栃木県 歴史

栃木県

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/17 09:24 UTC 版)

歴史

歴史的には古墳時代毛野川(けぬのかわ)(現在の鬼怒川)流域一帯には「毛野国」が成立し、これを上下に分かって「下毛野国(しもつけぬのくに)」「下野国(しもつけのくに)」が成立し、唐名では「野州(やしゅう)」と称する。現在でも「下野(しもつけ)」の呼称が広く使われている。

先史時代

  • 1965年(昭和40年)から五次にわたって調査された星野遺跡芹沢長介によって約3万年以上前の前期旧石器時代原人段階の遺跡であると主張された。旧石器時代の遺跡であることは認められたが、原人段階まで溯るかどうかについては長い論争があり、決着をみていない[12]
日本最古と推定される黒曜石採掘坑遺跡がある高原山
  • 栃木県北部にある活火山高原山を構成する一峰である剣ヶ峰が原産の黒曜石を使用した石器矢板市より200km以上離れた静岡県三島市長野県信濃町の遺跡で発見され、研究が進められている。産出時期は古いものでは石器の特長よりいまから約3万5千年前の後期旧石器時代と考えられており、その採掘坑遺跡(高原山黒曜石原産地遺跡群)は日本最古のものと推定されている。氷期の寒冷な時期に人が近付き難い当時の関東北部の森林限界を400mも超える標高1,500m近い高地[13]で採掘されたことや、従来の石器時代の概念を覆すような活動・交易範囲の広さ、遺跡発掘により効率的な作業を行っていたことなどがわかってきて注目が集まっている。またこの新しい発見により日本人の起源、人類の進化をたどる手掛かりになると言う研究者の発言も報道もされている[14][15][16]。最新の研究では南関東を中心に高原山産の黒曜石製石器が広範囲に流通していたことがわかってきている。
    • 矢板市教育委員会は2008年(平成20年)度調査で、1万2千年 - 1万5千年前に製作されたと推定できる国内最大級の尖頭器とその採掘坑跡を発見したと発表した。また同時に2007年(平成19年)度の調査で発掘した黒曜石採掘坑跡は1万9千年前のものと推定していたが、放射性炭素年代測定により8千5百年 - 9千年前の縄文時代早期のものと修正を行った[17][18][19]
    • 高原山黒曜石原産地遺跡群発見・発掘がもたらすもの
  • 約2万年前の後期旧石器時代のものと思われる磯山遺跡が発見されている。この遺跡は真岡市の南東約3キロの所にある磯山と呼ばれる小さな独立丘陵の南西麓に立地している。1962年(昭和37年)- 翌年に掛けてと1968年(昭和43年)の二度にわたり発掘調査されている。デイサイト製の石核剥片とともにナイフ形石器などが発見されている[20]
  • 古墳時代 - 古代、毛野川(けぬのかわ=現在の鬼怒川、鬼怒川は当時下野国 - 下総国と流れ現在の土浦市南方で香取海銚子で太平洋に繋がる内海)に注ぐ大河であったが、江戸時代利根川東遷事業より後は利根川に注ぐ川へと変更された)流域一帯には毛野国が成立しており、ヤマト王権において毛野国は筑紫出雲吉備などと並び強大な発言力を有していたと言われる[21]
  • 栃木県内各地には縄文時代からの考古遺跡が多数認められており、古代には毛人が住む地域であったと解されるのが一般的であるが、その後、第10代天皇で真の意味でのヤマト王権の初代開祖とも言われる崇神天皇の第一皇子、豊城入彦命が父の命でこの地に入って毛野国を建国し、その後毛野国の有力豪族となった毛野氏の祖となり、ヤマト王権において有力豪族の一角をなした[21]。毛野国は奈良時代には上毛野(上野)国下毛野(下野)国に分国されたと言われるが、毛野川は上野国を流れておらず、上野国を流れるのは利根川(古来は東京湾に注いでいたが利根川東遷事業の後は銚子で太平洋に注ぐ川へと変更された)であることに鑑みると、この説も定かではない。
那須地方で盛んに作られた前方後方墳の一例。「日本で一番美しい古墳」[22] と言われている下侍塚古墳

