ガスライティング ガスライティングの概要

ガスライティング

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/09/14 08:25 UTC 版)

ガス灯、用語が参照するオブジェクト
ガス燈』(1944年)のイングリッド・バーグマン

「ガスライティング」という名は、『ガス燈』という演劇(およびそれを映画化したもの)にちなんでいる。現在この用語は、臨床および学術研究論文でも使われている[2][3]

語源

この用語は『ガス燈』という舞台劇(1938年、アメリカでは『エンジェル・ストリート』と題された)、およびその映画化作品(1940年、1944年)から来ている。ストーリーでは、一見すると上品な夫が、相続人である妻が精神的に不安定で正気を失ったと当人および知人らに信じ込ませようと、夫が周囲の品々に小細工を施し、妻がそれらの変化を指摘すると、夫は彼女の勘違いか記憶違いだと主張してみせる。より効率的に欺く為に、嘘と策略を用いて妻を孤立させる。そのような行為を働いた動機は、妻が相続した財産を奪う事にあった[注 1]。劇の題名は、夫が屋根裏で探し物をする時に使う、家の薄暗いガス燈に由来する[4]。妻は明かりが薄暗いことにすぐ気付くのであるが、夫は彼女の思い違いだと言い張り、妻は自分の気が狂ってしまったのではないかと思わされている。

相手の現実感覚を狂わせようとすることを「ガスライティング」と話し言葉で言うようになったのは、少なくとも1970年代後半以降である。ロレンス・ラッシュ英語版は、児童性的虐待を扱った1980年代の著書で、ジョージ・キューカーの1944年版の『ガス燈』を紹介し、「こんにちでも『ガスライティング』という語は、他人の現実認識能力を狂わせようとする試みを指す言葉として使われている」と書いている[5]。また、アメリカ心理学会(American Psychological Association: APA)のオンライン心理学辞典では、ガスライティングは「他人を操って、その人の認識、経験、出来事の理解を疑わせること。かつてこの言葉は、精神疾患を誘発したり、ガスライティングされた人を精神病院に入院させることを正当化するほど極端な心理的操作を指していたが、現在ではより一般的に使用されている。通常は口語表現と考えられているが、臨床文献では、たとえば反社会性人格障害に関連する操作的戦術を指すために時折使用されている」と解説している[6]。この用語がさらに広まったのは、Victor Santoro の1994年の著書『ガスライティング:あなたの敵を狂わせる手引き』(Gaslighting: How to Drive Your Enemies Crazy) [7]によってであり、この本は嫌がらせに使える表面上は合法的なテクニックを紹介している。

スティーリー・ダンの2000年のアルバム『トゥー・アゲインスト・ネイチャー』には、"Gaslighting Abbie" という曲が収録されている[10]。メンバーのウォルター・ベッカードナルド・フェイゲンは、この詞がシャルル・ボワイエの『ガス燈』に触発されたものであることを認めている[11]

自己啓発とアマチュア心理学

ガスライティングは、自己啓発やアマチュア心理学で使われる用語でもあり、個人的な関係(恋愛関係や親子関係)や職場の関係で起こる問題を説明する為に使われる[12][13]。「ガスライティングする側」は相手を操るために虚偽の物語を執拗に展開し、「ガスライティングされる側」は個人の自立性を維持しようと奮闘する[14][15]。ガスライティングは通常、不平等な力関係がある場合、またはガスライティングされる側がガスライティングする側に敬意を示している場合にのみ効果的である[16]

ガスライティングは、人間関係において一般的かつ重要な、真の人間関係の不一致とは異なる。

ガスライティングは次の点で通常の関係とは異なる。

  • 一方のパートナーが常にもう一方のパートナーの意見に耳を傾け、その視点を考慮している。
  • 一方のパートナーが、相手の認識を常に否定し、相手が間違っていると主張したり、相手の感情的な反応が不合理または機能不全であると主張したりする。

ガスライティングは、一回限りの行動ではなく、長期間にわたる行動パターンを指すことが多いが、その行動の方法がガスライティング行動の特徴である[17]。時間が経つにつれて、話を聞いている相手は、不安障害、うつ病、または自尊心の低下に関連する症状を示すことがある。ガスライティングは、一方が他方の認識を操作するという点で、通常の人間関係で生ずる葛藤とは異なる[16]

