栃木県
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/17 09:24 UTC 版)
歴史
歴史的には古墳時代、毛野川(けぬのかわ)(現在の鬼怒川)流域一帯には「毛野国」が成立し、これを上下に分かって「下毛野国(しもつけぬのくに)」「下野国(しもつけのくに)」が成立し、唐名では「野州(やしゅう)」と称する。現在でも「下野(しもつけ)」の呼称が広く使われている。
先史時代
- 1965年(昭和40年)から五次にわたって調査された星野遺跡は芹沢長介によって約3万年以上前の前期旧石器時代で原人段階の遺跡であると主張された。旧石器時代の遺跡であることは認められたが、原人段階まで溯るかどうかについては長い論争があり、決着をみていない[12]。
- 栃木県北部にある活火山・高原山を構成する一峰である剣ヶ峰が原産の黒曜石を使用した石器が矢板市より200km以上離れた静岡県三島市や長野県信濃町の遺跡で発見され、研究が進められている。産出時期は古いものでは石器の特長よりいまから約3万5千年前の後期旧石器時代と考えられており、その採掘坑遺跡(高原山黒曜石原産地遺跡群)は日本最古のものと推定されている。氷期の寒冷な時期に人が近付き難い当時の関東北部の森林限界を400mも超える標高1,500m近い高地[13]で採掘されたことや、従来の石器時代の概念を覆すような活動・交易範囲の広さ、遺跡発掘により効率的な作業を行っていたことなどがわかってきて注目が集まっている。またこの新しい発見により日本人の起源、人類の進化をたどる手掛かりになると言う研究者の発言も報道もされている[14][15][16]。最新の研究では南関東を中心に高原山産の黒曜石製石器が広範囲に流通していたことがわかってきている。
- 約2万年前の後期旧石器時代のものと思われる磯山遺跡が発見されている。この遺跡は真岡市の南東約3キロの所にある磯山と呼ばれる小さな独立丘陵の南西麓に立地している。1962年(昭和37年)- 翌年に掛けてと1968年(昭和43年)の二度にわたり発掘調査されている。デイサイト製の石核や剥片とともにナイフ形石器などが発見されている[20]。
- 古墳時代 - 古代、毛野川(けぬのかわ=現在の鬼怒川、鬼怒川は当時下野国 - 下総国と流れ現在の土浦市南方で香取海(銚子で太平洋に繋がる内海)に注ぐ大河であったが、江戸時代の利根川東遷事業より後は利根川に注ぐ川へと変更された)流域一帯には毛野国が成立しており、ヤマト王権において毛野国は筑紫、出雲、吉備などと並び強大な発言力を有していたと言われる[21]。
- 栃木県内各地には縄文時代からの考古遺跡が多数認められており、古代には毛人が住む地域であったと解されるのが一般的であるが、その後、第10代天皇で真の意味でのヤマト王権の初代開祖とも言われる崇神天皇の第一皇子、豊城入彦命が父の命でこの地に入って毛野国を建国し、その後毛野国の有力豪族となった毛野氏の祖となり、ヤマト王権において有力豪族の一角をなした[21]。毛野国は奈良時代には上毛野(上野)国と下毛野(下野)国に分国されたと言われるが、毛野川は上野国を流れておらず、上野国を流れるのは利根川(古来は東京湾に注いでいたが利根川東遷事業の後は銚子で太平洋に注ぐ川へと変更された)であることに鑑みると、この説も定かではない。
- 4世紀から5世紀にかけて駒形大塚古墳、下侍塚古墳などの大型の前方後方墳を代表とする多くの古墳が那須地方の那珂川沿岸の河岸段丘上に築造される。これらの前方後方墳は大型の古墳が少ない東北地方に作られた福島県郡山市の大安場古墳などにも影響を与えたと考えられている。
古代
- 下毛野国と那須国は7世紀後半に統一されて下野国となり、現在の栃木県の県域が形作られた。
