その後の合意、条約
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/18 20:17 UTC 版)
「マキアスシール島」の記事における「その後の合意、条約」の解説
アメリカ独立戦争の10年後に締結されたジェイ条約では、両国合同の国境画定委員会が組織されたが、マキアスシール島の問題を含むこの周辺海域の境界線に関しては特筆すべき結論を出すことはできなかった。これによりパサモクォディ湾にあるいくつかの島々やグランドマナン島および近隣の島々の米加両国による領有権主張に発展した。 米英戦争(1812年)中の英国軍はニューブランズウィック州(既に1784年にノバスコシアから分離していた)の国境を越えて西はペノブスコット川渓谷までのメイン州沿岸部を占領し、そこにあった様々な港湾地帯の住民から金銭を徴収した。この米英戦争終結のための講和条約である1814年ガン条約において、グランドマナン海峡地域の国境線をより一層明確化するという条項が盛り込まれ、新たに強い権限を持った合同国境委員会が発足し、英国軍は撤退した。1817年に合同委員会は、ムース島、ダッドリー島は米国領、グランドマナン島およびパサマクォディ湾にあるすべての島々はカナダ領とすることと宣言した。英国はマキアスシール島同様の根拠でムース島やダッドリー島といった東メインの島々も自国領であると主張していたが、このときの話し合いで撤回している。 マキアスシール島の位置はパサマクォディ湾内ではないが、グランドマナン島には近いという特殊な位置にあり、合同委員会報告書において直接には一切言及されなかった。セントジョン港の海運関係者からの要請により、英国はマキアスシール島の占拠を継続した。ニューブランズウィック州は1832年に灯台を建設した。これが両国合わせて初めての実効支配を示唆する行動となった。 その後1908年から1910年にかけて、条約およびその過程における交渉で海上の国境線も話し合われ、グランドマナン島とメイン州の沿岸部の間の等距離線を正式な国境線として合意がなされ、これが現在も有効とされている。だがこの等距離線の終点はマキアスシール島から100キロメートル近く離れており、依然同島の帰属はあいまいなままとされた。
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