系統の歩み
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元祖の東風平親方政真の父母・妻の名は不明。尚円王代に東風平間切総地頭職に任ぜられ、紫冠に叙せられる。1524年、首里崎山村幸地に宅地を賜り、「永く子孫に伝え万民侵すべからず(他人がこの土地を侵してはならない)」という宝印を賜る。 二世の東風平親方政供は、元祖政真の長男。父の跡目を継いで東風平間切の総地頭職に任ぜられ、紫冠に叙せられる。後に尚清王代の三司官(宰相)に任ぜられる。屋良座森城(英語版)の碑に「東風平の大やくもい真牛」とあり、真牛は童名である。 三世の屋宜親方政長は、二世政供の長男。尚寧王代に中城間切屋宜地頭職に任ぜられ、座敷に叙せられる。後に謝国富勢頭(警備・編成隊長)に任ぜられ、公務のために大島(奄美大島)へ赴く。帰国して紫冠に叙せられる。 四世の屋宜里之子親雲上政知は、三世政長の次男。長男の政喬は、二十六歳の若里之子(従八品)の時、薩摩軍の侵攻で識名において戦い戦死したので、跡目は政喬の弟、政知が継いだ。政知は御双紙庫理大筆者(城中管掌・褒賞の書記)をつとめる。世子佐敷王子朝良(尚恭、尚豊王長男)の与力(従者)に任ぜられ、黄冠に叙せられる。 五世の与那覇親雲上政周は、四世政知の長男。世子佐敷王子尚文(朝益、尚豊王次男)の与力(従者)に任ぜられ、筑登之座敷(従九品)に叙せられる。1634年、冊封完了の御札使者として尚文が京都へ上国する時、与力(従者)や御近習役(世話役)に任ぜられる。1638年、向氏島尻中城親方朝寿が薩摩へ赴く時、政周は付衆(文筆できる従者)に任ぜられる。その後、御手判書役(辞令書・手印)をつとめる。後に黄冠に叙せられる。三司官向氏国頭親方朝季の与力(従者)に任ぜられる。その後は再び、御手判書役(辞令書・手印)をつとめる。尚氏摩文仁王子朝元(尚弘仁、尚質王三男)の儀者大屋子(秘書官長)に任ぜられる。南風原間切与那覇地頭職に任ぜられ、座敷(従四品)に叙せられる。後に尚質王姫宮平公主(宮平翁主、尚質王五女)の大親(家令)に任ぜられる。 六世の与那覇親雲上政房は、五世政周の長男。摂政尚氏羽地王子朝秀(羽地朝秀)の与力(従者)に任ぜられ、筑登之座敷(従九品)に叙せられる。御評定所筆者(書記)をつとめる。後に黄冠に叙せられる。年頭使毛氏座喜味親方盛員の与力(従者)に任ぜられる。その後は再び、御評定所筆者(書記)をつとめ、西原間切石嶺地頭職に任ぜられる。摂政尚氏大里王子朝亮らによる系図改正の時、景輝(政房)は御評定所筆者(書記)と系図筆者(家譜の書記)をつとめる。後に御右筆役(文書の浄書)をつとめ、座敷(従四品)に叙せられる。父の跡目を継いで南風原間切与那覇地頭職に任ぜられる。山奉行職(林政の長官)に任ぜられ、六十二歳の時に申口座(従三品)に叙せられる。後に算用奉行職(諸座勘定の長官)に任ぜられる。 七世の与那覇親雲上政久は、六世政房の長男。御右筆相付(文書の浄書)をつとめ、若里之子(従八品)に叙せられる。後に黄冠に叙せられる。御右筆役(文書の浄書)をつとめ、当座敷(従五品)に叙せられる。後に座敷(従四品)に叙せられる。1715年、薩摩の通達で国書は和文で書くように言われ、政久は薩摩で二年間、和文による公文書を学習して帰国する。その後は再び、御右筆役(文書の浄書)をつとめる。後に国頭在番(地方行政監督官)に任ぜられる。1724年、眼を患って辞職し、父に続いて南風原間切与那覇地頭職に任ぜられる。 八世の安仁屋親雲上政副は、七世政久の長男。中頭方代官筆者(代官の書記)に任ぜられ、黄冠に叙せられる。御右筆相付(文書の浄書)、御評定所筆者相付(書記)をつとめる。砂糖座大屋子(黒糖収納の役所の所長)に任ぜられ、当座敷(従五品)に叙せられる。