- 「国府は都賀郡にあり」(『和名類聚抄』)とあり、発掘の結果、国府の政庁は宮目神社(栃木市田村町)周辺で発見され、約90メートル四方の範囲を塀によって区画され、南門を入ると正面に前殿が、その両脇に東・西脇殿が確認された。政庁は8世紀前半から10世紀前葉まで4回建て替えられ存続した。
- 下野国は9郡(70郷)で足利郡(6郷)、安蘇郡(4郷)、梁田郡(3郷)、都賀郡(11郷)、河内郡(11郷)、芳賀郡(14郷)、那須郡(12郷)、寒川郡(3郷)、塩谷郡(6郷)に分かれていた。
- 郡の役所である郡衙は、那須郡(小川町那須官衙跡)・芳賀郡(真岡市堂法田遺跡)・河内郡(上三川町多功遺跡)・寒川郡(小山市千駄塚浅間遺跡)・足利郡(足利市国府遺跡)の5遺跡発見されている。内容が判明している那須郡衙跡は、那珂川と箒川の合流地点に近い小川町梅曽に位置する。郡衙の範囲は南北に200メートル、東西400メートルで、その中を溝で西・中央・東の3ブロックに分けている。西ブロックは幅4メートル、深さ1メートルの大溝によって囲われた1辺約200メートルの不正方形で、倉庫と考えられる総柱式の掘立建物が多数見つかっている。中央・東ブロックは宅地になっている。中央ブロックからは礎石立ちの倉庫と考えられる建物が2棟発見されている[23]。
- 多賀城碑、多胡碑と並ぶ日本三大古碑の一つとされる那須国造碑(国宝、700年(文武天皇4年)建立)が下侍塚古墳の付近で延宝4年(1676年)、僧侶・円順により発見された。その報を受けた領主である徳川光圀が笠石神社を創建し碑の保護を命じた。古墳文化と合わせて那須地方(那須国造)のこの地域が重要な拠点であったことがうかがい知れる。
- 下毛野国造は下毛野君である。下毛野君は豊城入彦命の後裔とされ(日本書紀)、天武天皇13年に定められた八色の姓では地方豪族としては破格の朝臣姓を賜り、大和朝廷が701年に定めた律令(大宝律令)の編纂には下毛野古麻呂が藤原不比等とともに深く関わった(続日本紀)。
- 栃木県の県庁所在地である宇都宮市の名称は二荒山神社の別号宇都宮大明神に由来し、宇都宮の歴史は即ち出雲神を祀る当神社の歴史と言える。この神社は毛野国の開祖である豊城入彦命を祀り、創祀は命の曾孫である奈良別君と言われるが、この時既にこの地には豊城入彦命によって国土開拓の祖神・大物主命が祀られていたと言われており、西暦200年代、遅くても300年代(社伝では仁徳天皇41年、西暦353年=奈良別君の時代)には成立していたと社伝に伝わるが、正史に初めて下野国の神が登場するのは836年(承和3年)のことで、この時従五位上勲四等の二荒神が正五位下を奉授している。平安時代、当神社は延喜式神名帳に下野国唯一の一之宮名神大社(河内郡)とされ、下野国で最も格式ある神社と位置付けられていた。延喜式神名帳では下野国の神として以下の11社(大社1、小社10)が記されており、大社は河内郡の二荒山神社のみとなっている。
- 二荒山神社は国造下毛野氏の統治下にあって下毛野氏の血縁者が代々座主を務め、平安時代末期に藤原北家道兼流で毛野氏あるいは中原氏の流れを汲んだ宇都宮氏がその座を継いだと言われている。宇都宮氏は鎌倉時代以降22代500年に亘って鬼怒川流域一帯を統治し、小倉百人一首の成り立ち、宇都宮歌壇の成立、東勝寺や尾羽寺、清巌寺や興禅寺に代表される寺院の造営など当地の文化的素養の養生に尽力するとともに、また元寇の折には鎌倉幕府軍総大将として討伐に向かい、関東内の戦乱にあっては時の中央政府(鎌倉幕府、室町幕府、鎌倉府、関東管領など)の意向を受けてその鎮静に当たり、武門としても当時の関東地方の治安維持に貢献した。
