Uボート
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Uボート(英: U-boat、独: U-Boot)は、ドイツ海軍の保有する潜水艦の総称。一般的には特に第一次世界大戦から第二次世界大戦の時期のものをいう。
ドイツ潜水艦隊の華々しい活躍により、Uボートの名はドイツ潜水艦の代名詞として広く普及した。第一次大戦では約300隻が建造され、商船約5,300隻、戦艦10隻ほかを撃沈する戦果を上げたが、178隻が戦闘で失われた。
第二次大戦では1,131隻が建造され、終戦までに商船約3,000隻、空母2隻、戦艦2隻を撃沈する戦果をあげた。しかし、大戦中に連合国が有効な対策を編み出した事から849隻もの損失を出し、全ドイツ軍の他のあらゆる部隊よりも高い死亡率であった[1]。

概要
ドイツ語の「U-Boot(ウーボート)」は「Unterseeboot(ウンターゼーボート、水の下の舟艇)」の略語であり、時代・国籍を問わず全ての潜水艦を意味する。英語でU-boat(ユーボート)と言った場合は専ら第一次大戦・第二次大戦時期のドイツの潜水艦を意味する言葉として使われる[注釈 1]。Uとあるがアルファベットの形状と似ているという意味ではない。
潜水艦の用兵には、さまざまなものがあるが、第一次、第二次の両世界大戦におけるドイツ海軍のUボートは、共に通商破壊を主目的として使用された。ドイツ海軍は強力な水上艦戦力をもたないため、制海権は絶えず英国側にあった。そのため、通商破壊を水上艦では行えず、敵の強力な水上艦隊の勢力下でも作戦行動が可能な潜水艦が、この任に最適だと考えたのである。
結果として海軍戦力が脆弱なドイツ海軍における主戦力となったが、最大の攻撃手段である魚雷の発火不良が相次ぎ、潜水艦隊司令長官であるカール・デーニッツにより「戦場で使用できない武器を配備したのは軍の歴史上見たことが無い」と語られるなど、技術面において多くの欠陥を抱えたまま運用された[2]。
第二次世界大戦においては、連合国側は様々な対潜水艦戦略および戦術を展開し、最終的に旧型Uボートは劣勢に追い込まれていった。「対Uボート戦の末期(と初期)では立場が逆になった。狩られるのは商船ではなくUボートになったのである」(チャーチル・世界危機)は、両大戦のUボート戦を端的に表している。
また、Uボートの正確な位置は上層部も知らず、乗組員たちにしか分からなかったため、定時連絡が無くなってようやく「どうやら沈んだらしい」程度の事しか分からなかった[1]。
特徴
- 潜水艦のメリット
- 当時の潜水艦は、「敵に発見されにくく、大型船を撃沈できる魚雷をもち、建造費が大型艦に比べれば安価である」などのメリットがあった。これは列強の大国に対して、小国が取るゲリラ戦術のための兵器といえる。
- その反面で、「速度が低く、会敵の機会が少なく、接敵できても強力な護衛のつく水上艦との戦闘では不利」と評価されていた。
- 無警告攻撃
- 潜水艦の隠密性を最大限活用するため、Uボート戦では、商船に対しても無警告攻撃という戦法がとられた。主な標的となったのは、両大戦を通じて、敵国のイギリスなどと、植民地とを往来する商船であった。第一次世界大戦にアメリカが参戦した後は標的にアメリカからヨーロッパへの物資・兵員を積んだ商船が追加され、第二次世界大戦においては援ソ船団も加わった。
- 隠密輸送
- 通商破壊以外の用途としては、図面などの技術情報や機械などの物資の隠密輸送などに使用されたりもした。
- 第二次世界大戦が激化すると、同盟国の大日本帝国が兵器の製造に必要としたドイツ製工作機械が、シベリア鉄道による輸送が困難になったために、改造されたUボートに搭載して輸送する運用もなされた。高周波レーダーの製造に必要なプラスチックの射出成形を行う為にフランツ ブラウン社製横型射出成形機 イゾマがUボートにより横浜港に陸揚されたという記録がある。また、ディーゼルエンジンの噴射ノズル部品の加工でインデックス社製の旋盤が輸送されたり、高精度な部品研削加工に必要なユング社製平面研削盤が輸送され、日本および太平洋地域からは合金金属がドイツに輸送された。
戦役
第一次世界大戦
第一次世界大戦(1914年 - 1918年)において開戦時期のUボートの評価はそれほど高いものではなく、あくまでも補助艦艇という位置づけであった。その評価を一変させたのは、開戦から3か月後の1914年9月22日にオットー・ヴェディゲン大尉が指揮するU9が、イギリス海軍のクレッシー級装甲巡洋艦「アブーキア」、「クレッシー」、「ホーグ」の3隻を立て続けに撃沈してからであった。この戦果に各国海軍は驚愕し、とりわけイギリスが受けた衝撃は多大なものであった。ガリポリの戦いではオットー・ヘルジンク大尉が指揮するU21がイギリス海軍の戦艦「トライアンフ」と「マジェスティック」を撃沈しており、Uボートの勇名は世界にとどろいた。
これらの戦果に自信を付けたドイツ海軍は、1915年2月にイギリス周辺の海域を交戦海域に指定し、イギリスに向かう商船に対する無制限潜水艦作戦を開始する。その3か月後の1915年5月、ドイツのU20が戦時禁制品の火薬類運送中の英国船籍の豪華客船ルシタニア号を無警告で撃沈し、1,198人の犠牲者を出す。この中に123人のアメリカ市民が含まれており、著名な舞台演出家であるヴァンダービルト家の1人も犠牲となった。
この出来事は、イギリス側の外交戦術に最大限に利用され、アメリカ世論を反ドイツへと揺り動かし、連合国側に立って戦争に参戦する重要な要因となってしまう。そのため、ドイツは1915年8月に商船への無警告攻撃を禁止する布告を出し、Uボートが活躍する場は大幅に制限される。この布告を巡ってはドイツ首脳陣の間にあつれきが生じ、海軍大臣のティルピッツが辞任する騒ぎにまで発展する。
