肥後細川家(豊前小倉藩、肥後熊本藩主家)
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「細川氏」の記事における「肥後細川家(豊前小倉藩、肥後熊本藩主家)」の解説
和泉上守護家の出身とされる細川藤孝(ただし前述のとおり宇多源氏佐々木大原氏系の細川氏という見方が近年は有力)は、はじめ室町幕府第15代将軍足利義昭を支えたが、後に離反して織田信長に属したことから、幕臣の姓である細川を所領・山城国西岡の旧称にちなんで長岡に改めた。天正8年(1580年)、信長の命で明智光秀とともに丹後国に進攻、南部の加佐郡・与謝郡を領して宮津城を居城とした。 藤孝の長男・忠興(三斎)は、雑賀攻めで初陣し、信長の武将として実父とともに活躍。本能寺の変では妻・ガラシャの父である明智光秀に与しなかった。その後丹後北部の一色満信を滅ぼし、羽柴(豊臣)秀吉から丹後一国12万石の領有を認められ、羽柴姓を与えられた。藤孝(幽斎)は歌道の古今伝授の継承者、忠興は茶道の千利休の高弟として、文化面でも重きをなした。 慶長5年(1600年)、忠興は徳川家康の会津征伐に従軍、その間に大坂で石田三成が家康打倒の兵を挙げるとガラシャは人質になることを拒んで自害した。幽斎と三男の幸隆は丹後田辺城で西軍15,000の軍勢を相手に2か月に及ぶ籠城戦を戦い、忠興は関ヶ原の戦いにおいて東軍の部将として活躍した。戦後、忠興は功により豊前小倉藩39万9千石(豊後杵築6万石を含む)を得るとともに、姓を羽柴から細川に戻した。 寛永9年(1632年)、忠興の子・忠利の時代に肥後熊本藩54万石に加増・移封され、幕末まで237年統治。藩主一門家として長岡内膳家と長岡刑部家があり、支藩としては新田(高瀬)支藩と宇土支藩があった。大身国持のため熊本藩表高に含む。なお常陸谷田部藩は幽斎次男の興元が領主だが、肥後支藩ではなく歴とした独立藩である。 歴代藩主の中で注目されるのが8代重賢で、藩校時習館の創設や殖産興業など宝暦の改革と呼ばれる藩政改革を行い「肥後の鳳凰」と称され、出羽米沢藩の上杉鷹山や紀伊紀州藩の徳川治貞(紀州の麒麟)とともに江戸時代中期の三名君とされる。江戸時代を通じて大きな一揆などが見られず農民は豊かであったとされる一方で藩財政は厳しく、江戸・大坂の大商人からの借金を何度も踏み倒して貧乏細川と言われたり、「鍋釜の金気を落とすに水はいらぬ。細川と書いた紙を貼ればよい」と揶揄されたりした(米沢藩上杉氏にも同様の話がある)。 斉護の跡を継いだ13代韶邦(初名:護順)とその弟の護久(のち14代)は、公武合体の立場をとった後、明治新政府に恭順し、幕末からの動乱期を乗り越えた。護久は明治17年(1884年)の華族令公布によって侯爵に叙された。また宇土原藩と茂木藩と肥後新田藩の細川家は子爵に列し、他に一門や分家3家が男爵家に列した。 歴代藩主の諱に特に通字はなく、原則的に父から1字を受けて初名を名乗り、藩主就任の折などに徳川将軍家から偏諱を受ける慣例であった(詳しくは歴代藩主の各項を参照)。12代斉護の子らは初めは父の「護」字を受けた(護前・護順・護久)が、後には将軍の偏諱を受けて慶前・慶順・喜延と改めた。しかし幕府瓦解後に喜延が護久に復して以降の細川家は「護」を通字とするようになる。細川家紋は、細川九曜、細川桜、二引両、五七桐、松笠菱のほかに桔梗紋もあり、計六つを定紋としていた(高瀬支藩文書)。 国宝保存会会長を務めた16代護立(護久の子)は「美術の殿様」といわれ、細川家伝来の多数の美術品や自らの収集品などを収蔵した財団法人永青文庫を開設している。近衛文麿の秘書官を務めた17代護貞は戦時中政治的活動も行い『細川日記』を残している。護貞は美術、華道、茶道、ゴルフの愛好家としても知られ、日本ゴルフ協会会長を務めた。 18代護熙(護貞の子)は、朝日新聞の記者を経て1971年(昭和46年)に参議院議員に当選、1983年(昭和58年)から熊本県知事を2期務めた後、1992年(平成4年)に日本新党を結成して参議院議員に復帰すると、翌1993年(平成5年)には衆議院議員初当選ながら非自民党連立政権(細川内閣)の内閣総理大臣となった。政界引退後は、息子の護光とともに陶芸家として活動するなどしている。2014年(平成26年)には「脱原発」のスローガンを掲げ東京都知事選挙に出馬するも、元厚生大臣の舛添要一に大差で敗れた。護煕の実弟で母方の近衛家を相続した近衛忠煇(初名:細川護煇)は日本赤十字社社長を務めている。 肥後細川家(豊前小倉藩、肥後熊本藩主家)歴代当主 細川藤孝(近世細川氏初代、丹後宮津城主) 細川忠興(初代小倉藩主) 細川忠利(2代小倉藩主、初代熊本藩主) 細川光尚(2代熊本藩主) 細川綱利(3代熊本藩主) 細川宣紀(熊本藩新田初代細川利重の子。4代熊本藩主) 細川宗孝(5代熊本藩主) 細川重賢(宣紀の子。6代熊本藩主) 細川治年(7代熊本藩主) 細川斉茲(宇土藩5代細川興文の子。8代熊本藩主) 細川斉樹(9代熊本藩主) 細川斉護(宇土藩7代細川立之の子。10代熊本藩主) 細川慶順(11代熊本藩主) 細川護久(斉護の子。12代熊本藩主) 細川護成 細川護立(護久の子) 細川護貞 細川護熙(熊本県知事、内閣総理大臣) 細川護光
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