古代

  • 下毛野国と那須国7世紀後半に統一されて下野国となり、現在の栃木県の県域が形作られた。
    • 「国府は都賀郡にあり」(『和名類聚抄』)とあり、発掘の結果、国府の政庁は宮目神社(栃木市田村町)周辺で発見され、約90メートル四方の範囲を塀によって区画され、南門を入ると正面に前殿が、その両脇に東・西脇殿が確認された。政庁は8世紀前半から10世紀前葉まで4回建て替えられ存続した。
    • 下野国は9郡(70郷)で足利郡(6郷)、安蘇郡(4郷)、梁田郡(3郷)、都賀郡(11郷)、河内郡(11郷)、芳賀郡(14郷)、那須郡(12郷)、寒川郡(3郷)、塩谷郡(6郷)に分かれていた。
    • 郡の役所である郡衙は、那須郡(小川町那須官衙跡)・芳賀郡(真岡市堂法田遺跡)・河内郡(上三川町多功遺跡)・寒川郡(小山市千駄塚浅間遺跡)・足利郡(足利市国府遺跡)の5遺跡発見されている。内容が判明している那須郡衙跡は、那珂川と箒川の合流地点に近い小川町梅曽に位置する。郡衙の範囲は南北に200メートル、東西400メートルで、その中を溝で西・中央・東の3ブロックに分けている。西ブロックは幅4メートル、深さ1メートルの大溝によって囲われた1辺約200メートルの不正方形で、倉庫と考えられる総柱式の掘立建物が多数見つかっている。中央・東ブロックは宅地になっている。中央ブロックからは礎石立ちの倉庫と考えられる建物が2棟発見されている[23]
  • 先述のとおり、宇都宮二荒山神社は宇都宮大明神と呼ばれ、古来からその武徳が尊ばれてきた。藤原北家魚名流藤原秀郷(俵藤太、田原藤太)卿は、平将門の乱の折、その追討を命じられたが苦戦、当神社に参じて授かった霊剣をもって将門を制したと言われる。また藤原北家長家流那須与一宗高治承・寿永の乱(源平合戦)における屋島の戦いで「南無八幡大菩薩、日光権現、宇都宮、那須湯前大明神」と唱え、見事平家船上の扇の的を射落としたと言われる[24]。また、伝説として元寇の際には社殿から鏑矢が西へ飛び去ったという言い伝えがある。この他、源頼義義家(八幡太郎)父子は前九年の役の前に参拝し、奥州安倍氏を掃討したといい[25]、また源頼朝奥州藤原氏平定に際して参拝した[26]徳川家康は当神社に神領1,500石という広大な土地寄進を行ったとされる[27]
大谷川にかかる神橋
  • 日光開山の祖と知られる勝道上人は、下野薬師寺で5年間修行した後に男体山を目指し、766年に四本龍寺を建立したと言われる。782年には3度目の試みで山頂に達し、その後神宮寺(現在の中禅寺)を建立し、日光1200年の原点を築いた。一説に「日光」という地名は空海が二荒(ふたら=補陀落:ポタラカ)を音読した「にこう」に佳字を当てたのが起源といわれるが、当時の記紀類は全て「二荒」で記録上の「日光」の初見は鎌倉時代後期であり、この時期と下野国内に千手観音や日光菩薩像が多く造立された時期が一致している(大谷磨崖仏佐貫石仏)。

中世

  • 結城氏は小山氏の庶流であり、主家・小山氏が鎌倉府によって討伐されると小山氏を継いだ。小山氏・結城氏は室町時代には室町幕府に抵抗して鎌倉を追われた古河公方に組して下野守護に再任された。結城政朝は非凡な将かつ野心家で宇都宮成綱の姉を妻として迎え、成綱と強固な同盟関係を築いた。成綱の古河公方擁立の際には政朝も加担している。成綱が没すると宇都宮氏との関係が悪化し、宇都宮領を侵攻し旧領を取り戻した。小山氏の後継者争いに介入し、子の小山高朝を送り込むことに成功している。結城政勝は結城氏の版図を最大まで拡大しており、「結城氏新法度」を制定している。結城晴朝足利氏の力が弱まると関東に台頭してきた後北条氏方に就くが、主家・小山氏は後北条氏に追討されてしまう。豊臣秀吉によって後北条氏が討たれると結城氏が旧小山氏領を支配したが、江戸時代になると間もなく福井へ転封され、氏姓も松平氏に改めてこの地を去った。
宇都宮二荒山神社
  • 代々宇都宮氏の重臣を務め、また宇都宮氏と姻戚関係にもあった清両党益子氏および芳賀氏は宇都宮宗家がこの地を去った後もこの地に留まり、宇都宮氏が築いた文化を伝承したと言われる。なお、益子西明寺には宇都宮氏墓所があり、現在も守られている。また宇都宮貞綱が亡母の供養に鋳造した鉄製塔婆を保存する清巌寺清原氏(清党)芳賀氏が建立したものである。
  • 藤原足利氏藤原秀郷の後裔と言われ、足利荘に本拠を置き、同族の小山氏と争った。小山氏とともに「一国之両虎」と称された。足利忠綱は『吾妻鏡』に「末代無双の勇士」と記されるほどの武将であり、以仁王の挙兵で大功を挙げたが、勧賞撤回騒動がきっかけで家中が分裂。その隙を突かれ、源頼朝に滅ぼされた。

