タンジマート
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タンジマートの結果と後世への影響
1877年の露土戦争の敗北によってギリシャ以外のバルカン半島の諸国も独立し、帝国の勢力圏はさらにせばめられてバルカンのごく一部とアナトリア、アラブ地域だけとなった。また、タンジマートの諸改革は、財政的には、帝国の対外債務の累積に拍車をかける結果となった[35]。
タンジマートを始動させた頃、スルタンのアブデュルメジト1世は、帝都イスタンブルの校外に150もの官営工場をつくり、没落したギルドを会社経営や協同組合として組織化するよう努力し、相応の成果をあげたものの、莫大な国庫金を投下した割には欧米の投機家や国内のユダヤ人、アルメニア人などズィンミーの業者だけが利益を得るような非効率性をともない、これにはムスリムの側からの不満も大きかった[35]。ムスリムの反発は、外国資本排斥運動には向かわず、多くの場合、イスラーム神秘主義教団の影響を受け、帝国内の少数民族への敵意や反発へと向かった[35][注釈 8]。1854年に始まった外債依存は、まもなくイズミル-アイドゥン間の鉄道敷設権を外国人に認可する結果となり、殖産興業に地道に取り組む官僚にはめぐまれず、また、スルタンも浪費癖の強いアブデュルアズィズなどは改革派官僚に対し必ずしも協力的とはいえなかった[11]。外債は利権をともなうところから、タンジマートの改革そのものが西洋諸国の野心を誘う危険もあった[11]。クリミア戦争の戦費も外債からまかなわれ、相次ぐ戦争の戦費が外債への依存をさらに強めた[11]。これが、1881年の「オスマン債務管理局」設立の原因のひとつとなった。それがまた、さらなる外圧を招く結果となり、オスマン帝国はやがて「瀕死の病人」「ヨーロッパの重病人」とさえ呼ばれるようになった[11]。
ミドハト憲法は、世界史的にみれば上記のような画期性を有していたが、露土戦争の敗北、アブデュルハミト2世による専制復活、さらに、当時の国情に合わない部分もあって1878年に停止を余儀なくされた[3]。起草者ミドハト・パシャは追放され、議会も閉鎖を余儀なくされた[33][注釈 9]。それは、首都を中心とする一握りのエリートの立憲主義運動と開明派政治家であるミドハト・パシャの卓越した政治力によってかろうじて実現されたものだったのである[38]。タンジマート全体を見渡しても、列強の外圧を契機としており、「恩恵」の名が示すように「上からの改革」としての限界をもつものであった[3]。立憲派の力も、たとえば自由民権運動期の日本などとくらべるとひじょうに弱いものであった[38]。しかし、分権化の傾向が顕著な地域にあっては帝国の再統合を推進し、帝国の本拠地であるアナトリアではアーヤーンの自立・分離傾向を抑えることに効果があった[35]。また、タンジマートの期間、出自や家柄には必ずしもこだわらず、能力本位の人材登用がなされ、有為な人物や新しい知識・技術をもつエリート層を養成することが可能となった[39][注釈 10]。さらに、短期間であれ、オスマン帝国の国政が国民によって審議されたことの意味は大きく、ミドハト憲法もまた1908年の青年トルコ人革命の後、劇的な復活を果たしており、その影響は長く後世におよんだのである[3]。
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注釈
- ^ 「タンジマート」のもともとの意味は、「再編成」「組織化」である[1]
- ^ タンジマート期に、それまで唯一の権威を持っていたシャリーア法廷の外部に設置されたムスリムと非ムスリムとの間の民事・商事訴訟を取り扱う裁判所。
- ^ 1848年革命によって、ウィーン体制は終焉を遂げ、ヨーロッパにおける被抑圧民族のナショナリズムが高揚し、その様相や成果は「諸国民の春」と称された。
- ^ オスマン帝国の借款は1854年以降、計17回におよんだ[21]。
- ^ タンジマートは、改革勅令を機に前後に分けるのが一般的である。前期はある程度まで帝国政府の創意のもとに進められたのに対し、後期は列強の強制によるところが大きかったからである[23]。
- ^ 山内昌之は、レシト・パシャ、フアト・パシャ、アーリ・パシャの3人を「タンズィマートの三傑」と呼んでいる[26]。
- ^ アーリ・パシャの死後、スルタンのアブデュルアズィズははばかることなく無為と専制に走り、恣意的な人事がまかり通るようになって、大宰相のポストも一時軽くなった[28]。
- ^ オスマン領内の深刻な民族問題には、19世紀をとおしてのクレタ島でのギリシャ人への圧迫や19世紀末からの20世紀まで間断なくつづいたアルメニア人に対する抑圧や虐殺がある[36]。
- ^ ミドハト・パシャが追放されたのは、アブデュルハミト2世に対する妥協としてその挿入を容認した、国益を害する人物をスルタンの権限で国外追放にできるとした条項を利用してのことだった。これは、ミドハト・パシャが立憲派の力を過大に見積もった過信のせいだったともいわれている[37]。
- ^ 改革を主導したひとり、大宰相アーリ・パシャももともとイスタンブルの靴屋の息子である[40]。
出典
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- ^ a b c d e f g h i j k l m 山内(1996)pp.163-165
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- ^ 山内(1996)pp.203-205
- ^ 山内(1996)p.204
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