下庫理番頭(城中取締の取締長)に任ぜられ、座敷(従四品)に叙せられる。宜野湾間切安仁屋地頭職に任ぜられる。後に慶良間在番(地方行政監督官)に任ぜられる。 九世の安仁屋里之子親雲上政慶は、八世政副の長男。「球陽」加勢筆者(書記)をつとめ、若里之子(従八品)に叙せられる。尚氏今帰仁王子朝忠(今帰仁朝義、名乗は朝義に改めた)の与力(従者)に任ぜられ、黄冠に叙せられる。御評定所寄筆者(書記)、御評定所筆者相付(書記)をつとめる。後に米御藏大屋子(年貢収納の役所の所長)に任ぜられる。その後、尚氏読谷王子朝恒(尚和、尚敬王次男、名乗は朝憲に改めた)の与力(従者)に任ぜられ、朝恒が国相となり、政慶は国相の御右筆役(文書の浄書)に任ぜられる。後に尚氏浦添王子朝央(尚図、尚穆王次男)の与力(従者)に任ぜられる。その後、世子尚哲(尚穆王長男)の御右筆役(文書の浄書)に任ぜられ、当座敷(従五品)に叙せられる。御物大親(財政の行政官)と尚哲の妻(尚氏汀間按司)の御物方(財政責任者)に任ぜられる。後に接貢船才府(買取責任者)に任ぜられる。 十世の安仁屋里之子親雲上政清は、九世政慶の次男。長男の政章は十歳で死去したので、跡目は政章の弟、政清が継いだ。政清は若里之子(従八品)や黄冠に叙せられ、中城御殿御物方(世子邸宅の財政係官)をつとめる。後に国頭方神水検者に任ぜられる。その後、給地御蔵大屋子(米銭出納の役所の所長)に任ぜられ、当座敷(従五品)に叙せられる。佐敷御殿大親(王妃の公務の行政官)に任ぜられる。後に大与中取(戸籍・民事の役所の事務長)に任ぜられる。その後、下庫理番頭(城中取締の取締長)に任ぜられる。後に鍛冶奉行職(鍛冶の役所の長官)に任ぜられる。 十一世の安仁屋里之子親雲上政守は、十世政清の長男。若里之子(従八品)に叙せられるが、二十八歳で死去。 十二世の与世山親方政輔(安仁屋政輔)は、十一世政守の長男。国学筆者(学問に関する書記)をつとめ、若里之子(従八品)に叙せられる。平等所大屋子見習(判事見習)をつとめ、黄冠に叙せられる。1822年、英国船来航の時、通事をつとめる。後に平等所大屋子足役(判事補佐)、平等所大屋子(判事)をつとめる。1827年、英国船来航の時、再び通事をつとめる。後に「科律(刑法典)」編修役をつとめる。その後、護送船脇筆者(護送船の書記)と唐物方御用係役(礼物出納の係官)に任ぜられる。後に平等所加勢大屋子(判事補助)をつとめる。その後、摂政尚氏浦添王子朝憙(尚元魯、尚真王の三男尚韶威の子孫、浦添朝熹)の御物方大親(財政の行政官)に任ぜられ、当座敷(従五品)に叙せられる。糾華人債中取(華人の役所の事務長)、御近習相付(国王内輪の世話役)に任ぜられる。後に平等所大屋子主取(主席判事)をつとめ、座敷(従四品)に叙せられる。御近習役(国王内輪の世話役)に任ぜられる。後に接貢船才府(買取責任者)に任ぜられる。その後、具志頭間切与座地頭職に任ぜられる。名を与世山と改名。後に申口座(従三品)に叙せられる。検使向氏翁長親方朝典の相付(監督官補佐)に任ぜられる。後に御所帯係職(租税・国庫出納の責任者)に任ぜられ、紫冠に叙せられる。檄示刑法條目主裁職(役所通達・刑法布告文書の責任者)に任ぜられる。後に南風之平等学校奉行職(南風地区の学校・行政役所の長官)、勘定奉行職(諸役座会計検査の長官)に任ぜられる。その後、向氏具志川王子朝敷(尚弼、尚育王三男)の大親(家令)に任ぜられる。後に南風之平等総横目(南風地区警察長)に任ぜられる。政輔は牧志朝忠(板良敷朝忠)に英語を教えた。1861年、宮古島讒書事件(前島尻与人(村役人)・波平恵教)の時、平等所大屋子(担当判事)だった。 十三世の津波古親方政正は、十二世政輔の長男。若里之子(従八品)に叙せられ、官生(留学生)となる。後に黄冠に叙せられる。その後、当座敷(従五品)に叙せられる。