- 先述のとおり、宇都宮二荒山神社は宇都宮大明神と呼ばれ、古来からその武徳が尊ばれてきた。藤原北家魚名流・藤原秀郷(俵藤太、田原藤太)卿は、平将門の乱の折、その追討を命じられたが苦戦、当神社に参じて授かった霊剣をもって将門を制したと言われる。また藤原北家長家流・那須与一宗高は治承・寿永の乱(源平合戦)における屋島の戦いで「南無八幡大菩薩、日光権現、宇都宮、那須湯前大明神」と唱え、見事平家船上の扇の的を射落としたと言われる[24]。また、伝説として元寇の際には社殿から鏑矢が西へ飛び去ったという言い伝えがある。この他、源頼義、義家(八幡太郎)父子は前九年の役の前に参拝し、奥州安倍氏を掃討したといい[25]、また源頼朝も奥州藤原氏平定に際して参拝した[26]。徳川家康は当神社に神領1,500石という広大な土地寄進を行ったとされる[27]。
- 日光開山の祖と知られる勝道上人は、下野薬師寺で5年間修行した後に男体山を目指し、766年に四本龍寺を建立したと言われる。782年には3度目の試みで山頂に達し、その後神宮寺(現在の中禅寺)を建立し、日光1200年の原点を築いた。一説に「日光」という地名は空海が二荒(ふたら=補陀落:ポタラカ)を音読した「にこう」に佳字を当てたのが起源といわれるが、当時の記紀類は全て「二荒」で記録上の「日光」の初見は鎌倉時代後期であり、この時期と下野国内に千手観音や日光菩薩像が多く造立された時期が一致している(大谷磨崖仏、佐貫石仏)。
中世
- 鎌倉幕府が成立すると、足利・小山・宇都宮・那須などの下野諸氏は鎌倉御家人となり活躍した[28]。小山氏は藤原北家魚名流・藤原秀郷の後裔と言われ、武家として鎌倉時代には下野国の守護を務める家柄であったが、室町時代初期、小山義政が下野国国司・宇都宮氏を攻略し宇都宮基綱を戦死させたため、鎌倉府・関東管領によって討伐された。
- 結城氏は小山氏の庶流であり、主家・小山氏が鎌倉府によって討伐されると小山氏を継いだ。小山氏・結城氏は室町時代には室町幕府に抵抗して鎌倉を追われた古河公方に組して下野守護に再任された。結城政朝は非凡な将かつ野心家で宇都宮成綱の姉を妻として迎え、成綱と強固な同盟関係を築いた。成綱の古河公方擁立の際には政朝も加担している。成綱が没すると宇都宮氏との関係が悪化し、宇都宮領を侵攻し旧領を取り戻した。小山氏の後継者争いに介入し、子の小山高朝を送り込むことに成功している。結城政勝は結城氏の版図を最大まで拡大しており、「結城氏新法度」を制定している。結城晴朝は足利氏の力が弱まると関東に台頭してきた後北条氏方に就くが、主家・小山氏は後北条氏に追討されてしまう。豊臣秀吉によって後北条氏が討たれると結城氏が旧小山氏領を支配したが、江戸時代になると間もなく福井へ転封され、氏姓も松平氏に改めてこの地を去った。
- 藤原北家道兼流で毛野氏(あるいは中原氏)の流れを汲む関東の名門・宇都宮氏は、宇都宮二荒山神社(宇都宮大明神)の神職者として関東の治安維持に貢献した。紀清両党や大須賀党などの精鋭武士団が有名である。鎌倉時代、宇都宮朝綱が奥州合戦で戦功を挙げ、源頼朝から「坂東一の弓取り」と賞賛された。この時、同じく戦功を挙げた家臣の芳賀高親、益子正重も頼朝から源氏の白旗一流ずつを贈られており紀清両党は世にその武勲を知らしめた。朝綱の孫である宇都宮頼綱は日本三大歌壇の1つである宇都宮歌壇を築いた。宇都宮泰綱から宇都宮氏当主は評定衆、引付衆を歴任しているなど、宇都宮氏は鎌倉幕府で有力な一族の1つであった。宇都宮景綱は日本最古の武家(社家)家法である宇都宮家式条を制定している。鎌倉時代末期、元が九州に攻め寄せると、これを鎮めるべく宇都宮貞綱が鎌倉軍総大将として征西しこれを防いだ。猛将として知られる宇都宮公綱は楠木正成と戦い「坂東一の弓取り」と評された。また、建武政権でも有力者の一人だった。