最終的にUボートによる無制限潜水艦戦は1917年1月に認められ、この年の2月から3月にかけて500隻近い商船がイギリス周辺や地中海で撃沈された。しかし、同年にアメリカが連合国側に立って参戦し、更にイギリス首相デビッド・ロイド・ジョージが強力に推進した護送船団方式と対潜戦技術の向上でUボートの戦果は急速に低下していく。
だが、イギリスが被った損害は甚大で、戦後のヴェルサイユ条約でドイツは潜水艦の保有を禁止された。
第二次世界大戦
第二次世界大戦(1939年 - 1945年)においては、終戦に至るまでUボートは大西洋の戦いなど、図らずもドイツ海軍の主力兵器でありつづけ、戦後イギリス首相ウィンストン・チャーチルに「私が本当に怖れたのは、Uボートの脅威だけである」と言わせる働きをみせた。
ドイツがポーランドに侵攻し(1939年9月1日)、それに対して英仏がドイツに宣戦布告した1939年9月3日の時点で、ドイツ潜水艦隊司令官カール・デーニッツは57隻のUボートを擁していた(大西洋に派遣できたのは26隻)。デーニッツは1939年9月28日ヒトラーに「Uボートは英国を屈服させられます。しかしそれには300隻(100隻が哨戒、100隻が戦場への往復、100隻が整備)が必要です。しかも早急に」と説いたが、もともと海軍と疎遠だったヒトラーは「ゲーリングが英艦隊を追い回すであろう」と空軍への信頼を語り、イギリス側が備える時間を与えてしまった(この300隻体制は、ついに実現しなかった)。
Uボートの建造は開戦後もしばらくは進まなかったが、フランス占領後はトート設営相によりフランスの資源と人員を使った迅速なブンカーの設置がなされ、英国近海を通らずに大西洋へ出撃することができた。ブロック方式で大量の潜水艦が建造され、VII型のみに限っても最終的に1,162隻が就役した。緒戦では一部のUボート部隊が大西洋で通商破壊戦に投入され、イギリスへの商船に対し大きな被害を与えた。その他、アメリカ本土へスパイを送り込んだり、機雷封鎖作戦にも投入された。
作戦に投入されたUボートには様々な種類があり、初期の「丸木舟」と呼ばれた沿岸用II型から大西洋を中心に各方面で活躍したVII型、大西洋を横断できるIX型(日本海軍の呂号潜水艦程度)、補給用の「乳牛」と呼ばれる大西洋での潜水艦補給用のXIV型Uボート、ヴァルター・ボートの外形だけを取り入れた、水中での行動が有利な艦型のXXI型、沿岸作戦用のXXIII型などがあった。

開戦初期は撃沈した独航船を浮上観察する余裕があった。第二次大戦後期では潜望鏡での長時間の観察さえも撃沈される原因となった。
一部のUボートは、日本軍占領下のマレー半島のペナンなどを基地としてインド洋で英連邦諸国の商船に対して通商破壊戦を行っていた。ヒトラーは、同通商破壊戦を強化するために同盟国の日本に協力を呼びかけ、日本がUボートを手本として同様の潜水艦を量産することを期待して日本へ2隻のIX型Uボートを贈与した。1隻が日本に入港して呂号第五〇〇潜水艦として連合艦隊に編入されたが、小型で用兵上の不足があると判断された上に、日本の工業技術では1隻も製作不能とされた。また、日本は伊号潜水艦を5次に渉ってドイツに派遣、ドイツの必要とする工業原材料、技術を交換した(遣独潜水艦作戦)。参加した5隻の内、無事日本 - ドイツ間を完全往復できたのは伊号第八潜水艦1隻のみだった。
開戦以来、対潜戦闘に不慣れな英国は、抑留者や捕虜をカナダへ移送しようとしていたアランドラ・スター号を沈没させられるなど膨大な損害を蒙ったが、1942年に入ると、連合軍はUボートに対して
- ソナーや逆探知、航空機搭載レーダーによる電子戦(これらにより、潜望鏡を出す事さえ命取りとなった[3])
- 護衛艦隊による護送船団方式
- 護衛空母による航空機での防御や、陸上基地から発進する対潜哨戒機での積極的な攻撃。
- 諜報戦の徹底(暗号の解読、フランス・大西洋沿岸の潜水艦基地に潜入したスパイやレジスタンスからの出航情報)
- 対潜水艦用爆雷の改良や「ヘッジホッグ」「スキッド」などの対潜前投兵器の投入
などあらゆる対策を実行した。これらが進展するにしたがって、大西洋の戦いはUボート部隊に不利となっていった。ドイツはとりわけ電子戦において後れをとっていた。ドイツ側はレーダー電波を逆探知する警戒装置(メトックス)を開発し連合軍の対潜哨戒機の探知を回避することができるようになったため、1942年夏に一時的に優位に立ったが[4]、翌43年春には連合軍がメトックスでは探知できない波長を使用するレーダーを実用化したためその優位も失われた[5]。またドイツ側は連合軍が新型レーダーを投入したことを見逃し、逆に警戒装置から漏れる電波を連合軍が探知していると誤解していたため、対抗手段の開発はさらに後手にまわることになってしまった[6]。
対空兵装を強化するなどの策もとられたが、対空戦闘での少しの損害でも潜航不能になり、最終的に撃沈される例が相次いだ。このためシュノーケルの装備などで対抗した。これらの対策を施した潜水艦の大量投入で、一時的に戦果の低下を防ぐことができたが、護衛空母による哨戒が開始されるとUボートの損害は再び増加した。航空機に襲撃されては急速潜航などは無意味で、たとえ間に合ったとしても、航空機から放たれる爆雷かホーミング魚雷に粉砕された[7]。充電のために浮上航行していればレーダーか航空機に捉えられ、潜航していればソナー類に捉えられた。夜間に浮上している場合は、はるか遠方からレーダーに捉えられ、レーダー搭載機に忍び寄られて、気づいた時にはリー・ライト[8]を照射されて撃沈された。1944年になると在来型のVII型、IX型などは事実上無力化し、大戦初期の様な戦果は望めなくなった。しかし、大西洋からUボートを撤退させることにより、Uボートに振り向けられる連合軍の資源が都市爆撃や陸軍の戦術支援に回ることが予想されたため、連合軍を海に釘付けにするためにUボートの出撃は続けられた。
最終的な結果として、大戦全期を通じたUボートとその乗組員の損失は、849隻、約3万人に上った。一方、連合軍はその数倍に上る損害を受けたが、ついにUボートによる通商破壊で連合国側を屈服させることは出来なかった。