精神医学と心理学

ガスライティングという言葉は臨床文献では時々使われるが、アメリカ心理学会では口語表現とみなされている[6][18]

1970年代以降、この用語は精神分析の文献で「意識的な洗脳の意図」を説明するために使われてきた[19]

バートンとホワイトヘッドは、親族を排除したい、あるいは金銭的利益を得たいという動機から、精神病院への強制入院を強要する目的でガスライティングを行った3件の事例報告を紹介した。妻は愛人と駆け落ちするために夫を暴力的だと仕立て上げようとした。別の妻はパブを経営する夫がアルコール依存症だと主張し、夫と別れてパブの経営権を握ろうとした。老人ホームの管理者は、軽い認知症と失禁を患う入居者に下剤を投与した後、精神病院に紹介した[20][21]

1977年、ガスライティングに関する文献がまだ殆ど出版されていなかった時代に、ランドとガーディナーは、老人ホームの職員から精神病の疑いで何度も強制入院させられた高齢女性の症例報告を発表したが、入院後、何の治療も受けずに症状がいつもすぐに消えていた。調査の結果、彼女の「妄想」は、老人ホームの職員によるガスライティングの結果であることが判明した。職員は、女性が15年前に妄想性精神病を患っていたことを知っていた[21]。研究論文「ガスライティング:夫婦間の症候群」には、夫や男性セラピストによって妻の反応が誤って分類された後の妻への影響に関する臨床観察が含まれている[22]。他の専門家は、セラピストの価値観やテクニックがクライアント(または間接的にクライアントの人生における他の人々)にとって有益であるだけでなく有害でもあると指摘している[23][24][25]

テオ・L・ドルパットは1996年の著書『ガスライティング、ダブル・ワミー、尋問、心理療法と分析におけるその他の隠れた支配の方法』で、臨床医は非指示的で平等主義的な態度と方法をとり[24]、「患者を積極的な協力者、対等なパートナーとして扱う」ことを推奨している[24]。彼は、「セラピストは[被害者の]反応を誤って分類することで、被害者の苦痛を助長する可能性がある...配偶者のガスライティング行為は、一部の[被害者]にいわゆる「神経衰弱」を引き起こし、最悪の場合自殺につながる」と書いている[24]。ドルパットはまた、心理療法と分析において尋問やその他の隠れた支配方法を使用する際に患者を意図せず虐待することについて臨床医に警告している[24]

ガスライティングの危険性に対する世界的な認識の高まりは、すべての心理学者に歓迎されているわけではなく、中にはこの用語の過度の使用がその意味を弱め、このような虐待による深刻な健康への影響を軽視する可能性があると警告する心理学者もいる[26]

臨床例

心理学者のマーサ・スタウト英語版は、ソシオパスはよくガスライティングの手法を使うと述べている。ソシオパスは、絶えず社会的道徳規範から逸脱し、法を破り、他人を食い物とするが、概して表面上は魅力的で、巧みな嘘つきであり、犯罪に関わるようなことはしない。従って、ソシオパスの犠牲者になっている人は自分の認識能力を疑ってしまうことがある[27]。Jacobson と Gottman によると、配偶者間の身体的虐待の加害者の一部は、被害者側にガスライティングを行なっている場合があり、自分が暴力的であったことをきっぱり否定することさえある[3]

心理学者の Gertrude Gass と William C. Nichols は、夫婦間の不義で時々見られるある種の原動力を描写するのにガスライティングという語を使っている。「セラピストは被害者である女性の反応を誤って解釈することで彼女の苦痛をさらに強めてしまうことがある。… 夫が行なうガスライティングは、一部の女性にはいわゆる神経衰弱をもたらし、最悪の場合、自殺につながる[28]。」

ガスライティングは親子関係で見られることもある。親、あるいは子、あるいは両方が、相手を騙して正常な認知を損なわせようとするのである[29][30]。さらにガスライティングは、精神病院の入院患者と医療スタッフの間でも見られる[31]

