第5、第6の哨戒 1944年6月 - 11月
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「セロ (潜水艦)」の記事における「第5、第6の哨戒 1944年6月 - 11月」の解説
6月26日、セロは5回目の哨戒でフィリピン方面に向かった。7月1日、セロは北緯05度15分 東経125度38分 / 北緯5.250度 東経125.633度 / 5.250; 125.633の地点でダバオからタラカン島に回航途中の戦艦扶桑と駆逐艦朝雲、満潮、野分を発見するが、約22,000ヤード(約20キロ)まで接近するのが精一杯だった。7月22日には北緯05度10分 東経128度37分 / 北緯5.167度 東経128.617度 / 5.167; 128.617の地点で1,000トン級小型輸送船と護衛艦を発見し、夜に入って魚雷を6本発射したが命中しなかった。8月5日、セロは北緯05度53分 東経125度41分 / 北緯5.883度 東経125.683度 / 5.883; 125.683のダバオ・デル・スル州カヤポンガ北東20キロのダバオ湾(英語版)口で特務艦鶴見を中心とする輸送船団を発見し、セロは船団を東側に見る体勢で襲撃運動を開始。11時13分に鶴見に対して魚雷を6本発射し、うち4本が鶴見に命中して11時30分に横転沈没した。8月20日、セロは56日間の行動を終えてブリスベンに帰投した。この後、セロは9月13日にブリスベンを出港し、9月18日にダーウィンに到着した。 9月19日、セロは6回目の哨戒でミンダナオ島方面に向かった。10月17日、セロは第一の特殊任務のためビアク島南東のミオス・ウンディ島に立ち寄り、16名の陸軍兵士と17トンの物資、2名の海軍士官を受け入れた。これら兵員と物資は、ルソン島西岸部中のうち北緯16度49分04秒 東経120度19分00秒 / 北緯16.81778度 東経120.31667度 / 16.81778; 120.31667のダリガヨス入り江と、北緯17度17分02秒 東経120度24分05秒 / 北緯17.28389度 東経120.40139度 / 17.28389; 120.40139のサンチャゴ・カーヴ、北緯15度01分05秒 東経121度32分05秒 / 北緯15.01806度 東経121.53472度 / 15.01806; 121.53472のルソン島東部マサンガ川河口付近の3箇所に揚陸することになっていた。折りしもレイテ沖海戦直前であり、セロはギターロ (USS Guitarro, SS-363) が接触した栗田健男中将の艦隊に関する情報を受信しつつ、目的地へと向かう。10月25日朝、セロは第一の目的地であるダリガヨス入り江に到着するが、合図の信号が見つからなかった上に日が昇って日本の航空機の姿がいくつか見受けられるようになった。セロは潜航して機をうかがい、夜になって浮上して場所を変えての揚陸を試みたが上手くゆかず、やがてコッド (USS Cod, SS-224) が海軍徴傭船浅間丸(日本郵船、16,975トン)などを含んだモマ04船団を発見したため、特殊任務を中断してその迎撃へと向かったが、モマ04船団に対する攻撃は出来なかった。10月26日夜と10月27日夜にも揚陸のための接触を試みるが、後者では機をうかがっている時に北緯16度58分 東経120度18分 / 北緯16.967度 東経120.300度 / 16.967; 120.300の地点で2隻の100トン級海上トラックが出現し、セロは4インチ砲と40ミリ機関砲、20ミリ機銃で命中弾を与えて座礁させた。10月28日に至っても接触できなかったため、セロは第二の目的地であるサンチャゴ・カーヴに移動することとなった。10月29日朝にサンチャゴ・カーヴに到着したセロは早速信号を取り交わすが、陸上側ではプランとは違う信号を出したり、現地の人間が海岸に出てきてセロをただ観察するのみだった。翌10月30日朝にも接触を試みるが成功せず、損傷した10,000トン級輸送船を中心とする輸送船団攻撃に移った。夜にも接触を試みたが応答はなく、セロは第三の目的地であるマサンガ川河口に向かった。11月2日夜にマサンガ川河口に到着し、この時は現地ゲリラとの接触も上手く行き、兵士と物資を無事に揚陸。その代わりに3人の兵員と1人の子供を引き取った。4人の内訳は次のとおり。 