第5、第6の哨戒 1944年12月 - 1945年5月
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「ピクーダ (潜水艦)」の記事における「第5、第6の哨戒 1944年12月 - 1945年5月」の解説
12月29日、ピクーダは5回目の哨戒で再びバーブ、クイーンフィッシュとウルフパックを構成し東シナ海、台湾海峡方面に向かった。1945年1月7日昼ごろ、ピクーダはバーブの情報に基づいて哨戒中に、北緯25度42分 東経121度14分 / 北緯25.700度 東経121.233度 / 25.700; 121.233の地点でヒ87船団を発見。タンカー宗像丸(昭和タンカー、10,045トン)に魚雷2本を命中させ大破させた。翌1月8日午後、ピクーダはバーブから船団接触の報告を受け取り、4時間にわたって追跡したのち攻撃。ピクーダは3つの目標を選んで、それぞれに対して魚雷を発射。この攻撃では明宝丸(明治海運、2,857トン)、久川丸(川崎汽船、6,886トン)、満珠丸(日本油槽船、6,515トン)の3隻に損傷を与えたと判断された。しかし、護衛艦が640メートルにまで迫っているのを見て一時息を潜めた。ピクーダは次にバーブ、クイーンフィッシュとともにタンカー彦島丸(三菱汽船、2,854トン)を追いかけまわして痛めつけ、彦島丸は浅瀬に座礁した。攻撃後は、しばらく第38任務部隊(ジョン・S・マケイン・シニア中将)のための救助配置任務に就いた。1月29日早朝、ピクーダは北緯14度32分 東経116度53分 / 北緯14.533度 東経116.883度 / 14.533; 116.883の地点で雨中に少なくとも3隻の大型船があるのを確認し追跡。6時40分、ピクーダは船団に接近し、くらいど丸(南洋海運、5,497トン)に向けて魚雷を発射。2本命中したのをピクーダの当直士官が観測した。霧が晴れると、くらいど丸が煙と蒸気に包まれて沈んでいくのが見えた。この時、上空に水上偵察機を見つけたので、ピクーダはこれ以上の攻撃は諦めた。2月5日から6日にかけてサイパン島タナパグ港で補給。2月15日、ピクーダは48日間の行動を終えて真珠湾に帰投した。 3月15日、ピクーダは6回目の哨戒で日本近海および大陸沿岸部に向かった。3月29日にアプラ港で補給を行い、4月2日に紀伊水道沖の哨戒海域に到達。日本本土を空襲するB-29部隊支援のための救助配置任務に就いた。5月6日、僚艦スキャバードフィッシュ (USS Scabbardfish, SS-397) と南西諸島沖で会合し、スキャバードフィッシュが救助していたB-29クルー5名を受け取った。5月10日にサイパン島に到着。クルーをおろし、第21爆撃司令部に送り届けた。潜水母艦オリオン (USS Orion, AS-18) からの修理を受けた後、5月11日に出港。5月20日、ピクーダは63日間の行動を終えて真珠湾に帰投した。サンフランシスコを経由しパナマ運河を通過後、6月22日にポーツマス海軍造船所に到着。オーバーホール中に終戦を迎えた。 ピクーダは第二次世界大戦の戦功で6個の従軍星章を受章した。
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第5、第6の哨戒 1944年12月 - 1945年5月
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「ロック (潜水艦)」の記事における「第5、第6の哨戒 1944年12月 - 1945年5月」の解説
12月14日、ロックは5回目の哨戒で南シナ海に向かった。63日間に及ぶこの哨戒での唯一の仕事らしい仕事は、ルソン島方面を空襲した空母レキシントン (USS Lexington, CV-16) の搭乗員を救出したことだった。1945年2月13日、ロックは63日間の行動を終えてフリーマントルに帰投し、艦長がロバート・A・キーティング・ジュニア中佐(アナポリス1933年組)に代わった。 3月7日、ロックは6回目の哨戒でガヴィナ (USS Guavina, SS-362) 、コビア (USS Cobia, SS-245) 、ブレニー (USS Blenny, SS-324) とウルフパックを組んで南シナ海方面に向かった。その途中の3月10日、ロックは15名の遭難者を発見し救助する。これらの遭難者は、これより遡る2月6日に、ドイツUボートのU-862(後の日本海軍潜水艦伊号第五〇二潜水艦(伊502))に撃沈されたアメリカのリバティ船ペーター・シルバースターの生存者のうちで最後に生き残った者たちであった。ロックは生存者をエクスマス湾の前進基地に送り届けた後哨戒を再開。3月27日、ロックは北緯11度40分 東経109度16分 / 北緯11.667度 東経109.267度 / 11.667; 109.267の地点で護衛艦を発見し、マーク27誘導魚雷(英語版)を発射したが命中しなった。4月17日と18日にティグロン (USS Tigrone, SS-419) と共同でバタン島の送信所およびバスコ市街を艦砲射撃した。ロックは58日間の行動を終えてサイパン島に帰投した。この哨戒では護衛艦1隻の撃沈を報告した。その後ロックはアメリカ本国に向かい、5月14日にサンフランシスコのハンターズ・ポイント海軍造船所に到着し、オーバーホールに入った。作業が完了すると8月7日に真珠湾にむけて出航するが、途中で8月15日の終戦を迎え、東海岸へ帰還した。
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