フロイトの手法のいくつかはガスライティングとみなされている。狼の夢についてフロイトと様々に議論したため「ウルフマン」とあだ名が付いた Sergei Pankejeff の例について、Dorpat は次のように書いている[2]。「フロイトはウルフマンに容赦ない圧迫をかけ、フロイトの再解釈と定式化を受け入れるよう迫った。」

取り入れ

1981年の著名な論文『摂取の臨床効果例:ガスライティング』(Some Clinical Consequences of Introjection: Gaslighting) において Calef と Weinshel は、ガスライティングには加害者から被害者に向けられた精神的葛藤の投影取り入れを伴うと論じている。このペテンは、痛みを伴う(また潜在的に痛みを伴う)心理的葛藤の非常に特殊な「転移」に基づいている[32]

何故ガスライティングの被害者らは他者が表現し投影してくる事柄を取り込み同化してしまう傾向があるのかという点について、筆者らは様々に考察し、ガスライティングは非常に複雑かつ高度に構造化された仕組みであり、精神的機構の多くの要素の作用を包含していると結論づけている[32]

抵抗

特に女性に関して言うと、ヒルデ・リンデマン英語版は「ガスライティングの場合、それに抵抗する能力は、自分の判断力を信頼する能力に負っている」と述べている[33]。加害者に抵抗する「別の解釈」を打ち立てることは、「通常の自由な心の働き」を取り戻す、あるいは初めて手に入れることの助けになるかもしれない[33]