- 室町時代、宇都宮氏綱は足利尊氏を助け下野・上野・越後3国の守護を務め、薩埵山体制の一翼を担うなど絶頂期を迎える。宇都宮持綱は関東管領・上杉氏に引き継ぎ、その上杉氏を討って関東を争乱に陥れた鎌倉公方・足利持氏を室町幕府の意向を受けて牽制した。戦国時代、17代当主宇都宮成綱は、宇都宮氏中興の祖と呼ばれた名将であり、器量に優れ、かつ野心家で積極的に勢力を拡大した。古河公方の内紛が起こると娘婿の足利高基を庇護し、古河公方擁立を企み介入。勢力拡大を図った。清党の芳賀氏との内訌によって宇都宮錯乱が起こるとこれを制し、家中をまとめあげ戦国大名化に成功した。外交手腕を駆使し、伊達氏と連絡を取ったり、古河公方足利政氏を支持する那須氏を寝返らせたり、姉や娘を古河公方足利高基や結城氏の結城政朝に嫁がせるなど近隣の安定化も図った。晩年には北関東の覇権を巡り、佐竹氏の佐竹義舜と争った。成綱の思惑通りになり、北関東最大の勢力として全盛期を築き、成綱は北関東一の実力者となった。成綱没後は嫡男の忠綱が跡を継ぎ、川井合戦で那須氏と戦い、河原田合戦で皆川氏を滅亡目前にまで追い込むなど、勢力拡大を図る。下野国の大半と常陸国(茨城県)の一部にまで版図を拡大したが、強硬な家中支配の強化や連年の戦いによって家臣らは忠綱に不満を抱くようになった。また、成綱の義兄弟である結城政朝との関係が悪化。猿山合戦で結城政朝と戦っている間に、芳賀興綱が芳賀氏の芳賀高経らに擁立され、謀略によって宇都宮城を乗っ取られてしまう。この内訌が原因で宇都宮氏は近隣に大きく後れを取ることになり、衰退の道を辿ることになった。興綱が当主になった後は、家臣の芳賀高経、芳賀高孝、壬生綱房らが家中で絶大な権力を振るい、政治を専横した。この体制は次代の尚綱のころまで続いた。喜連川五月女坂の戦いで尚綱が那須氏に討たれると壬生綱房が宇都宮城を乗っ取ってしまう。忠臣芳賀高定の尽力によって宇都宮城の奪還に成功し、上杉氏が侵攻してきた時も、撃退に成功している。後北条氏が台頭すると宇都宮広綱は、芳賀高定の活躍によって常陸国の佐竹氏との婚姻同盟を成立させ、佐竹氏とともに後北条氏を牽制した。天正年間に後北条氏に小山氏の祇園城を攻略されると宇都宮領への侵攻が過激化する。宇都宮国綱は本拠を防衛に適した多気山城に移し、後北条氏が壬生氏や那須氏、日光山僧兵と連携して度々下野国に攻め込んできた時も、撃退して持ち堪えた。豊臣秀吉の天下統一によって戦国の乱世を生き延び、豊臣大名として存続できた。しかし、宇都宮氏は浅野長政の暗躍によって豊臣政権の内部争いに巻き込まれ突如改易となり備前国へ配流されてこの地を去った。
- 代々宇都宮氏の重臣を務め、また宇都宮氏と姻戚関係にもあった紀清両党の益子氏および芳賀氏は宇都宮宗家がこの地を去った後もこの地に留まり、宇都宮氏が築いた文化を伝承したと言われる。なお、益子の西明寺には宇都宮氏墓所があり、現在も守られている。また宇都宮貞綱が亡母の供養に鋳造した鉄製塔婆を保存する清巌寺は清原氏(清党)芳賀氏が建立したものである。
- 藤原足利氏は藤原秀郷の後裔と言われ、足利荘に本拠を置き、同族の小山氏と争った。小山氏とともに「一国之両虎」と称された。足利忠綱は『吾妻鏡』に「末代無双の勇士」と記されるほどの武将であり、以仁王の挙兵で大功を挙げたが、勧賞撤回騒動がきっかけで家中が分裂。その隙を突かれ、源頼朝に滅ぼされた。
- 足利荘に本拠を置いた清和源氏義家流・足利氏は鎌倉北条氏に仕えるが、足利尊氏の代に後醍醐天皇の挙兵に応じて鎌倉幕府の討幕運動に参加する。尊氏は後醍醐天皇の建武の新政からは離反し、北朝を建てて幕府を開き、室町時代には足利将軍家となる。足利学校は「坂東の大学」として宣教師によってヨーロッパにまで隆盛の様子が伝えられている。
- 藤原北家長家流・那須氏は那珂川流域に安定した地域を形成し、関東では珍しく戦国時代・江戸時代・明治時代を乗り切り、現在もこの地に家名を継いでいる。戦国時代、猛将那須高資が宇都宮尚綱を討ち宇都宮氏を滅亡まで追いつめるが、家臣の大田原資清や宇都宮家臣の芳賀高定の謀略によって阻止された。戦国時代後期には資清の子の大関高増らに翻弄された。那須与一宗高を生む。
