ギュルハネ勅令と初期の改革
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「タンジマート」の記事における「ギュルハネ勅令と初期の改革」の解説
詳細は「ギュルハネ勅令」を参照 イスタンブルにエジプト軍がせまるなか、アブデュルメジト1世即位の知らせを聞いた開明派官僚ムスタファ・レシト・パシャ(当時、外務大臣)は、急遽帰国し、西洋列強とくにイギリスとフランスのリベラルな世論の支持を獲得すべく、改革の基本方針をスルタンの「宸筆(ハットゥ・ヒュマユーン)」というかたちで起草した。この内容を、1839年11月3日、ムスタファ・レシト・パシャがスルタン隣席のもと、帝国内の文官・武官、ウラマー(イスラム法学者)、民間人代表、外国からの使節の前で読み上げた。これが、トプカプ宮殿裏庭のギュルハネ(薔薇の園、薔薇宮)でおこなわれたことだったので「ギュルハネ勅令」と呼ばれている。ただし、この勅令の内容の一部はすでに先帝マフムト2世の改革によって実現していた。 この勅令は、スルタンの「御意志」が前面に出ているため、必ずしも立憲思想にもとづくものとはいえないが、ムスリム・非ムスリム(ズィンミー)にかかわらず、全ての帝国臣民には法の下の平等があたえられること、また、帝国は全臣民の生命・名誉・財産を保障することなどを繰り返し述べているところに1789年のフランス人権宣言の影響を確認することができる。また、裁判を公開すること、スルタン自身も「法」に違反しないことを宣言するなど、スルタンの権力のうえに「法の力」が存在することを認めている点などでも画期的な意味をもっていた。シャリーアにおけるムスリムと非ムスリムの不平等な共存という伝統的な仕組みは放棄され、これは、オスマン帝国がキリスト教徒系の少数民族を不当に扱っているという口実を用いて内政干渉しようとする列強への牽制という意味合いも兼ねていた。ただし、「法」を指し示す語として「シャリーア」と「カーヌーン」(世俗法)を注意深く使い分けるなど、シャリーアを専門とするウラマーや保守派知識人に対する慰撫の気遣いをも示している。タンジマートの中心的な機関としてはオスマン帝国最高司法審議会議が組織され、新規の「法」の立案・検討がここを中心になされることとなった。しかし、ヨーロッパ近代法とシャリーアの均衡問題はつねに重大な緊張関係をはらんでいた。 1840年には、刑法の発布、人口調査、イルティザーム(徴税請負制)の廃止と徴税官の任命、州議会の設置、地方官の俸給制実施、賄賂の禁止などの改革が実施された。しかし、イルティザームは名望家を中心とする多くの人びとの廃止反対論・復活待望論や徴税官そのものの不足によってまもなく復活した。 イギリスは、1825年以降、3度にわたってストラトフォード・カニングをオスマン帝国駐在の外交官としてイスタンブルに派遣し、帝国の維持と領土保全に意を尽くした。カニングにとって3度目のイスタンブル勤務となったのが1842年から1858年までで、その間、タンジマート諸改革を支援した。これは、オスマン帝国を主とする中近東地域が綿織物市場としてきわめて重要な輸出市場となっていて、その治安維持と商人の保護を図る必要があったことと、インドの保全のためにはスエズ地峡を他国、とくに「グレート・ゲーム」における敵対国であるロシアに渡すことを絶対阻止しなければならなかったためである。 改革派の中心人物であったムスタファ・レシト・パシャが1841年3月末にいったん外務大臣の職を解かれてフランス駐在大使に転ずるとタンジマート改革は停滞したが、1846年から1848年までは大宰相に抜擢され、1846年の公務員法、一般教育審議会議設置(翌年、文部省に改組)、1847年には混合裁判所の設置、農業学校開設、1848年には師範学校の開設などの改革が急進展した。かれは1848年に大宰相を罷免されたが、以後、再任と罷免を繰り返しながら計5回この職に就き、タンジマート改革を推し進めた。その一方で人材登用にも意を注ぎ、アーリ・パシャ、フアト・パシャ、ミドハト・パシャらを取り立てている。改革派の力はまだ弱く、初期のタンジマートはこのような人事異動にともなって一進一退したものの、中央政府の影響力は「法の力」によってゆっくりと地方にも浸透し、改革路線は定着していった。
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