系統の歩みとは? わかりやすく解説

系統の歩み

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/25 17:47 UTC 版)

東氏津波古殿内」の記事における「系統の歩み」の解説

元祖東風平親方真の父母・妻の名は不明尚円王代に東風平間切総地頭職に任ぜられ、紫冠に叙せられる。1524年首里崎山村幸地宅地賜り、「永く子孫伝え万民侵すべからず他人がこの土地侵してならない)」という宝印賜る二世東風平親方政供は、元祖真の長男。父の跡目継いで東風平間切総地頭職に任ぜられ、紫冠に叙せられる。後に尚清王代の三司官宰相)に任ぜられる。屋良座森城英語版)の碑に「東風平の大やくもい真牛」とあり、真牛は童名である。 三世屋宜親方政長は、二世政供の長男尚寧王代に中城間切屋宜地頭職に任ぜられ、座敷叙せられる。後に謝国富勢頭(警備編成隊長)に任ぜられ、公務のために大島奄美大島)へ赴く帰国して紫冠に叙せられる。 四世屋宜里之子親雲上政知は、三世長の次男長男の政喬は、二十六歳の若里之子(従八品)の時、薩摩軍の侵攻識名において戦い戦死したので、跡目は政喬の弟、政知が継いだ。政知は御双紙庫理大筆者(城中管掌褒賞書記)をつとめる。世子佐敷王子朝良(尚恭尚豊王長男)の与力従者)に任ぜられ、黄冠叙せられる。 五世の与那覇親雲上政周は、四世政知の長男世子佐敷王子尚文(朝益、尚豊王次男)の与力従者)に任ぜられ、筑登之座敷(従九品)に叙せられる。1634年冊封完了御札使者として尚文が京都上国する時、与力従者)や御近習役(世話役)に任ぜられる。1638年向氏島尻中城親方朝寿が薩摩赴く時、政周は付衆(文筆できる従者)に任ぜられる。その後御手判書役辞令書手印)をつとめる。後に黄冠叙せられる。三司官向氏国頭親方朝季の与力従者)に任ぜられる。その後は再び、御手判書役辞令書手印)をつとめる。尚氏摩文仁王子朝元(尚弘仁尚質王三男)の儀者大屋子(秘書官長)に任ぜられる。南風原間切与那覇地頭職に任ぜられ、座敷(従四品)に叙せられる。後に尚質王姫宮平公主(宮平翁主尚質王五女)の大親(家令)に任ぜられる。 六世の与那覇親雲上政房は、五世政周の長男摂政尚氏羽地王子朝秀羽地朝秀)の与力従者)に任ぜられ、筑登之座敷(従九品)に叙せられる。御評定所筆者書記)をつとめる。後に黄冠叙せられる。年頭使毛氏座喜味親方盛員の与力従者)に任ぜられる。その後は再び、御評定所筆者書記)をつとめ、西原間切石嶺地頭職に任ぜられる。摂政尚氏大里王子朝亮らによる系図改正の時、景輝(政房)は御評定所筆者書記)と系図筆者家譜書記)をつとめる。後に御右筆役(文書浄書)をつとめ、座敷(従四品)に叙せられる。父の跡目継いで南風原間切与那覇地頭職に任ぜられる。山奉行職(林政長官)に任ぜられ、六十二歳時に口座(従三品)に叙せられる。後に算用奉行職(諸座勘定長官)に任ぜられる。 七世の与那覇親雲上政久は、六世政房の長男。御右筆相付(文書浄書)をつとめ、若里之子(従八品)に叙せられる。後に黄冠叙せられる。御右筆役(文書浄書)をつとめ、当座敷(従五品)に叙せられる。後に座敷(従四品)に叙せられる。1715年薩摩通達国書和文で書くように言われ、政久は薩摩で二年間和文による公文書学習して帰国するその後は再び、御右筆役(文書浄書)をつとめる。後に国頭在番地方行政監督官)に任ぜられる。1724年、眼を患って辞職し、父に続いて南風原間切与那覇地頭職に任ぜられる。 八世安仁親雲上政副は、七世政久の長男中頭代官筆者代官書記)に任ぜられ、黄冠叙せられる。御右筆相付(文書浄書)、御評定所筆者相付(書記)をつとめる。砂糖座大屋子(黒糖収納役所所長)に任ぜられ、当座敷(従五品)に叙せられる。下庫理番頭城中取締取締長)に任ぜられ、座敷(従四品)に叙せられる。宜野湾間切安仁屋地頭職に任ぜられる。後に慶良間在番地方行政監督官)に任ぜられる。 九世安仁里之子親雲上政慶は、八世政副の長男。「球陽加勢筆者書記)をつとめ、若里之子(従八品)に叙せられる。尚氏今帰仁王子朝忠今帰仁朝義、名乗は朝義に改めた)の与力従者)に任ぜられ、黄冠叙せられる。御評定所筆者書記)、御評定所筆者相付(書記)をつとめる。後に米御藏大屋子(年貢収納役所所長)に任ぜられる。その後尚氏読谷王子朝恒(尚和、尚敬王次男、名乗は朝憲改めた)の与力従者)に任ぜられ、朝恒が国相となり、政慶は国相の御右筆役(文書浄書)に任ぜられる。