近世

日光東照宮陽明門

近世には豊臣政権による仕置が行われ、壬生氏、小山氏ら中世以来の氏族は領地を没収されるが、宇都宮氏や大関・大田原両氏の那須衆は豊臣政権に臣従し旧領を安堵されたほか、鎌倉公方の名跡を継ぐ喜連川氏や成田氏などが領地を得た。天正18年(1590年)には徳川家康が関東に移封され、下野は豊臣系大名と徳川領国の接点に位置する。なお、豊臣政権下での1597年(慶長2年)には宇都宮氏が改易されている。

豊臣秀吉没後の豊臣政権では五大老の家康と五大老の上杉景勝、五奉行の石田三成が対立し、慶長5年5月に家康は景勝討伐のため会津出兵を行う。三成は家康の出兵中に上方において挙兵し、家康は小山において上片へ引き返し、関ヶ原の戦いにおいて三成方を撃破する。家康が江戸徳川幕府を開くと、中世以来の有力豪族は相次いで下野から姿を消し、県域は幕府直轄領旗本領に細分化され、徳川家の譜代大名旗本が支配するようになった。

江戸時代の幕藩体制においては宇都宮藩壬生藩烏山藩黒羽藩大田原藩佐野藩足利藩吹上藩高徳藩喜連川藩の諸藩が成立し、福原家の佐久山陣屋、芦野家の芦野陣屋、那須家の福原陣屋、大田原家の森田陣屋など交代寄合の陣屋による領内統治が行われた。

下野国は江戸から奥州へ向かう結節点に位置し、近世には日光道中奥州街道、壬生通りなど街道や脇往還、が整備され、小山宿や今市宿などの宿駅も整備された。また、利根川水系の渡良瀬川や思川、鬼怒川などの河川交通網も整備され、河岸が設置され舟運が行われた。

日光(日光市)は幕府の聖地として、東照宮をはじめとする華麗な建物が作られ、特別に保護・崇敬された。

近世期には日光山麓をはじめ各地で新田開発・用水開削が進むが、それに伴い秣場を巡る争論や水論も発生した。

江戸時代後期に入ると、いまの栃木県域は、地域社会の著しい疲弊・荒廃と、急激な人口減少に見舞われることになる。人口推計[29]によれば、江戸中期の享保6年(1721年)から、江戸後期の天保5年(1834年)までの約1世紀の間に、下野国の総人口は、約56万人から、61.1%の約32万人[注釈 2]まで減少し、1世紀で約4割の人口減少という、事実上の人口崩壊状態となっている。同時期、日本の総人口は、度重なる飢饉にもかかわらず、約10%の伸び(110.3%)[注釈 3]を見せており、とりわけ飢饉が深刻であったとされる、東北太平洋側の陸奥国でも、1.5割弱の人口減少(86.1%)に抑えている[注釈 4]ことから考えても、江戸後期における、下野国の際立った荒廃ぶりがうかがえる[注釈 5]