空母プリンストン (USS Princeton, CVL-23) 乗り組みで、9月21日の戦闘で墜落してルソン島北部に着地したウィリアム・ランブ大尉 空母イントレピッド (USS Intrepid, CV-11) 乗り組みで、10月29日の戦闘で墜落してルソン島東部に着地したダン・ノートン少尉 開戦劈頭のフィリピンの戦いで日本軍の捕虜となり、1944年に脱獄したアール・スチール陸軍上等兵 「ジェームス・バーネット中佐の息子」と名乗る12歳の子供 任務終了後、セロは11月3日に「日本の呂号潜水艦」から雷撃を受けたが回避した。11月4日ルソン海峡に到達し、11月14日にサイパン島タナパグ湾(英語版)に寄港。11月24日、セロは62日間の行動を終えて真珠湾に帰投。メア・アイランド海軍造船所でオーバーホールに入った。また、艦長がレイモンド・バートン少佐(アナポリス1938年組)に代わった。オーバーホールを終えたセロは1945年3月18日に真珠湾に戻った。
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第5、第6の哨戒 1944年6月 - 11月
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「シーホース (潜水艦)」の記事における「第5、第6の哨戒 1944年6月 - 11月」の解説
6月3日、シーホースは5回目の哨戒でルソン海峡方面に向かった。フィリピンの東側を通って担当海域に向かったが、この頃、マリアナ諸島に対するアメリカ軍の反攻作戦が行われつつあった。複数の他の潜水艦の報告によって確認された、フィリピン南西部のタウィタウィ在泊中の日本海軍の機動部隊の動向はアメリカ軍の注目の的であり、シーホースが航行中の海域にも艦隊が出現する可能性は十分あった。6月15日18時45分、北緯09度30分 東経128度49分 / 北緯9.500度 東経128.817度 / 9.500; 128.817のスリガオ海峡東方200海里沖を北上中だったシーホースの見張り員は、水平線上に煙を発見した。これは、第3次渾作戦を打ち切って、小沢治三郎中将率いる機動部隊に合流せんと航行中の戦艦大和、武蔵、重巡妙高、羽黒以下の艦隊であった。シーホースはただちに浮上して、20ノットの速度で艦隊を追跡した。ところが、艦隊までの距離が17,000メートルにまで接近した23時ごろ、シーホースの主電動機1基がスパークを起こしてダウンし、シーホースは直ちに速力を14ノットに落とさなければならなかった。その結果、艦隊との距離は広がっていき、いつしか見えなくなった。それでも、翌6月16日3時に「日本艦隊発見」を司令部に通報したが、ジャミングを受けた。その後、シーホースは担当海域に到着。6月27日早朝には北緯21度10分 東経120度31分 / 北緯21.167度 東経120.517度 / 21.167; 120.517の台湾南方でマタ23船団を発見し、タンカーめだん丸(三菱汽船、5,135トン)を撃沈した。7月3日にも、香港南方で日東丸(東亜海運、2,186トン)、第二十八共同丸(東亜海運、1,518トン)、暁勇丸(拿捕船、元イギリス船ジョアン・モラー、2,232トン)の3隻の輸送船を立て続けに撃沈。シーホースは、この攻撃で魚雷を使い切った。7月19日、シーホースは47日間の行動を終えて真珠湾に帰投。艦長がチャールズ・W・ウィルキンス(アナポリス1924年組)に代わった。 8月21日、シーホースは6回目の哨戒でルソン海峡方面に向かった。パラオ、フィリピン方面を攻撃する第38任務部隊(マーク・ミッチャー中将)に対する支援に従事した後、担当海域に到着。10月6日、シーホースは北緯19度48分 東経118度22分 / 北緯19.800度 東経118.367度 / 19.800; 118.367の地点でヒ77船団を発見し、ウルフパックの僚艦ホエール (USS Whale, SS-239) とともに攻撃。ホエールがタンカーあかね丸(石原汽船、10,241トン)を撃沈し、シーホースは第21号海防艦を撃沈した。その後、再び第38任務部隊に対する支援に従事。11月1日、シーホースは71日間の行動を終えて真珠湾に帰投。メア・アイランド海軍造船所に回航されてオーバーホールに入った。この間に、艦長がハリー・H・グリアー・ジュニア(アナポリス1934年組)に代わった。オーバーホールは1945年2月10日に終わり、2月18日に真珠湾に到着した。
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