Uボート戦について、デーニッツは、「1938年から大Uボート艦隊を用いて戦争に入っていれば戦いの推移に決定的影響を及ぼせた(勝利できた)であろう。もし2倍のUボートを生産していても大きな影響を与えられた。しかし、第二次大戦では軍備不十分のまま対英戦に突入した」と戦後総括しているが、そもそもドイツの生産力では、それだけの艦隊を建造する事はできなかった[9]。
大戦中にドイツが培った革新的な潜水艦技術は戦後、連合国側に吸収され、世界の潜水艦開発に大きな影響を及ぼした。
戦後のUボート
第二次大戦後、東西に分裂したドイツは東西冷戦の最前線となった。西ドイツは主権の回復と共に潜水艦を含む再軍備が認められたが、戦勝国のUボートへのトラウマは東西を問わず大きく、1954年に西ドイツと戦勝国との間で結ばれた軍備制限議定書により、Uボートは大戦中よりも大幅に小型化されたものしか保有が許されなかった。東ドイツ海軍は潜水艦を保有しなかった。
こうして1960年代に配備された201型潜水艦以降の西ドイツ海軍の潜水艦は排水量500t前後と小型になったが、ドイツに近いバルト海と北海では有力な潜水艦戦力だった。性能が優れていたため、ナチス・ドイツによる被害を受けた国を含めて引き合いが相次ぎ、現在に至るまで世界各国に輸出されている。
1970年代からは輸出専用に中型化した209型潜水艦(水中排水量1810t)が各国で就役した。1990年代半ばに制限が解除されると、統一ドイツ海軍向けにも水中排水量1830tの中型潜水艦(212A型潜水艦)の建造が開始された。
損耗率
大戦において大きな戦果を残し、世界中の商船に恐れられたUボートであるが、ソナーなどが普及するにつれて撃沈されることが多くなり、第二次大戦を通じてUボート乗組員の死傷率は63%という数字だった。捕虜も含めると73%になり、時期や場所にもよるが、トータルでは生存者は3割程度しかいなかった事になる。
第二次大戦の最後の5か月、連合国商船の損耗は世界中で46隻で、しかもこの46隻は船団を組まずに単独航行していた船だった。だが、Uボートは151隻が撃沈された[10]。
種類
第一次世界大戦
第二次世界大戦
- UボートI型
- UボートII型
- UボートV型
- UボートVII型
- UボートIX型
- UボートX型
- UボートXI型
- UボートXIV型
- UボートXVIIB型
- UボートXVIII型
- UボートXXI型
- UボートXXIII型
- UボートXXVII型
以下、型式番号なし
第二次世界大戦後
現存艦
- U1
- IXC型 U505
- IXC/40型 U534
- VIIC/41型 U995
- XXI型 U2540
- 1945年5月4日、バルト海にて自沈処置が施され[15]たが、引き上げられ、ホヴァルツヴェルケ=ドイツ造船にてオーバーホールが施され、試験艦「ヴィルヘルム・バウアー」として1960年 - 1968年まで運用された後、ブレーマーハーフェンにあるドイツ海事博物館にて屋外展示されている。
-
右舷後方から見たU1の機関室
-
U505
-
U534
-
U995
-
U2540
現存する沈没艦
U-19、U-20、U-23
2008年、"Adolf Hitler's lost fleet"(アドルフ・ヒトラーの失われた艦隊)と呼ばれる黒海で活躍したUボート3隻が発見されたとのニュースがイギリスのデイリー・テレグラフ誌で報じられた[16]。
発見された艦はU-19、U-20、U-23の3隻で、トルコの海洋技師Selçuk Kolayがドイツ海軍の古い記録や当時の生存者からの聴取で沈没地点を割り出し、ソナー調査で発見した。沈んでいた3隻のうちU-23はかつてUボートのエースであったオットー・クレッチマーの指揮していた艦で、この3隻の他に合計6隻が黒海で活躍し、2年間の作戦行動中に艦船数は50隻、総トン数4万6500トンを沈めたが作戦中に逆襲に遭い発見されたU-19、U-20、U-23以外の3隻が沈められた。1944年8月にルーマニアが連合国側の一員としてドイツに宣戦布告したため黒海から出られなくなり、残った上記3隻は廃棄処分となり同じ場所で自沈した[16][17]。
2018年6月25日に若狭湾で発見された。戦後にアメリカ海軍によって海没処分された唯一のUボートである。
U-864
U-864は1944年12月[18]、ドイツのキール軍港よりジェットエンジンなどの機密情報を含む軍事物資などを積んで日本に向かうも[18]、機関の故障により引き返す途中でイギリス海軍の潜水艦ヴェンチャラーの攻撃を受けて撃沈され[18]、2003年にノルウェー南西部ベルゲン沖でノルウェー海軍によって発見された[18]。船内には日本人科学者を含む73名の遺体と共に大量の水銀が積まれているのが確認され、北海が広範囲で汚染されるおそれがある[18]。船体の引き揚げや石棺による封じ込めが検討されていたが、費用などの問題から目途は立っていない。また2013年には同艦から2km離れた地点でU-486が沈没しているのが石油パイプラインの調査中に発見されている。
なお、撃沈された際に発生したドイツ・イギリス潜水艦同士の戦いは、潜航した潜水艦同士の戦いで相手の撃沈によって勝敗が決した史上唯一の例とされている[18]。
Uボートを題材にした作品
映画
- 『海の底』(原題:Seas Beneath、ジョン・フォード監督、1931年、アメリカ)
- 『潜水艦轟沈す』(原題:49th Parallel、マイケル・パウエル監督、1941年、イギリス)
- 『潜水艦西へ!!』(原題:U-Boote westwärts!、ギュンター・リター監督、1941年、ドイツ)
- 『眼下の敵』(原題:The Enemy Below、ディック・パウエル監督、1957年、アメリカ)
- 『鮫と小魚』(原題:Haie und kleine Fische、フランク・ヴィスバー監督、1957年、西ドイツ)
