その後の台湾と宮古島の関係
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/03 16:13 UTC 版)
「宮古島島民遭難事件」の記事における「その後の台湾と宮古島の関係」の解説
戦前戦後を通じて宮古島と台湾の行き来は頻繁であった。また沖縄戦の前後の時期には、一万人弱の人々が宮古島から台湾に強制的に疎開している。なお、宮古島も含む先島諸島から九州以北への組織的疎開は行われていないが、個人的な疎開は散見される。 宮古島と台湾の関係においては、現在でも、高校、中学レベルの交流が行われている。1997年(平成9年)1月、宮古商工会議所の一行により台湾南部観光旅行の際に宮国文雄は最初の墓参をおこない、同4月に第2回目の墓参をおこなった。西郷の建立した、〈琉球藩民五十四名墓〉の文字は読み取れるが、あったはずの〈大日本〉の字は消されていた。この文献には、はっきり大日本が読み取れる。事件の地も訪問したが、現地と思われる処は台湾3軍の演習地とあり、入れなかった。2005年(平成17年)6月、台湾から当時の事件を謝罪したいと子孫たちが沖縄、宮古島を訪れ、日本側の子孫と友好の握手を交わした。
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