- 佐野氏は藤原秀郷の後裔と言われ、佐野庄に本拠を置き秀郷が築いた唐沢山城を居城とし、栄えた。戦国時代、佐野昌綱は武勇に優れ、上杉謙信や北条氏康、北条氏政を何度も撃退している。子の佐野宗綱も武勇に優れ、昌綱没後に攻めてきた上杉謙信や北条氏照を撃退している。武勇だけでなく関東では遅れていた鉄砲の普及を推奨するなど革新的な政策も施した。
近世
近世には豊臣政権による仕置が行われ、壬生氏、小山氏ら中世以来の氏族は領地を没収されるが、宇都宮氏や大関・大田原両氏の那須衆は豊臣政権に臣従し旧領を安堵されたほか、鎌倉公方の名跡を継ぐ喜連川氏や成田氏などが領地を得た。天正18年(1590年)には徳川家康が関東に移封され、下野は豊臣系大名と徳川領国の接点に位置する。なお、豊臣政権下での1597年(慶長2年)には宇都宮氏が改易されている。
豊臣秀吉没後の豊臣政権では五大老の家康と五大老の上杉景勝、五奉行の石田三成が対立し、慶長5年5月に家康は景勝討伐のため会津出兵を行う。三成は家康の出兵中に上方において挙兵し、家康は小山において上片へ引き返し、関ヶ原の戦いにおいて三成方を撃破する。家康が江戸に徳川幕府を開くと、中世以来の有力豪族は相次いで下野から姿を消し、県域は幕府直轄領や旗本領に細分化され、徳川家の譜代大名や旗本が支配するようになった。
江戸時代の幕藩体制においては宇都宮藩、壬生藩、烏山藩、黒羽藩、大田原藩、佐野藩、足利藩、吹上藩、高徳藩、喜連川藩の諸藩が成立し、福原家の佐久山陣屋、芦野家の芦野陣屋、那須家の福原陣屋、大田原家の森田陣屋など交代寄合の陣屋による領内統治が行われた。
下野国は江戸から奥州へ向かう結節点に位置し、近世には日光道中や奥州街道、壬生通りなど街道や脇往還、が整備され、小山宿や今市宿などの宿駅も整備された。また、利根川水系の渡良瀬川や思川、鬼怒川などの河川交通網も整備され、河岸が設置され舟運が行われた。
日光(日光市)は幕府の聖地として、東照宮をはじめとする華麗な建物が作られ、特別に保護・崇敬された。
近世期には日光山麓をはじめ各地で新田開発・用水開削が進むが、それに伴い秣場を巡る争論や水論も発生した。
江戸時代後期に入ると、いまの栃木県域は、地域社会の著しい疲弊・荒廃と、急激な人口減少に見舞われることになる。人口推計[29]によれば、江戸中期の享保6年(1721年)から、江戸後期の天保5年(1834年)までの約1世紀の間に、下野国の総人口は、約56万人から、61.1%の約32万人[注釈 2]まで減少し、1世紀で約4割の人口減少という、事実上の人口崩壊状態となっている。同時期、日本の総人口は、度重なる飢饉にもかかわらず、約10%の伸び(110.3%)[注釈 3]を見せており、とりわけ飢饉が深刻であったとされる、東北太平洋側の陸奥国でも、1.5割弱の人口減少(86.1%)に抑えている[注釈 4]ことから考えても、江戸後期における、下野国の際立った荒廃ぶりがうかがえる[注釈 5]。
このような状態の中で、二宮尊徳は農村のたて直しを図るため、桜町(現在の真岡市旧二宮町)の旗本領の復興につとめ、以後各地で報徳仕法と呼ばれる改革事業を実施した。
近・現代
- 戊辰戦争では宇都宮など関東内における戦役の舞台の1つとなり(宇都宮城の戦い)、1868年(慶応4年)6月鍋島道太郎(肥前藩士)が下野国真岡知県事に任命され、8月には日光領が収公された。9月に入って鍋島知県事は旧日光奉行所に入り、1869年(明治2年)2月には日光県と改称し日光に県庁を置いた。
- 明治維新を迎えると政府は、中央集権をおし進めるため1871年8月29日(明治4年旧暦7月14日)に廃藩置県を断行、旧来の封建支配の一掃を図った。その後、全国的な府県の再編が行われ、同年12月25日(旧暦11月14日)、下野国北部に宇都宮県が、また下野国南部に上野国南東部を加えて栃木県が設置された。栃木県は壬生県、吹上県、佐野県、足利県、日光県を統合している。両県の管轄区域および県庁所在地は以下の通りである。
