事績と人間関係
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/11 06:10 UTC 版)
「ムスタファ・レシト・パシャ」の記事における「事績と人間関係」の解説
ムスタファ・レシト・パシャはタンジマート改革を進める一方で人材登用を行い、メフメト・エミン・アーリ・パシャ、メフメト・フアト・パシャやアフメト・ジェヴデト・パシャ、ミドハト・パシャなどを引き立て、前者2名はレシト・パシャ亡き後に改革勅令に沿ってタンジマートを推進、後者2名は1846年に創立した教師養成学校の校長と1876年の大宰相に就任、それぞれ民法典とオスマン帝国憲法編纂の中心となった。 1837年にオーストリアのウィーンへ移住させた外務省官僚サードゥク・リファトの意見を参考にしてギュルハネ勅令を起草、1849年にイブラヒム・シナースィーをフランスへ5年間留学させたこともある。帰国後シナースィーは政府に仕えるが、レシト・パシャの死後1860年に『諸情勢の翻訳者』という新聞を刊行、1862年に新たに『世論の叙述』を創刊しトルコ文学に影響を与えた。
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