48代行から)、嫡家は荘右衛門48代惟春から)を代々名乗った宗家は酢の販売嫡家海運業を主に取扱い張り合いながら繁栄した今は生田裔神八社の1社とされているが、七宮神社出自敏馬神社長田神社といわれ、元々会下山北風家祀っていた。また、菩提寺については元々西光寺藤の寺であったが、荘右衛門家は能福寺を新に菩提寺とした。北風家江戸時代、主要7家に分かれ兵庫十二浜を支配した江戸時代河村瑞賢先立ち1639年加賀藩用命北前船航路初め開いたのは一族北風太郎である。また、尼子氏武将山中幸盛の遺児で、鴻池家の祖であり、清酒発明者といわれる伊丹鴻池幸元1600年、馬で伊丹酒江戸まで初め運んだ事跡続き初めて船で上方の酒を大量に江戸まで回送し、「下り酒ブーム火付け役となったのも北風太郎である。さらに、これは後の樽廻船先駆けともなった。なお、北風六右衛門家の『ちとせ酢』等の高級酢は江戸で北風酢」と呼ばれて珍重された。また、取扱店では「北風酢颪:きたかぜすおろし」と看板を出す酢屋もあったという。 俳人与謝蕪村主要なパトロン63北風右衛門貞幹である。貞幹は無名時代高田屋嘉兵衛後援したことで知られるまた、幕末から明治にかけての当主北風正造66代荘右衛門貞忠)は、表向き幕府御用達勤めながら、勤王志士側について百年除金・別途除金(1796年以降代々主人個人剰余金居間土蔵2つ地下秘密に貯め、60万両以上あったという)の資金情報を提供、倒幕推進明治入っては、初代兵庫県知事伊藤博文のもと、国事県政尽力した。 しかし、正造はあまりにも公徳心権化であり、友人伊藤博文も「きれいごとだけでは生きていけん」と忠告するが、理想とのギャップから正造は官を辞する家業終には倒産し、正造は東京客死する。 正造の死を惜しんだ伊藤博文その後すぐ、自ら筆をふるい、正造の菩提寺能福寺北風正造君(顕彰)碑の文字書いた。 こうして、荘右衛門家は没落し六右衛門家も寛政年間血脈絶え、荘右衛門家が引継ぎ家財遺品等の管理をしていたことから、両家没落はほぼ時期同じくしたこととなる。 北風家2大本家の葛藤 46代目を兄の貞彦、47代目を弟の良継いだのを嚆矢として、48代目から嫡家ちゃっけ) 惟春(貞彦の子)、宗家(そうけ) 行(良の子)に分かれるここから両家の仲が悪くなっていく。一番仲が悪かったときは、50代嫡家 一村大内家側)と49代目宗家 長村赤松家側)の時で、合戦及んだとも言われている。54代目嫡家53代目宗家 吉(豊臣秀吉から吉の字を賜うとの伝説有:当主名に「吉」の字の初出実際、堺の豪商津田家親戚関係になり織豊政権支えていた。)の時に戦乱中一緒に戦って一緒に逃げた縁で仲直りし宗家嫡家従える形で、通字が「」から「よし」に変わり始める(家訓「尼ぜ文書」の原本焼失復元図ったのもこの両名である)。尚、もう一つ通字である「貞」は、44代目白藤しらふじ)氏から初めて「きたかぜ」を姓とする)以降通字として使用されている。60代嫡家は本来 吉兵衛であったが、宗家出身の貞好が60代嫡家当主の座を奪い両家とも宗家血筋となった62代目嫡家の時、宗家血筋絶えそうになり、宗家からの養子期待できず、急遽譜代家宰杉谷氏より養子をとり貞員となった以後嫡家宗家に対して巻き返し図っていく。これより嫡家血脈より人物の優秀さ重点を置き、養子多くなる次代松田家からの養子63代目嫡家 貞幹の時、北風家全盛期迎えと共に宗家正し(性・金銭面など乱脈多しと)、62代目宗家嫡家から貞幹の孫の貞章を入れて嫡家宗家引き継ぎそのまま明治時代に入る。 主な北風一族 六右衛門家、荘右衛門家、彦六家、三郎右衛門家、七郎右衛門家、七兵衛家、彦太郎(彦太夫)家。 彦六家から七兵衛家までは六右衛門家の支流。彦太郎家の出自不詳も、菩提寺能福寺であることから元々は荘右衛門支流考えられる。他に六右衛門家の支流薬種取扱いから医家になった愿之進(玄進)家、荘右衛門支流の丈助家、彦太郎家の末流考えられる又太郎家などがある。また、武家中村四郎三郎家や堺の天王寺屋津田家方につながる等、姓を変えて存続した家もあった。子孫おおむね、まず廻船取次ぎ生業とし、本家情報網としても活動したので、主要な港町散在していると言われている。特に氷上回廊越えた与謝郡に多い。 別家 別家とは商売上の主家対す擬制分家であり、子飼いの手代・番頭などが称することを許された。主に「喜多(きた)」姓、あるいは「喜多屋」の屋号称した。なお小曽根財閥北風家番頭から始まっている。[要出典]なお、北風家では奉公人のことを花隈城荒木村重旗下戦国武将をしていたころの名残なのか『家来:けらい』などと呼んだ家老格杉谷氏がいたが、絶家し、名跡受け継ぐ形で北風丈助家が設立された。尚、北風家墓地能福寺の裏道路挟んで西)の他に、神戸市鵯越墓園旧墓地37区(鵯越大仏より手前神戸電鉄鵯越駅より比較的近い)

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