- 1873年(明治6年)6月15日に宇都宮県と栃木県が合併して今日の栃木県が成立[30]、県庁が栃木町に置かれた。3年後の1876年(明治9年)には上野国内3郡が熊谷県の北半部(上野国内)と合併して群馬県の一部となり、ほぼ現在と同じ県域となった。1884年(明治17年)、栃木県という呼称のまま、県庁が宇都宮町に移された(栃木県庁の移転を参照)。
- 1931年(昭和6年)、栃木県一帯の農村は凶作となり疲弊。阿久津村一帯では小作農と地主側で小作料減免の交渉が行われた。この交渉において、双方に労農大衆党と大日本生産党が支援についたため対立が激化。1932年(昭和7年)1月8日には鉄砲や竹槍で武装した労農大衆党員が生産党員らを襲撃して3人が死亡、数十人が負傷する事件に発展[31]。労農大衆党員300余人、大日本生産党員200余人が保護検束された[32]。その後、小作側と地主側は小作調停法に基づく調停に応じることで和解した[33]
- 1938年(昭和13年)6月30日に台風接近に伴う豪雨があり死者3人、倒壊家屋9戸、床上浸水5500戸以上、床下浸水13000戸以上[34]。さらに9月1日にも台風接近があり死者30人、家屋全壊131戸、家屋半壊144戸、床上浸水5200戸以上、床下浸水8200戸以上[35]。
注釈
- ^ 関東地方各地の雷日数と夏季の雷日数は、東京約11日のうち夏季約9日、横浜約12日のうち夏季約8日、群馬県前橋年間19.0日のうち夏季約18日、埼玉県熊谷年間19.3日のうち夏季約17日、茨城県水戸年間16.0日のうち夏季約13日となっており、いずれの地点でも夏季の雷日数が多くなっている。
- ^ 下野国は、正確には560,020人から342,260人。
- ^ 同じく、総人口は24,534,195人から27,063,910人。
- ^ 陸奥国は、1,962,839人から1,690,509人。
- ^ 同様に、隣の常陸国も人口減少が著しく、江戸後期においては、北関東が特に疲弊した地域であったことがわかる。
- ^ 上三川町、塩谷町は域内を鉄道路線が通過しているが、駅は存在しない。
出典
- ^ 阪部教宜 編、『橡木縣地誌略』、1877年、栃木町、集英堂 [1]
- ^ 土屋栄五郎 編、『府縣管轄便覽』、1872年、土屋栄五郎 [2]
- ^ 杤木縣、『杤木縣一覽概表』、1874年、栃木町、杤木縣 [3]
- ^ 杤木縣、『杤木縣治一覽表』、1876年、栃木町、杤木縣 [4]
- ^ 栃木県、『栃木縣治提要』、1881年、宇都宮町 [5]
- ^ 栃木縣會、『明治廿五年度 通常縣會日誌』、1892年、宇都宮町 [6]
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- ^ “継承途絶えたら「大きな痛手」 那珂川の特産品“温泉トラフグ”の岐路 海ない栃木県で全国初の海水魚の養殖と話題に”. 下野新聞 (2023年11月29日). 2024年1月8日閲覧。
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- ^ 橋本澄朗「古代の下野」阿部昭・橋本澄朗・千田孝明・大嶽浩良『栃木県の歴史』山川出版社 1998年 6-57ページ
- ^ 平家物語による。
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- ^ 武光誠『県民性の日本地図』文藝春秋〈文春新書〉、2001年、79-80頁。ISBN 4-16-660166-0。
- ^ 以下の各人口推計は、「日本歴史大事典 4」(小学館 2001年)による。
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