組合騒動とは? わかりやすく解説

組合騒動

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/30 18:05 UTC 版)

冷飯とおさんとちゃん」の記事における「組合騒動」の解説

本作中村錦之助東映離れる切っ掛けになった映画である。錦之助は1954年東映入社するなり、岡田茂が「あれだけ短期間スターダムにのし上がったのは、私の知る限りでは、錦之介と石原裕次郎だけです」と話すように、すぐに東映看板スターになり、東映黄金期を築く礎となった岡田は錦之助が初め東映京都訪れた日からの付き合いで、美空ひばり加藤喜美枝母子沢島忠ともども仲が良かった。錦之助の喧嘩相手は常に岡田だったが、話が終われば祇園繰り出し酒を飲み交わす仲。岡田は錦之助を唯一説得できる存在だった。錦之助は子供向け路線から、大人の俳優に脱皮しようとしたが、岡田は錦之助を説得してそれを何とか先送りした。しかし内田吐夢伊藤大輔田坂具隆ら、巨匠監督映画出始めると娯楽作品馬鹿馬鹿しくなり、出たがらなくなった岡田は「そんなことを言っていると人気落ちるぞ」と忠告したが、錦之助は聞き入れず。『徳川家康』や『宮本武蔵 巌流島の決斗』なども作品評価されても興行芳しくなく、「いい映画不入りだったのは会社責任だ」などと反撃し岡田にも錦之助はコントロール出来なくなった。錦之助が数年来滞納していた税金支払い迫られたことから、会社に2,500万円借金申し込んだが、錦之助映画興行不振が続くためニベもなく撥ねつけられ岡田が「時代劇の製作を止め任侠路線で行く」という方針打ち出し、"不良性感度"を標榜する荒々しい企画路線シフトさせ始めたため「エロでも暴力でもお客入ればいいという考え方麻薬同じだ。いずれお客さんにそっぽを向かれるだけ」と公然と批判し、これに反対する目的で、東映京都親睦団体京都俳優クラブ母体として1965年5月9日東映俳優組合東映俳優クラブ組合)を結成した。錦之助が生え抜き東映スターに比べ鶴田浩二東宝から移ったいわば外様だけに、岡田鶴田中心の製作スケジュール組んでいることに錦之助が感情的になったといわれる。 錦之助は『宮本武蔵』シリーズ五部作最終作『宮本武蔵 巌流島の決斗』を撮り終えたら、フランスへ2、3出かけるつもりでいたが、俳優仲間組合委員神木真一郎(神木真寿雄)から「代表になって欲しい」と頼まれ侠気のある錦之助は「自分が代表になって、同じ俳優仲間の生活が向上するなら」と代表を引き受けた副代表には東千代之介里見浩太朗が、書記長には尾形伸之介が就任し大友柳太郎松方弘樹近衛十四郎桜町弘子総勢38名が参加した東千代之介岡田長年ギャラを値切られ続けキャバレーに出るなら世話してやろう」などと言われ堪忍袋の緒切れた。錦之助と弟分だった高倉健合意したが、高倉東映東京撮影所(以下、東映東京)の契約者だったため、発表控えた役者一国一城の主が多いだけに大川橋蔵は、人気巻き返し狙っていたため、会社抵抗したくないと反対打ち出し不参加。また錦之助と犬猿の仲だった鶴田浩二は、組合結成批判し東映東京専属役者には声をかけず、四十七士に足らなかった。岡田は「錦之助は自分思うようにいかんから子分率いて組合作ったんやろ」「俳優労働者非ず、従って組合認めない邦画を守るためにも娯楽作品作っていく。文句があるならお前らみんな東映辞めろ」などと暴言吐き、「一般労働組合としては認められないから団交には応じられない一人一人なら交渉応じる」などと強硬な態度接し激しく対立した。錦之助のように東映高額な契約金を交わす大スター東映社員ではなかった。 俳優組合やむなく1965年6月1日京都地労委組合資格審査申し立て行い1965年7月公益委員会は「俳優労働組合法上の労働者として認められる」と、東映側の主張退けられ史上初め俳優という職業労働者として認められ俳優労働組合東映に正式発足した岡田有馬稲子から頼まれ一本数千ギャラ取って大川社長より年俸の多いお前が、年間数千円か賃金上げてくれという組合員気持ち分かるのか」と錦之助に代表を辞めるよう説得したダメだった。錦之助は本作興行的惨敗ケチのつき始めで、この年7月有馬稲子離婚五社協定俄然映画界君臨した時代でもあり、組合活動も同じ京都当時撮影所持っていた大映松竹との歩調合わず。大スターから大部屋俳優一緒にやることに無理があった。