後に尚氏浦添王子朝央(尚図、尚穆王次男)の与力従者)に任ぜられる。その後世子尚哲尚穆王長男)の御右筆役(文書浄書)に任ぜられ、当座敷(従五品)に叙せられる。御物大親(財政行政官)と尚哲の妻(尚氏汀間按司)の御物方(財政責任者)に任ぜられる。後に接貢船才府(買取責任者)に任ぜられる。 十世安仁里之子親雲上政清は、九世政慶の次男長男の政章は十歳死去したので、跡目は政章の弟、政清が継いだ。政清は若里之子(従八品)や黄冠叙せられ、中城御殿御物方(世子邸宅財政係官)をつとめる。後に国頭神水検者に任ぜられる。その後給地御蔵大屋子(米銭出納役所所長)に任ぜられ、当座敷(従五品)に叙せられる。佐敷御殿大親(王妃公務行政官)に任ぜられる。後に大与中取(戸籍民事役所事務長)に任ぜられる。その後、下庫理番頭城中取締取締長)に任ぜられる。後に鍛冶奉行職鍛冶役所長官)に任ぜられる。 十一世安仁里之子親雲上政守は、十世政清の長男若里之子(従八品)に叙せられるが、二十八歳死去十二世の与世山親方政輔(安仁屋政輔)は、十一世政守の長男国学筆者学問に関する書記)をつとめ、若里之子(従八品)に叙せられる。平等所大屋見習判事見習)をつとめ、黄冠叙せられる。1822年英国来航の時、通事をつとめる。後に平等所大屋足役判事補佐)、平等所大屋子(判事)をつとめる。1827年英国来航の時、再び通事をつとめる。後に「科律(刑法典)」編修役をつとめる。その後護送船脇筆者護送船の書記)と唐物御用係役(礼物出納係官)に任ぜられる。後に平等所加勢大屋子(判事補助)をつとめる。その後摂政尚氏浦添王子朝憙(尚元尚真王三男尚韶威の子孫、浦添朝熹)の御物方大親(財政行政官)に任ぜられ、当座敷(従五品)に叙せられる。糾華人債中取(華人役所事務長)、御近習相付(国王内輪世話役)に任ぜられる。後に平等所大屋子主取(主席判事)をつとめ、座敷(従四品)に叙せられる。御近習役(国王内輪世話役)に任ぜられる。後に接貢船才府(買取責任者)に任ぜられる。その後具志頭間切与座地頭職に任ぜられる。名を与世山と改名。後に申口座(従三品)に叙せられる。検使向氏翁長親方朝典の相付(監督官補佐)に任ぜられる。後に御所帯係職(租税国庫出納責任者)に任ぜられ、紫冠に叙せられる。刑法條目主裁職(役所通達刑法布告文書責任者)に任ぜられる。後に南風平等学校奉行職南風地区学校行政役所長官)、勘定奉行職(諸役会計検査長官)に任ぜられる。その後向氏具志川王子朝敷(尚弼、尚育王三男)の大親(家令)に任ぜられる。後に南風之平等総横目南風地区警察長)に任ぜられる。政輔は牧志朝忠(板良敷朝忠)に英語を教えた1861年宮古島讒書事件前島与人村役人)・波平恵教)の時、平等所大屋子(担当判事)だった。 十三世津波古親方政正は、十二世政輔の長男若里之子(従八品)に叙せられ、官生留学生)となる。後に黄冠叙せられる。その後当座敷(従五品)に叙せられる。国学講談師匠(最高学府講師)に任ぜられ、座敷(従四品)に叙せられる。系図仮中取(国史家譜役所事務長補佐)、系図中取(国史家譜役所事務長)に任ぜられる。後に高奉行職(田畑・諸知行唐船出入点検等の役所長官)に任ぜられる。その後講談上役主席講師)に任ぜられる。後に御書院当職国賓迎え入れる御殿責任者)に任ぜられる。その後尚泰王侍講官(教授)に任ぜられる。後に佐敷間切津波古地頭職に任ぜられる。その後、申口吟味役(財政以外の国政次官)に任ぜられる。後に御所帯方吟味役租税国庫出納役所次官)、平等之側(司法首里土地山林布告令達役所責任者)に任ぜられる。その後、御双紙庫理奉行城中管掌褒賞役所長官)に任ぜられる。1864年には請封進貢使者として清国に渡る。また、明治維新の時、琉球王国からの東京使者として東京明治政府)に駐在十四世津波古親雲上政衡は、十三世政正の長男。下庫理小赤頭下働きする者)をつとめ、御書院赤頭下働きする者)、御書院童子小性下働きする者)をつとめ、若里之子(従八品)に叙せられる。御書院小性下働きする者)をつとめ、黄冠叙せられる。寺社中取(寺社役所副主任)となり当座敷(従五品)に叙せられる。 十五世の政昭は、十四世政衡の長男。下庫理小赤頭下働きする者)をつとめる。政昭は、男子をもうけることができなかったので、跡目は政昭の弟、政公が継いだ十五世の政公は、十四世政衡の次男十六世の政弘は、十五世政公の長男