このような状態の中で、二宮尊徳は農村のたて直しを図るため、桜町(現在の真岡市二宮町)の旗本領の復興につとめ、以後各地で報徳仕法と呼ばれる改革事業を実施した。

近・現代

栃木県庁旧本庁舎を移築した昭和館(宇都宮市)
  • 1873年(明治6年)6月15日に宇都宮県と栃木県が合併して今日の栃木県が成立[30]、県庁が栃木町に置かれた。3年後の1876年(明治9年)には上野国内3郡が熊谷県の北半部(上野国内)と合併して群馬県の一部となり、ほぼ現在と同じ県域となった。1884年(明治17年)、栃木県という呼称のまま、県庁が宇都宮町に移された(栃木県庁の移転を参照)。
  • 1931年(昭和6年)、栃木県一帯の農村は凶作となり疲弊。阿久津村一帯では小作農と地主側で小作料減免の交渉が行われた。この交渉において、双方に労農大衆党大日本生産党が支援についたため対立が激化。1932年(昭和7年)1月8日には鉄砲竹槍で武装した労農大衆党員が生産党員らを襲撃して3人が死亡、数十人が負傷する事件に発展[31]。労農大衆党員300余人、大日本生産党員200余人が保護検束された[32]。その後、小作側と地主側は小作調停法に基づく調停に応じることで和解した[33]
  • 1938年(昭和13年)6月30日に台風接近に伴う豪雨があり死者3人、倒壊家屋9戸、床上浸水5500戸以上、床下浸水13000戸以上[34]。さらに9月1日にも台風接近があり死者30人、家屋全壊131戸、家屋半壊144戸、床上浸水5200戸以上、床下浸水8200戸以上[35]

注釈

  1. ^ 関東地方各地の雷日数と夏季の雷日数は、東京約11日のうち夏季約9日、横浜約12日のうち夏季約8日、群馬県前橋年間19.0日のうち夏季約18日、埼玉県熊谷年間19.3日のうち夏季約17日、茨城県水戸年間16.0日のうち夏季約13日となっており、いずれの地点でも夏季の雷日数が多くなっている。
  2. ^ 下野国は、正確には560,020人から342,260人。
  3. ^ 同じく、総人口は24,534,195人から27,063,910人。
  4. ^ 陸奥国は、1,962,839人から1,690,509人。
  5. ^ 同様に、隣の常陸国も人口減少が著しく、江戸後期においては、北関東が特に疲弊した地域であったことがわかる。
  6. ^ 上三川町、塩谷町は域内を鉄道路線が通過しているが、駅は存在しない。