- 『U-47出撃せよ』(原題:U-47 Kapitänleutnant Prien、ハラルト・ラインル監督、1958年、西ドイツ)
- 『U・ボート』(原題:Das Boot、ヴォルフガング・ペーターゼン監督、1981年、ドイツ) - アカデミー賞の6部門にノミネートされるなど国際的にヒットした。
- 『U-571』(原題:U-571、ジョナサン・モストウ監督、2000年、アメリカ)
- 『Uボート 最後の決断』(原題:In Enemy Hands、トニー・ジグリオ監督、2003年、アメリカ)
テレビドラマ
- 『ザ・ラストUボート』(原題:The Last U-Boat、フランク・バイヤー・村上佑三共同監督、1993年、日本・ドイツ・アメリカ・オーストリア合作)
脚注
注釈
- ^ タイムズ紙1914年4月25日号でUボートの呼称が確認でき、第一次大戦の早い段階で認知されていたことがわかる。
出典
- ^ a b 「ナチス潜水艦U745の謎」ナショナルジオグラフィックチャンネル
- ^ Bekker, quoted p.132
- ^ 「第二次世界大戦影の主役」 (“Engineers of Victory”) Paul Kennedy p. 85
- ^ Roskill, War at Sea, Vol. 2. p. 205
- ^ Roskill, War at Sea, Vol. 3, Part 1. pp. 28-29
- ^ Roskill, War at Sea, Vol. 3, Part 1. pp. 32-33およびPrice, Aircraft Versus Submarine in Two World Wars, pp. 160-162
- ^ 「第二次世界大戦影の主役」 (“Engineers of Victory”) Paul Kennedy p. 95
- ^ 「第二次世界大戦影の主役」 (“Engineers of Victory”) Paul Kennedy p. 87
- ^ 「第二次世界大戦影の主役」 (“Engineers of Victory”) Paul Kennedy p. 41
- ^ 「第二次世界大戦影の主役」 (“Engineers of Victory”) Paul Kennedy p. 97
- ^ Uボート入門, p. 6
- ^ Uボート総覧, p. 175
- ^ Uボート総覧, p. 176
- ^ The Type IXC/40 boat U-534 - German U-boats of WWII - uboat.net
- ^ Uボート総覧, p. 183
- ^ a b Adolf Hitler's 'lost fleet' found in Black Sea - デイリー・テレグラフ誌、最終更新日2008年8月28日
- ^ 「ヒトラーの失われた艦隊」と呼ばれるUボート3隻が黒海海底で発見される - GIGAZINE, 2008年02月05日 14時17分00秒
- ^ a b c d e f “日本を目指したUボート~U-864 歴史に残る海戦~”. NHK (2011年8月13日). 2016年1月24日閲覧。
関連文献
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- 総論
- Wolfgang Frank、Non-fictions『Uボート作戦』実松譲(訳)、図書出版社、1970年
- レオンス・ペイヤール、Non-fictions『大西洋戦争(全2巻)』長塚隆二(訳)、早川書房、1981年
- レオンス・ペイヤール、Non-fictions『潜水艦戦争1939-1945』長塚隆二(訳)、早川書房、1983年
- カール・デーニッツ、回顧録『10年と20日間 デーニッツ回顧録』山中静三(訳)、光和堂、1986年、ISBN 4-87538-073-9
- Robert C. Stern『UボートVII型 ドイツ潜水艦テクノロジーの全貌』津久部茂明訳、1995年、ISBN 4-499-22656-2
- エドウィン・グレイ、Non-fictions『潜水艦の死闘 彼らは海面下で戦った』秋山信雄(訳)、光人社、1997年、ISBN 4-7698-0830-5
- 学習研究社編集部 (Pictorials)『大西洋戦争』、学習研究社、1998年、ISBN 4-05-601784-0
- デヴィッド・ミラー『Uボート総覧―図で見る「深淵の刺客たち」発達史』、大日本絵画、2001年、ISBN 4499227526
- 広田厚志『Uボート入門―ドイツ潜水艦徹底研究』、光人社、2003年、ISBN 4769823835
- ゴードン・ウィリアムソン『ドイツ海軍のUボート1939‐1945(オスプレイ・ミリタリー・シリーズ 世界の軍艦イラストレイテッド)』、大日本絵画、2006年、ISBN 4499229154
- Uボート視点
- エドウィン・グレイ、小説『Uボート西へ』種子島洋二(訳)、白金書房、1975年
- Heinz Schäffer、Non-fictions『U-ボート 977』横川文雄(訳)、朝日ソノラマ、1984年、ISBN 4-257-17038-7
- アレクサンドル・コルガノフ、Non-fictions『Uボート、出撃せよ』内藤一郎(訳)、早川書房、1993年、ISBN 4-15-050098-3
- ペーター・クレーマー、回想録『Uボート・コマンダー 潜水艦戦を生き抜いた男』井坂清(訳)、早川書房、1995年、ISBN 4-15-050181-5
- ロータル=ギュンター・ブーフハイム『Uボート(全2巻)』松谷健二(訳)、早川書房、2000年、ISBN 4-15-040616-2
- ギュンター・プリーン『スカパ・フローへの道 ギュンター・プリーン回想録』濱野修(訳)、中央公論新社、2001年、ISBN 4-12-003174-8
- Jordan Vause、Non-fictions『Uボート・エース The Story of Wolfgang Lüth』雨倉孝之(訳)、朝日ソノラマ、1997年、ISBN 4-257-17317-3