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系統の歩み

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向氏高安殿内」の記事における「系統の歩み」の解説

康熙五十一年1712年)から咸豊十一年(1861年)の約150年間は玉城間切垣花脇地頭職を務めたその後九世朝範の代からは豊見城間切高安脇地頭職に転任となる。 五世朝理は宗家伊江御殿嫡子がいなかったため、一人息子伊江按司朝良として養子にした。その結果高安殿内断絶危機瀕したが、伊江御殿養子入った伊江按司朝良の次男、四男の次男それぞれ高安殿内となり家統を継いだ九世朝範は親方となり、最終的に三司官座敷まで陛った。十二世朝常は伊江王子朝直の五男であり、十一世朝規の養嗣子となる。朝常には嗣子がいなかったため、婿養子として十三世玉兎5代目首里市長)を迎えた十四世朝正の妻は尚泰王女の八重子神山政良の姪にあたり高嶺御殿十一世高嶺朝教孫娘

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系統の歩み

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向氏嘉味田殿内」の記事における「系統の歩み」の解説

成化年間嘉靖年間越来間切総地頭職。その後250年近く喜屋武間切総地頭職を務める。 康煕31年1692年、向殿41歳王府家譜提出、「向」の氏名と「朝」の名乗り頭を賜る。(それまでは「袁」の氏名と「頼」の名乗り頭を用いていた。) 琉球国末期十世向承基が19歳早逝したため御殿継承問題がもちあがった分家十世朝昌を養子迎え、朝昌は喜屋武按司継承した。しかし朝昌にも子がなく、実甥の朝郁を養子迎えた。朝郁も喜屋武按司となったが、6歳夭逝したため、朝昌の実従兄弟朝愛が朝昌の跡目となった。朝愛は当初喜屋武按司継いだが、養子続いたため真和志間切真嘉比地頭職転任降格となった。この時から嘉味親方名乗りお家御殿から殿内降格となった

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