関連資料

脚注

注釈

  1. ^ 英語版を参考に追加。

出典

  1. ^ Dorpat, T.L. (1994). “On the double whammy and gaslighting.”. Psychoanalysis & Psychotherapy 11 (1): 91-96. 
  2. ^ a b Dorpat, Theodore L. (1996-10-28). Gaslighting, the double whammy, interrogation, and other methods of covert control in psychotherapy and psychoanalysis. J. Aronson. ISBN 978-1-56821-828-1. https://books.google.co.jp/books?id=3vLaAAAAMAAJ&redir_esc=y&hl=ja 2013年4月28日閲覧。 
  3. ^ a b Jacobson, Neil S.; Gottman, John Mordechai (1998-03-10). When men batter women: new insights into ending abusive relationships. Simon and Schuster. pp. 129–132. ISBN 978-0-684-81447-6. https://books.google.co.jp/books?id=PXvhE_AD084C&redir_esc=y&hl=ja 2013年4月28日閲覧。 
  4. ^ Abuse prevention how to turn off the gaslighters”. The guardian (2019年3月2日). 2020年11月20日閲覧。
  5. ^ Rush, Florence (1992-02). The best-kept secret: sexual abuse of children. Human Services Institute. p. 81. ISBN 978-0-8306-3907-6. https://books.google.co.jp/books?id=GXgDjnFL2xcC&redir_esc=y&hl=ja 2013年4月28日閲覧。 
  6. ^ a b gaslight”. American Psychological Association. 2024年8月10日閲覧。
  7. ^ Santoro, Victor. (1994) Gaslighting: How to Drive Your Enemies Crazy. Loompanics Unlimited, ISBN 1559501138, 978-1-55950-113-2.
  8. ^ 「(1)ガスライティング・アビー」『トゥ・アゲインスト・ネイチャー』スティーリー・ダン、 DVD:1枚 (52分)、ワーナーミュージック・ジャパン、2000年。レーベル名 : ジャイアント。
  9. ^ 「(1)ガスライティング・アビー」『トゥ・アゲインスト・ネイチャー』スティーリー・ダン、東京 : BMGファンハウス、2000年。CD(12cm)1枚、収録時間: 51分32秒。レーベル名 : ジャイアント。
  10. ^ ワーナー・ミュージック・ジャパン盤DVD[8]ならびにBMGファンハウス盤CD[9]
  11. ^ McPartland, Marian (2005). Marian McPartland's Piano Jazz with Steely Dan. Beverly Hills, CA: Concord Records 
  12. ^ Portnow, Kathryn E (1996). Dialogues of doubt: the psychology of self-doubt and emotional gaslighting in adult women and men. MA: Harvard Graduate School of Education 
  13. ^ Gaslighting at Work—and What to Do About It”. Harvard Business Publishing. 2024年8月10日閲覧。
  14. ^ DiGiulio, Sarah (2018年7月13日). “What is gaslighting? And how do you know if it's happening to you?”. NBC NEWS. https://www.nbcnews.com/better/health/what-gaslighting-how-do-you-know-if-it-s-happening-ncna890866 
  15. ^ Sarkis, Stephanie (2018). Gaslighting: Recognize Manipulative and Emotionally Abusive People – and Break Free. Da Capo Press 
  16. ^ a b Stern PhD, Robin (2018年12月19日). “I've counseled hundreds of victims of gaslighting. Here's how to spot if you're being gaslighted. Gaslighting, explained".”. VOX. オリジナルの2018-12-26日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20181226192508/https://www.vox.com/first-person/2018/12/19/18140830/gaslighting-relationships-politics-explained 
  17. ^ Haupt, Angela (2022年4月15日). “How to recognize gaslighting and respond to it”. The Washington Post. オリジナルの2022年4月24日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20220424081259/https://www.washingtonpost.com/wellness/2022/04/15/gaslighting-definition-relationship-abuse-response/ 
  18. ^ Holland, Brenna. “For Those Who Experience Gaslighting, the Widespread Misuse of the Word Is Damaging”. Well + Good. 2021年9月2日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年8月10日閲覧。
  19. ^ Shengold, Leonard L (1979). “Child Abuse and Deprivation: Soul Murder”. Journal of the American Psychoanalytic Association 27 (3): 542. "Weinshelは、一連の未発表論文の中で、意識的な洗脳の意図を「ガスライティング」と呼んでいる。"
  20. ^ Russell Barton, J.A. Whitehead『THE GAS-LIGHT PHENOMENON』The Lancet、1969年6月21日。 
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  23. ^ Barlow, D. H (2010). “Special section on negative effects from psychological treatments”. American Psychologist 65 (1): 13-49. 
  24. ^ a b c d e Dorpat, Theodore L (1996). Gaslighting, the Double Whammy, Interrogation, and Other Methods of Covert Control in Psychotherapy and Psychoanalysis. J. Aronson, Northvale, N.J. 
  25. ^ Basseches, Michael (1997). “"A developmental perspective on psychotherapy process, psychotherapists' expertise, and 'meaning-making conflict' within therapeutic relationships: part II”. Journal of Adult Development 4 (2): 85-106. バセッシュスは、心理療法における「性的虐待」に相当するものとして「理論的虐待」という用語を作り出した。
  26. ^ Word of the Year 2018: Shortlist”. Oxford University Press. 2019-12-20日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年8月10日閲覧。
  27. ^ Stout, Martha (2006-03-14). The Sociopath Next Door. Random House Digital. pp. 94–95. ISBN 978-0-7679-1582-3. https://books.google.co.jp/books?id=PyOjlz_2SG0C&redir_esc=y&hl=ja 2013年4月28日閲覧。 
  28. ^ Gass, Gertrude Zemon; Nichols, William C. (1988). “Gaslighting: A marital syndrome”. Journal of Contemporary Family Therapy 10 (1): 3–16. doi:10.1007/BF00922429. 
  29. ^ 自己愛性親と子どものガスライティング”. 2023年1月7日閲覧。
  30. ^ Cawthra, R.; O'Brian, G.; Hassanyeh, F. (1987). “'Imposed psychosis': A case variant of the gaslight phenomenon”. British Journal of Psychiatry 150: 553-556. 
  31. ^ Lund, C.A.; Gardiner, A.Q. (1977). “The gaslight phenomenon: An institutional variant”. British Journal of Psychiatry 131: 533-534. 
  32. ^ a b Weinshel, Edward M.; Wallerstein, Robert S. (2003-01). Commitment and compassion in psychoanalysis: selected papers of Edward M. Weinshel. Analytic Press. p. 83. ISBN 978-0-88163-379-5. https://books.google.co.jp/books?id=mwf0ZOUli6wC&redir_esc=y&hl=ja 2013年4月28日閲覧。 
  33. ^ a b Nelson, Hilde Lindemann (2001-03). Damaged identities, narrative repair. Cornell University Press. pp. 31–32. ISBN 978-0-8014-8740-8. https://books.google.co.jp/books?id=EjL9qyGmJF4C&redir_esc=y&hl=ja 2013年4月28日閲覧。 

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