- ヘルベルト・A・ヴェルナー、回想録『鉄の棺 Uボート死闘の記録』鈴木主税(訳)、中央公論新社、2001年、ISBN 4-12-003108-X C0098
- エーリッヒ・ギンペル『Uボートで来たスパイ あるナチス・ドイツ諜報員の回想』、扶桑社、2006年、ISBN 4-594-05121-9
- Bekker, quoted p.132
- 連合軍視点
- D.A.Rayner、小説『眼下の敵』鎌田三平(訳)、西武タイム、1985年、ISBN 4-8275-1233-7
- Kenneth Poolman、Non-fictions『シーハンター』矢嶋由哉(訳)、朝日ソノラマ、1986年、ISBN 4-257-17071-9
- Geoffrey Jones、Non-fictions『狼群作戦の黄昏』土屋哲朗・光藤亘(訳)、朝日ソノラマ、1990年、ISBN 4-257-17222-3
- Stephen Roskill War at Sea Vol.2 Period in Balance, Naval & Military Press, 2004, ISBN 1-84342-804-0
- Stephen Roskill War at Sea Vol.3 Offensive, Part1, Naval & Military Press, 2004, ISBN 1-84342-806-7
- Alfred Price Aircraft Versus Submarine in Two World Wars Pen & Sword, 2004, ISBN 1-84415-091-7
- 軍服
- Gordon Williamson U-Boat Crews 1914-1945, Osprey Militay, 1995, ISBN 1-85532-545-4
関連項目
- ドイツ海軍
- 潜水艦
- 魚雷
- ソナー
- 無制限潜水艦作戦
- 大西洋の戦い
- 群狼作戦
- 遣独潜水艦作戦
- G7 (魚雷)
- Uボート・ブンカー
- Uボート潜水隊群の一覧
- モンスーン戦隊
- レーゲンボーゲン作戦 (Uボート) - 戦後に鹵獲を避けるためにUボートの自沈が行われた。
- 最初の幸せな時間 - Uボートがイギリス海軍とその同盟国に対して大きな成功を収めた大西洋の戦いの初期の段階は、 Uボートの乗組員によって「幸福な時代」(「 Die Glückliche Zeit」)と呼ばれた。始まりは1940年7月、フランス陥落直後。1940年7月から10月末までに、アイルランド北西沖で連合国船282隻が沈没し、商船1,489,795トンが失われた。終焉は1940年10月又はドイツ側が3人の著名なUボート司令官、ギュンター・プリーン、ヨアヒム・シェプケ、オットー・クレッチマーを失った後の1941年4月までとしている。
- 二度目の幸せな時間- 正式にはOperation Paukenschlag(「Operation Drumbeat」)、ドイツ潜水艦司令官の間では「アメリカン・シューティング・シーズン」とも呼ばれた。この時間は1942年1月から同年8月頃まで続き、ドイツの潜水艦乗組員はこの時期を「幸福な時間」または「黄金の時間」と名づけたが、これは防衛対策が脆弱で無秩序であったため、Uボートはほとんど危険を冒すことなく甚大な損害を与えることができたからである。 この期間、枢軸国の潜水艦は609隻、総トン数310万トンを撃沈したが、Uボートの損害はわずか22隻であった。 その結果、商船員を中心に数千人の命が失われた。 この時期の損失は、第二次世界大戦全体を通してUボートによって撃沈された全船舶のおよそ4分の1に相当する。
外部リンク
U・ボート (映画)
(Uボート から転送)
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U・ボート | |
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Das Boot | |
監督 | ウォルフガング・ペーターゼン |
脚本 | ウォルフガング・ペーターゼン |
原作 | ロータル=ギュンター・ブーフハイム 『Uボート』 |
製作 | ギュンター・ロールバッハ |
製作総指揮 | ルッツ・ヘンクスト |
出演者 | ユルゲン・プロホノフ ヘルベルト・グレーネマイヤー |
音楽 | クラウス・ドルディンガー |
撮影 | ヨスト・ヴァカーノ |
編集 | ハンネス・ニーケル |
製作会社 | バヴァリア・アトリエ Radiant Film ジュートドイチャー・ルンドフンク (SDR) ヴェストドイチャー・ルンドフンク (WDR) |
配給 | ![]() ![]() |
公開 | ![]() ![]() |
上映時間 | 149分 135分(日本公開版)[1] 208分(ディレクターズ・カット版)[2] |
製作国 | ![]() |
言語 | ドイツ語 |
製作費 | DEM32,000,000[3] |
興行収入 | ![]() |
『U・ボート』(原題:Das Boot、英題:The Boat)は、1981年の西ドイツの戦争映画。
監督はウォルフガング・ペーターゼン、出演はユルゲン・プロホノフとヘルベルト・グレーネマイヤーなど。
日本での公開は1982年、日本ヘラルド映画配給。1997年(日本では1999年5月1日)には、ペーターゼン自ら編集したディレクターズ・カット版が公開された。
概要
第二次世界大戦中にロータル=ギュンター・ブーフハイムがU-96に同乗して取材した経験を基にした小説『Uボート』(原題:Das Boot)を原作とし、当時大西洋を席巻したドイツの潜水艦・Uボートの艦内を舞台として、極限状態における人間のありようをリアルに描写した戦争映画。当初はテレビシリーズとして製作が開始され、これを映画に編集したものが1981年にドイツで公開された。それから3年後の1984年に、イギリスのBBC2で全6話、合計約300分のドラマシリーズとして放映され、およそ700万人が視聴した。翌1985年2月にはドイツのテレビでも放送され、全世帯の50%から60%で視聴された[5]。