出典

  1. ^ 阪部教宜 編、『橡木縣地誌略』、1877年、栃木町、集英堂 [1]
  2. ^ 土屋栄五郎 編、『府縣管轄便覽』、1872年、土屋栄五郎 [2]
  3. ^ 杤木縣、『杤木縣一覽概表』、1874年、栃木町、杤木縣 [3]
  4. ^ 杤木縣、『杤木縣治一覽表』、1876年、栃木町、杤木縣 [4]
  5. ^ 栃木県、『栃木縣治提要』、1881年、宇都宮町 [5]
  6. ^ 栃木縣會、『明治廿五年度 通常縣會日誌』、1892年、宇都宮町 [6]
  7. ^ 舟橋一也 編、『両毛文庫 栃木通巻 栃木縣誌』、目次、1904年、両毛文庫本部 [7]
  8. ^ a b 埼玉、栃木、群馬の三県境が観光地化している? デイリーポータルZ 2016年3月16日、2021年12月4日閲覧
  9. ^ 戦場ヶ原の気象
  10. ^ 継承途絶えたら「大きな痛手」 那珂川の特産品“温泉トラフグ”の岐路 海ない栃木県で全国初の海水魚の養殖と話題に”. 下野新聞 (2023年11月29日). 2024年1月8日閲覧。
  11. ^ 山下龍一 (2024年1月4日). “那珂川町の「温泉トラフグ」姿消す 業者撤退で 地元に復活望む声”. 朝日新聞. 2024年1月7日閲覧。
  12. ^ 橋本澄朗「栃木のあけぼの」 阿部昭・橋本澄朗・千田孝明・大嶽浩良『栃木県の歴史』山川出版社 1998年 11-12ページ
  13. ^ 季刊・東北学2008年第15号『高原山黒曜石原産地遺跡の発掘』P27-45より、国武貞克著
  14. ^ 高原山黒曜石原産地遺跡群詳細(矢板市ホームページより)
  15. ^ 2007年04月14日Asahi.comニュース
  16. ^ 2008年2月23日産経ニュース
  17. ^ 2009年2月27日産経ニュース
  18. ^ 2009年2月とちぎテレビニュース
  19. ^ とちぎテレビ動画ニュース
  20. ^ 橋本澄朗「栃木のあけぼの」阿部昭・橋本澄朗・千田孝明・大嶽浩良『栃木県の歴史』山川出版社 1998年 14ページ
  21. ^ a b 武光誠『県民性の日本地図』文藝春秋〈文春新書〉、2001年、78頁。ISBN 4-16-660166-0 
  22. ^ 森浩一著『古墳の発掘』中公新書(65)(中央公論社 1965年(昭和40年)4月発行) 35ページの「私はこれまで天皇陵をも含めて多くの古墳を見てきたが、そのなかでいちばん美しい古墳を一つえらべといわれたら即座に下侍塚と答えよう。」を指しているのか。
  23. ^ 橋本澄朗「古代の下野」阿部昭・橋本澄朗・千田孝明・大嶽浩良『栃木県の歴史』山川出版社 1998年 6-57ページ
  24. ^ 平家物語による。
  25. ^ 社伝による。
  26. ^ 鎌倉府政庁の公式記録である吾妻鏡による。
  27. ^ 塙静夫著「とちぎの社寺散歩」(下野新聞社発行)ISBN 4-88286-210-7
  28. ^ 武光誠『県民性の日本地図』文藝春秋〈文春新書〉、2001年、79-80頁。ISBN 4-16-660166-0 
  29. ^ 以下の各人口推計は、「日本歴史大事典 4」(小学館 2001年)による。
  30. ^ 藤原哲也(2015年6月16日). “「県民の日」で催し 県庁などにぎわう”. 東京新聞 (中日新聞社)
  31. ^ 労農大衆党員が生産党員と乱闘、三人が死ぬ『東京日日新聞』昭和7年1月10日夕刊(『昭和ニュース事典第4巻 昭和6年-昭和7年』本編p196 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
  32. ^ 五百人を検束、五十六人を送検『東京日日新聞』昭和7年1月10日(『昭和ニュース事典第4巻 昭和6年-昭和7年』本編p196 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
  33. ^ 双方、小作調停法により調停に応じる『中外商業新報』昭和7年1月12日夕刊(『昭和ニュース事典第4巻 昭和6年-昭和7年』本編p197)
  34. ^ 土浦、減水の後に飢餓の恐怖『東京朝日新聞』(昭和13年7月2日夕刊)『昭和ニュース辞典第6巻 昭和12年-昭和13年』p224
  35. ^ 死者・不明百人越す、関東各地の被害『東京日日新聞』昭和13年9月3日夕刊(『昭和ニュース事典第6巻 昭和12年-昭和13年』本編p224)
  36. ^ <栃木県内の空襲> 焼かれ、撃たれた県民 刻まれた恐怖、悲嘆”. 下野新聞 (2020年). 2022年8月16日閲覧。
  37. ^ 栃木県の県民経済計算
  38. ^ 最新版日本の地理5『関東地方』15頁
  39. ^ 宇都宮牛協会”. 農業王国うつのみや. うつのみやアグリネットワーク運営委員会事務局. 2024年1月13日閲覧。
  40. ^ ④宇都宮の農産物”. 小学校版「宇都宮学」副読本. 宇都宮市教育委員会事務局学校教育課指導グループ. 2024年1月13日閲覧。
  41. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v とちぎの公共交通(令和2(2020)年度版)”. 栃木県生活交通対策協議会 (2021年6月). 2022年3月25日閲覧。
  42. ^ 地上デジタルテレビ放送のエリア(関東広域圏東京親局) (PDF) 総務省 2020年7月15日閲覧。
  43. ^ 栃木県栃木市のコミュニティ放送局に予備免許(総務省関東総合通信局2015年1月28日確認)
  44. ^ イチゴ新品種、甘く大粒 開発7年、王国の主力候補 栃木県”. 下野新聞 (2018年11月15日). 2021年1月2日閲覧。
  45. ^ イチゴ新品種は「とちあいか」 栃木県が開発、名称決定”. 下野新聞 (2020年7月29日). 2021年1月2日閲覧。
  46. ^ とちぎのシンボル(栃木県庁)
  47. ^ a b c 沖縄県名誉県民条例 - 沖縄県、2019年7月28日閲覧。
  48. ^ 人物「明治時代以降」島岡達三 - 栃木県、2019年7月28日閲覧。
  49. ^ 人物「明治時代以降」船村徹 - 栃木県、2019年7月28日閲覧。
  50. ^ 人物「明治時代以降」渡辺貞夫 - 栃木県、2019年7月28日閲覧。






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