国学講談師匠(最高学府の講師)に任ぜられ、座敷(従四品)に叙せられる。系図仮中取(国史・家譜の役所の事務長補佐)、系図中取(国史・家譜の役所の事務長)に任ぜられる。後に高奉行職(田畑・諸知行・唐船出入の点検等の役所の長官)に任ぜられる。その後、講談読上役(主席講師)に任ぜられる。後に御書院当職(国賓を迎え入れる御殿の責任者)に任ぜられる。その後、尚泰王の侍講官(教授)に任ぜられる。後に佐敷間切津波古地頭職に任ぜられる。その後、申口吟味役(財政以外の国政の次官)に任ぜられる。後に御所帯方吟味役(租税・国庫出納の役所の次官)、平等之側(司法・首里の土地山林の布告令達の役所の責任者)に任ぜられる。その後、御双紙庫理奉行(城中管掌・褒賞の役所の長官)に任ぜられる。1864年には請封進貢使者として清国に渡る。また、明治維新の時、琉球王国からの東京使者として東京(明治政府)に駐在。 十四世の津波古親雲上政衡は、十三世政正の長男。下庫理小赤頭(下働きする者)をつとめ、御書院小赤頭(下働きする者)、御書院童子御小性(下働きする者)をつとめ、若里之子(従八品)に叙せられる。御書院御小性(下働きする者)をつとめ、黄冠に叙せられる。寺社中取(寺社の役所の副主任)となり当座敷(従五品)に叙せられる。 十五世の政昭は、十四世政衡の長男。下庫理小赤頭(下働きする者)をつとめる。政昭は、男子をもうけることができなかったので、跡目は政昭の弟、政公が継いだ。 十五世の政公は、十四世政衡の次男。 十六世の政弘は、十五世政公の長男。
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系統の歩み
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/06 16:41 UTC 版)
康熙五十一年(1712年)から咸豊十一年(1861年)の約150年間は玉城間切垣花の脇地頭職を務めた。その後、九世朝範の代からは豊見城間切高安の脇地頭職に転任となる。 五世朝理は宗家の伊江御殿に嫡子がいなかったため、一人息子を伊江按司朝良として養子にした。その結果、高安殿内は断絶の危機に瀕したが、伊江御殿に養子に入った伊江按司朝良の次男、四男の次男がそれぞれ高安殿内となり家統を継いだ。九世朝範は親方となり、最終的に三司官座敷まで陛った。十二世朝常は伊江王子朝直の五男であり、十一世朝規の養嗣子となる。朝常には嗣子がいなかったため、婿養子として十三世玉兎(5代目首里市長)を迎えた。十四世朝正の妻は尚泰王女の八重子・神山政良の姪にあたり、高嶺御殿十一世高嶺朝教の孫娘。
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系統の歩み
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/29 04:11 UTC 版)
成化年間、嘉靖年間越来間切総地頭職。その後250年近く喜屋武間切総地頭職を務める。 康煕31年(1692年、向殿柱41歳)王府に家譜を提出、「向」の氏名と「朝」の名乗り頭を賜る。(それまでは「袁」の氏名と「頼」の名乗り頭を用いていた。) 琉球国末期、十世向承基が19歳で早逝したため御殿の継承問題がもちあがった。分家十世朝昌を養子に迎え、朝昌は喜屋武按司を継承した。しかし朝昌にも子がなく、実甥の朝郁を養子に迎えた。朝郁も喜屋武按司となったが、6歳で夭逝したため、朝昌の実従兄弟朝愛が朝昌の跡目となった。朝愛は当初喜屋武按司を継いだが、養子が続いたため真和志間切真嘉比村の地頭職に転任(降格)となった。この時から嘉味田親方を名乗り、お家も御殿から殿内に降格となった。
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