1982年に映画がアメリカ合衆国で公開されると、同年のアカデミー賞で6部門にノミネート(監督、撮影、視覚・音響効果、編集、音響、脚色)されるなど[6][7]、国際的に広く評価された。また、監督・脚本を手がけたウォルフガング・ペーターゼンは、本作をきっかけにハリウッドへと進出することになった。 構想から完成まで4年の歳月を費やし、3200万マルク(当時のレートで1850万ドル、約40億円)という巨額の製作費の下(ドイツ映画としては1927年の『メトロポリス』に次ぐ規模)でUボートの実物大レプリカが建造された。このセットを用いたリアルな艦内描写が作品の中心に据えられており、物語が進むにつれ薄汚れ・髭だらけになり匂い立つばかりにまで演出される乗組員の有り様が、他に類を見ない迫力を出している。本作の出演者は当時無名の俳優たちであったが、本作を出世作として以後活躍している者も少なくない。
また、クラウス・ドルディンガーによるテーマ曲は、1991年にテクノ風にリミックスされヨーロッパを中心にヒットした。
2018年には続編として、『Uボート ザ・シリーズ 深海の狼』(全8話)、2020年には『Uボート ザ・シリーズ2 深海の狼』(全8話)が制作された。
ストーリー
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この節にあるあらすじは作品内容に比して不十分です。
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第二次世界大戦中の1941年秋、ナチス・ドイツの占領下にあったフランス大西洋岸のラ・ロシェル港から、1隻のUボート「U96」が出航する。彼らに与えられた任務は、大西洋を航行する連合国護送船団への攻撃であった。報道班員のヴェルナー少尉はUボートの戦いを取材するため、歴戦の艦長と古参のクルー、若者ばかりの水兵を乗せたU96に乗り込む。荒れ狂う北大西洋での孤独な索敵行、ようやく発見した敵船団への攻撃と戦果、海中で息を潜めながら聞く敵駆逐艦のソナー音と爆雷の恐怖、そして目の前に突きつけられた死に行く敵の姿。疲労したU96の乗組員たちはクリスマスには帰港できることを願うが、母国から届いた指令はイギリス軍の地中海要衝であるジブラルタル海峡を突破してイタリアに向え、という過酷なものであった。中立国スペインのビゴにて偽装商船から補給を受けたU96は、敵が厳しく警戒するジブラルタル海峡突破に挑む。艦長、ヴェルナー少尉、そして乗組員たちの前には非情な運命が待ち受けていた。
主な登場人物

- 艦長
- ドイツ海軍Uボート潜水艦「U96」の艦長。階級は海軍大尉。劇中では名前で呼ばれることはなく、部下からの正式な呼びかけは「ヘル・カピテーンロイトナント(大尉殿)」であるが、ドイツ海軍全般の慣習により「ヘル・カーロイ」と略されている。歴戦のベテランであるが故に、前線の状況も知らずに大言壮語する上層部には冷ややかで、出撃に浮かれる若い乗組員には憂いの目を向ける。劇中では自国のプロパガンダ放送に嫌気がさして、敢えて敵国イギリスの愛唱歌「ティペラリー・ソング」のレコードをかけさせたこともあった。戦争前は帆船の船乗りで、生粋の海の男である。モデルは、U96艦長でUボートエースの一人だったハインリヒ・レーマン=ヴィレンブロック大尉。彼も潜水艦乗りの前は水上艦勤務の経歴を持っていた。
- ヴェルナー少尉
- Uボートを取材するために同乗した海軍報道班員。海軍報道班員だった原作者のブーフハイムが潜水艦を取材した際の体験が投影されたキャラクター。下士官室で専用のベッドを与えられるなど序盤は“お客様”扱いされていたが、徐々にUボートの戦いの過酷な現実を知る。テレビドラマ版では物語の語り部を務めている。
- 機関長
- 多くの航海を艦長と共にしてきた、ベテラン機関長。階級は海軍中尉。ケルンに残した妻が出港前日に出産のため入院し、しかもケルンが空襲を受けたことから、出撃前夜祭では彼女のことを気遣っていた。今回が12回目の出撃で、これを最後に艦を降りる予定。艦長の命令通りに舵を操るため、艦橋下の発令所にいることが多い。
- 先任士官
- メキシコ育ちで農園の若旦那だったが、ドイツ国内の情勢変化に伴い帰国。ヒトラー・ユーゲント団長を経て海軍士官に任官した青年。階級は海軍中尉。生真面目な性格で、常に髭を剃って小奇麗にしているため、むさ苦しい艦内の雰囲気から浮いている。手の空いているときは士官候補生たちに講義を行っている。しかし、決して口先だけの人物というわけではなく、魚雷発射時には照準指揮をとる。
- 次席士官
- 元銀行員で、先任士官とは対照的に陽気で空気の読めない冗談好き。階級は海軍中尉。暗号で届く指令をエニグマ暗号機で復号し報告するのが仕事の一つ。発令所その他においてヴェルナーの取材に積極的に協力し、現在の状況を素人であるヴェルナー(及び視聴者)に説明する。先任士官のことを「ケツの穴までコチコチのナチ」と冗談混じりに評し、艦長からその評をたしなめられている。
- クリーヒバウム航海長
- 機関長同様に、長らく艦長と航海を共にしてきた下士官。階級は兵曹長に相当する。浮上中には艦橋で天測を担当し、それを元に艦の現在位置を測定する。クールな性格で淡々と仕事をこなす。後にジブラルタルで敵機から機銃掃射を受け重傷を負う。
- ウルマン
- ヴェルナーの向かいの寝台を割り当てられている士官候補生。フランスの花屋の娘を妊娠させ、周囲には内緒で婚約している。写真を眺めながら彼女の身を案じつつ、暇をみては手紙を書きためている。
- ヨハン