副代表東千代之介後援会長の座館経営者から「赤旗を振るようなことがあったら会長を退くから」と叱られフリーになって東映退社し里見浩太朗も「会社に弓を引けない」と脱退するに及び、解散余儀なくされ、錦之助は責任一身背負代償として会社交渉持ち組合員処罰しないことと組合員今後の生活保障条件組合解散させ、1965年8月16日、もとの親睦団体戻った。 錦之助の出演作以降興行振るわず東映ドル箱シリーズ鶴田浩二の「関東やくざシリーズ」と高倉健の「網走番外地シリーズ」に移った岡田最初自身発案による鶴田浩二主演の「博徒シリーズ」と錦之介主演の「日本侠客伝シリーズ」で東映京都改革構想していたが、錦之介が『日本侠客伝』の主演拒否し代わりに主演抜擢した高倉健人気爆発した。錦之介と高倉は仲が良かったから、錦之介は二作目以降はあっさり身を退いた鶴田への対抗心から錦之介はその後ヤクザ路線出たがらず、ヤクザ路線一辺倒になることに反対し、「時代劇も撮るべきだ」と主張したが、岡田に容られず。かつて年間8本~10本の専属契約で3,000以上を叩き出していたため、出演料一本400万円見当で、錦之助の映画作りにくい状況陥った。 錦之助は独立プロ設立するため、大川東映社長に退社伝えたが、大川役者に勝手なことをされてはしめしが付かない猛反対した。岡田東映にまた帰って来れるよう1965年10月東映専属から本数契約を結ばせ、『花と龍二部作と『沓掛時次郎 遊侠一匹』『丹下左膳 飛燕居合斬り』の計四本出演条件1966年8月東映円満退社させた。しかし世間的に東映実質的に切られたと見られた。独立プロ上手くいかず、11年後岡田ところに錦之助がやって来て「何かいい企画はないかと言うので『柳生一族の陰謀』に錦之助を主演させた。東映京都スタッフが錦之助の京都復帰歓迎したのは円満退社だったからである。1977年6月公開『八甲田山』映画インサイダーによる製作で一本立て興行として大成功したことから、岡田東映でも大作一本立て興行決意し時代劇復興願い新し時代劇ブーム作り出したいと考えたかは諸説あるが、『柳生一族の陰謀』を企画した岡田茂1976年12月の『映画ジャーナル』のインタビューで「映画ゼニ儲けしよう思ったら、転換期現実をどう処理して乗り切るか、ジャーナリスティック見方と違うんだよ。これは映画製作責任を持つぼくしか分からないかも知れんね。しかし、あの現実を若いぼくの後輩連中シカと見させたことは非常にタメになったと思う。東映最初転換期は、千恵さん(片岡千恵蔵)右太さん(市川右太衛門)を中心に中村錦之助大川橋蔵時代劇黄金時代終焉告げたとき、大問題だった。千恵さん、右太さんと大川社長の間に大変な軋轢起きたことも隠れもない事実だったし、当時ぼくが京撮所長としてその解決全部仕切ったスターばかりか監督ライターキャメラマンまで一気にいったんだから。時代劇固執するものは一人いらないんだ、どこか他で撮ってくれ、という勢の大きな嵐なんだ。『武士道残酷物語』『ちいさこべ』なんか批評家には褒められたが商売赤字ばかり出たんだから、これを止めなきゃならん。一方第二東映膨れ上がった人間抱えてるんだからタマランわねえ。もう全部切る、とこれが東映京都でやった合理化です。錦之助を担いで俳優諸君争議起し、これを支援するマスコミわいわい書き立てた。そんなとき、次はこれだッと鶴田浩二使って人生劇場 飛車角』などを撮り出した当たったよしこれだッ、ということで、俊藤浩滋クンなんかと組んで日本侠客伝』を出したそのうちポーン東映東京今田クン今田智憲)が高倉健で『網走番外地』を当てみるまに昭和残侠伝』でのし上がってきたんだよ。思い切って時代劇にとどめを刺し人間整理し次に当たる企画打ち出した。いいも悪いもない、映画ゼニを稼ぐというのはそういうことなんです」などと述べている。

※この「組合騒動」の解説は、「冷飯とおさんとちゃん」の解説の一部です。
「組合騒動」を含む「冷飯とおさんとちゃん」の記事については、「冷飯とおさんとちゃん」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「組合騒動」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「組合騒動」の関連用語

組合騒動のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



組合騒動のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの冷飯とおさんとちゃん (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS