肥後細川家とは? わかりやすく解説

肥後細川家(豊前小倉藩、肥後熊本藩主家)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 15:50 UTC 版)

細川氏」の記事における「肥後細川家(豊前小倉藩肥後熊本藩主家)」の解説

和泉上守護家出身とされる細川藤孝(ただし前述のとおり宇多源氏佐々木大原氏系細川氏という見方近年は有力)は、はじめ室町幕府第15代将軍足利義昭支えたが、後に離反して織田信長属したことから、幕臣の姓である細川所領山城国西岡旧称にちなん長岡改めた天正8年1580年)、信長の命で明智光秀とともに丹後国進攻南部加佐郡与謝郡領して宮津城居城とした。 孝の長男忠興三斎)は、雑賀攻め初陣し、信長武将として実父とともに活躍本能寺の変では妻・ガラシャの父である明智光秀与しなかった。その後丹後北部一色満信滅ぼし羽柴豊臣秀吉から丹後一国12万石領有認められ羽柴姓を与えられた。孝(幽斎)は歌道古今伝授継承者忠興茶道千利休高弟として、文化面でも重きをなした。 慶長5年1600年)、忠興徳川家康会津征伐従軍その間大坂石田三成家康打倒兵を挙げるガラシャ人質になることを拒んで自害した。幽斎と三男の幸隆は丹後田辺城西軍15,000軍勢相手に2か月に及ぶ籠城戦戦い忠興関ヶ原の戦いにおいて東軍部将として活躍した戦後忠興は功により豊前小倉藩399千石豊後杵築6万石を含む)を得るとともに、姓を羽柴から細川戻した寛永9年1632年)、忠興の子・忠利の時代肥後熊本藩54万石加増移封され、幕末まで237年統治藩主一門家として長岡内膳家長岡刑部家があり、支藩としては新田高瀬支藩宇土支藩があった。大身国持のため熊本藩表高に含む。なお常陸谷田部藩は幽斎次男興元領主だが、肥後支藩ではなく歴とした独立藩である。 歴代藩主の中で注目されるのが8代重賢で、藩校時習館創設殖産興業など宝暦の改革呼ばれる藩政改革行い肥後鳳凰」と称され出羽米沢藩の上鷹山紀伊紀州藩徳川治貞紀州麒麟とともに江戸時代中期三名君とされる江戸時代通じて大きな一揆などが見られ農民は豊かであったとされる一方で財政厳しく江戸大坂大商人からの借金何度も踏み倒して貧乏細川と言われたり、「鍋釜金気を落とすにはいらぬ。細川と書いた紙を貼ればよい」と揶揄されたりした(米沢藩上杉氏にも同様の話がある)。 斉護の跡を継いだ13代韶邦(初名:護順)とその弟の護久(のち14代)は、公武合体立場をとった後、明治新政府恭順し、幕末からの動乱期を乗り越えた。護久は明治17年1884年)の華族令公布によって侯爵叙された。また宇土原藩と茂木藩肥後新田藩細川家子爵列し、他に一門分家3家が男爵家列した歴代藩主の諱に特に通字はなく、原則的に父から1字を受けて初名を名乗り藩主就任の折などに徳川将軍家から偏諱を受ける慣例であった詳しく歴代藩主の各項を参照)。12代斉護の子らは初めは父の「護」字を受けた(護前・護順・護久)が、後には将軍偏諱受けて慶前・慶順・喜延と改めた。しかし幕府瓦解後に喜延が護久に復して以降細川家は「護」を通字とするようになる細川家紋は、細川九曜細川二引両、五七桐松笠のほかに桔梗紋もあり、計六つ定紋としていた(高瀬支藩文書)。 国宝保存会会長務めた16代護立(護久の子)は「美術殿様」といわれ、細川家伝来多数美術品や自らの収集品などを収蔵し財団法人永青文庫開設している。近衛文麿秘書官務めた17代護貞は戦時中政治的活動行い細川日記』を残している。護貞は美術華道茶道ゴルフ愛好家としても知られ日本ゴルフ協会会長務めた18代護熙(護貞の子)は、朝日新聞記者経て1971年昭和46年)に参議院議員当選1983年昭和58年)から熊本県知事2期務めた後、1992年平成4年)に日本新党結成して参議院議員復帰すると、翌1993年平成5年)には衆議院議員初当選ながら非自民連立政権細川内閣)の内閣総理大臣となった政界引退後は、息子の護光とともに陶芸家として活動するなどしている。2014年平成26年)には「脱原発」のスローガン掲げ東京都知事選挙出馬するも、元厚生大臣舛添要一大差敗れた。護煕の実弟母方近衛家相続した近衛忠煇(初名:細川護煇)は日本赤十字社社長務めている。 肥後細川家(豊前小倉藩肥後熊本藩主家)歴代当主 細川藤孝近世細川氏初代丹後宮津城主) 細川忠興初代小倉藩主) 細川忠利2代小倉藩主、初代熊本藩主細川光尚2代熊本藩主細川綱利3代熊本藩主細川宣紀熊本藩新田初代細川利重の子4代熊本藩主細川宗孝5代熊本藩主細川重賢(宣紀の子6代熊本藩主細川治年7代熊本藩主細川斉茲宇土藩5代細川興文の子8代熊本藩主細川斉樹(9代熊本藩主細川斉護宇土藩7代細川立之の子10代熊本藩主細川慶順11熊本藩主細川護久(斉護の子12熊本藩主細川護成 細川護立(護久の子細川護貞 細川護熙熊本県知事内閣総理大臣細川護光

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