- 機関兵曹長。発令所から機関部に指示を出す機関長に対して、機関科の現場責任者。滅多に機関室から外に出ないため、(機関室の)“幽霊”と渾名される。すでに8回の出撃も経験しているが、敵駆逐艦からの激しい爆雷攻撃に錯乱してしまう。しかし、ジブラルタルでは自分の職責を果たした。
- ヒンリッヒ兵曹
- 聴音・通信を担当し、衛生兵も兼ねる。潜航中はヘッドフォンを耳に当てて音を頼りに外部の様子を探り、負傷者には献身的な手当てを施す。持ち場が艦長室の向かいにあるため、艦長と会話する場面も多い。
- ランプレヒト兵曹長
- 水兵をまとめあげる役目を担う。出港後すぐヴェルナーに艦内を案内する。魚雷命中の際に興奮して水兵を騒がせてしまい、あわてて黙らせた。無線で届いたサッカーの試合の結果に激しく落胆するなど感情豊かな人物。ディレクターズ・カット版の冒頭では泥酔しており、出撃前夜祭に向かう艦長の車を止めた。
- ピルグリム二等兵曹
- 髪につけているグリースがとても臭いらしい。荒天下の浮上航行中、艦橋に打ち寄せた波にさらわれて転落しかけ、骨折した。尻毛で結び目が作れるのが自慢。
- アリオ
- 機関兵。短気な男で、作業中の艦内を取材していたヴェルナーにイラついて汚れた布を投げつけたり、戦闘中に神に祈っていた兵士を殴りつけたりする。
- その他の兵士たち
- 平均年齢19歳で構成される経験の浅い水兵。現実主義者の艦長からは「子供十字軍」だと思われている。
- フィリップ・トムゼン大尉
- ヴェルナー達の出航前日に帰港してきた歴戦のUボート艦長。戦功により騎士十字章を受章し、港の酒場には部下たちと共に酩酊した状態で現れて一同から祝福を受けるが、翌朝のU96の出港を沈鬱な表情で見送る。次の任務では離れた場所で哨戒をしているはずが、悪天候や潮流の影響もあり洋上で鉢合わせしてしまう。
キャスト
役名 | 俳優 | 日本語吹替 | ||||
---|---|---|---|---|---|---|
ソフト版 | フジテレビ版 | テレビ東京版[8] | ||||
艦長 | ユルゲン・プロホノフ | 羽佐間道夫 | 内海賢二 | 大塚明夫 | ||
ヴェルナー少尉 | ヘルベルト・グレーネマイヤー | 池田秀一 | 野沢那智 | 堀内賢雄 | ||
機関長 | クラウス・ヴェンネマン | 小林恭治 | 樋浦勉 | 金尾哲夫 | ||
第一当直士官 | フーベルトゥス・ベンクシュ | 松本大 | 津嘉山正種 | 大滝寛 | ||
第二当直士官 | マルティン・ゼメルロッゲ | 桑原たけし | 鈴置洋孝 | 長島雄一 | ||
一等航海士 | ベルント・ダウバー | 西尾徳 | 池田勝 | 田中正彦 | ||
ヨハン | アーウィン・レダー | 池田勝 | 青野武 | 牛山茂 | ||
ウルマン少尉 | マルティン・マイ | 岸尾大輔 | 塩沢兼人 | 桐本琢也 | ||
ヒンリッヒ | ハインツ・ヘーニッヒ | 緒方文興 | ||||
兵曹長 | ウーヴェ・オクセンクネヒト | 遠近孝一 | 千田光男 | 相沢正輝 | ||
アリオ | クロード=オリバールドルフ | 大友龍三郎 | 郷里大輔 | 星野充昭 | ||
ピルグリム | ヤン・フェダー | 山中一徳 | ||||
トムゼン | オットー・ザンダー | 池田勝 | 黒沢良 | 佐々木勝彦 | ||
役不明 その他 |
N/A | 篠原正典 岸野一彦 佐田明 寺床秀太 宮田光 鈴木弘子 金野恵子 |
佐藤正治 西村知道 広瀬正志 緒方賢一 仲木隆司 大山高男 後藤哲夫 笹岡繁蔵 龍田直樹 清水信一 大滝進矢 榊原良子 |
大山高男 内田直哉 中田和宏 田原アルノ 天田益男 花田光 乃村健次 谷昌樹 松本大 緒方文興 坂東尚樹 竹村叔子 室園丈裕 |
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日本語版制作スタッフ | ||||||
演出 | 岡本知 | 山田悦司 | 高橋剛 | |||
翻訳 | 鈴木導 | 宇津木道子 | ||||
調整 | 飯塚秀保 | 兼子芳博 | 山本洋平 | |||
制作 | グロービジョン | ザック・プロモーション | ||||
初回放送 | N/A | 1983年10月8日 『ゴールデン洋画劇場』 |
2000年5月4日 『木曜洋画劇場』 21:00-23:44 正味135分 |
スタッフ
- 原作:ロータル=ギュンター・ブーフハイム
- 監督・脚本:ウォルフガング・ペーターゼン
- 音楽:クラウス・ドルディンガー
- 製作:ギュンター・ロールバッハ
- 製作助手:ミヒャエル・ビティンス
- 撮影:ヨスト・ヴァカーノ
- 製作総指揮:ルッツ・ヘンクスト
- プロダクション・デザイナー:ロルフ・ツェートバウアー、ゲート・ヴァイトラー
- 編集:ハンネス・ニーケル
- ディレクターズ・カット プロデューサー:オートウィン・フレイヤマス
潜水艦U96

本作で主人公艦として扱われるUボートは一般に「U96」と称される。原作では「UA」と表記されているが、作者のブーフハイムが戦時中にそのU96に同乗取材していたことや、艦橋両舷に描かれた「笑うノコギリザメ」のマーキングが実在のU96のものと同一であることから、DVDの字幕などでも「U96」の表記が見られる様になった。

実在のU96は、第二次世界大戦期に最も多い659隻が建造されたVIIC型と呼ばれる中型Uボートの1隻である。1939年9月16日起工、1940年9月14日竣工し、本作の「艦長」のモデルとされるヴィレンブロック大尉が初代艦長を務めた。同艦長のもと1943年3月28日までに8回出撃し、28隻・199087tを撃沈破した。この功績により潜水戦隊司令へと栄転したヴィレンブロックが下艦した後も別の艦長の指揮のもと活動を続け、1943年3月に前線を退いて訓練艦となり、1945年2月に除籍となったあと、1945年3月30日にヴィルヘルムスハーフェンにてアメリカ軍の攻撃により沈没。連合軍の対潜戦術向上により作戦行動中に撃沈されたUボートが多い中、計11度もの作戦行動を生き延びた稀有な例である。
「U96」という明確なモデルは存在するものの、劇中に描かれる哨戒行動及び戦闘は概ねフィクションである。物語中に描かれる1941年秋頃には、実艦のU96もヴィレンブロック艦長のもとで哨戒任務を行っていたが、連合軍の対潜戦術の向上や船団護衛方針の転換によってか、戦果虚しく帰港している。また、登場人物の運命もモデルとなった人物のものとは少なからず異なっている。
撮影背景

1979年より制作が開始され、完成まで2年の歳月を費やした。長期間に及ぶ撮影により出演者はしだいに疲労し、伸び放題の髪に無精ひげを生やし青白い顔をした実際のUボートの乗組員の姿を再現することになった。

艦内シーンの撮影は実物大のセットで行い、特撮シーン及び特殊効果は模型を用いて撮影された。この時建造されたUボートは、後にアメリカ映画『レイダース/失われたアーク《聖櫃》』にも登場している。現在はミュンヘン郊外グリューンヴァルトのバヴァリアフィルム(Bavaria Filmstadt)のガイド付き見学コースで、艦内セットに入ることができる。
音楽
クラウス・ドルディンガーによるテーマ曲は、1991年にテクノ風にリミックスされヨーロッパを中心にヒットした(U96『Das Boot』)。
劇中で2度に渡り流れる「遙かなるティペラリー(ティペラリー・ソング)」は戦前戦中期に収録された音源ではなく、1956年にソビエト連邦の赤軍合唱団(Alexandrov Ensemble)によって収録された物である。この時ソロを務めたのはコンスタンチン・ゲラシモフ(Konstantin_Grigorievich_Gerasimov)であり、特に2度目の演奏の際の赤軍合唱団とのコーラスパートはU96乗組員の歓喜の合唱シーンと相まって名シーンとして名高い。なお、映画と同じ音源は現在も幾つかのCDにて入手可能である[9][10]。
軍港の岸壁で軍楽隊によって演奏される楽曲は、U96の出撃時はドイツ南東部の俗謡が軍歌として採用された『別れの歌』、帰還時はもともとはオーストリア軍楽で、ドイツ軍楽典(Armeemarschsammlung および Heeresmarschsammlung)にも収録された『アルブレヒト大公行進曲』である。
関連媒体
書籍
- 『Uボート』(ロータル=ギュンター・ブーフハイム著、松谷健二訳、早川書房、1977年)
- 『Uボート(上)』(ロータル=ギュンター・ブーフハイム著、松谷健二訳、早川文庫<NV616>、1991年4月19日)ISBN 4-15-040616-2
- 『Uボート(下)』(ロータル=ギュンター・ブーフハイム著、松谷健二訳、早川文庫<NV617>、1991年4月19日)ISBN 4-15-040617-0
DVD
- 『U・ボート ディレクターズ・カット』(パイオニアLDC(現ジェネオン・エンタテインメント))、1999年11月26日)
- 『U・ボート ディレクターズ・カット』(ジェネオン・エンタテインメント、2005年1月26日)※上記のリパッケージ版。
- 『U・ボート パーフェクト・コレクション』(ジェネオン・エンタテインメント、2005年1月26日)『ディレクターズ・カット』、『TVシリーズ』、『オリジナル劇場版』を同梱した限定セット。
- 『U・ボート TVシリーズ完全版』(ジェネオン・エンタテインメント、2005年1月26日)
- 『U・ボート ディレクターズ・カット』(角川書店、2011年11月25日)※『ディレクターズ・カット』の廉価盤
ブルーレイ
サウンドトラック
- 『Uボート オリジナル・サウンドトラック』(1998年)※廃盤
出典
- ^ “U・ボート : 作品情報”. 映画.com. 2020年2月9日閲覧。
- ^ “U・ボート ディレクターズカット : 作品情報”. 映画.com. 2020年2月9日閲覧。
- ^ “Das Boot (1981)” (英語). IMDb. 2020年2月9日閲覧。
- ^ “Das Boot (1982) - Financial Information” (英語). The Numbers. 2020年2月9日閲覧。
- ^ 稲垣哲也 (2021年1月27日). “『U・ボート』映画公開後に作られたドラマ版を鑑賞することで気づく戦争映画の真価とは?”. CINEMORE(シネモア). 太陽企画. 2021年2月2日閲覧。
- ^ “第55回 アカデミー賞(1983)”. 映画.com. エイガ・ドット・コム. 2021年2月2日閲覧。
- ^ “THE 55TH ACADEMY AWARDS: 1983(Honoring movies released in 1982)”. Oscars. 2021年2月2日閲覧。
- ^ 劇場公開版をノーカット放送
- ^ CD:EMI:Soviet Army Chorus & Band, CDC-7-47833-2 DIDX-1015, "Tipperary".
- ^ CD:EMI Classics:Red Army Ensemble, 0946-3-92030-2-4, "Tipperary".
外部リンク
Uボート
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/27 10:14 UTC 版)
「JORGE JOESTAR」の記事における「Uボート」の解説
潜水艦型のスタンドだが、中身もリアルな潜水艦である。生物やスタンドの体内に潜航し、魚雷や巡航ミサイルで攻撃する。集中させて1体にすると、ほぼ原寸大の潜水艦サイズになり、縮小させることも出来る。本体が潜望鏡を装着する事で右目で遠隔視することも可能。
※この「Uボート」の解説は、「JORGE JOESTAR」の解説の一部です。
「Uボート」を含む「JORGE JOESTAR」の記事については、「JORGE JOESTAR」の概要を参照ください。
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