第5、第6の哨戒 1944年11月 - 1945年4月
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/30 14:40 UTC 版)
「フラッシャー (潜水艦)」の記事における「第5、第6の哨戒 1944年11月 - 1945年4月」の解説
11月15日、フラッシャーは5回目の哨戒でホークビル (USS Hawkbill, SS-366)、ベクーナ (USS Becuna, SS-319) とウルフパックを構成し南シナ海、カムラン湾方面に向かった。12月4日朝、パラワン島北西200海里の地点でホークビルが船団発見を報告し、これに基づいてフラッシャーは船団の予想針路上に移動し、折からの大雨の中で攻撃態勢に入った。マニラに燃料を揚陸してシンガポールに引き返す特設運送船(給油)八紘丸(日本油槽船、10,022トン)と駆逐艦岸波、敷設艇由利島、第17号海防艦の4隻の船団に対し、フラッシャーは北緯13度12分 東経116度39分 / 北緯13.200度 東経116.650度 / 13.200; 116.650の地点で1,000メートルの至近距離から魚雷を4本を発射。うち2本が岸波に命中し、岸波は航行不能に陥り炎上し始めた。フラッシャーはUターンして八紘丸に対して艦尾発射管から魚雷を4本発射し、2本を命中させて八紘丸も航行不能に陥らせた。第17号海防艦は16発の爆雷を投下したが効果はなく、深深度に潜航して爆雷攻撃を避け、魚雷の装てんを行った後、再び潜望鏡深度に浮上したフラッシャーは、潜望鏡越しに炎上する八紘丸と「3隻目の駆逐艦」を望見した。そして、由利島に曳航されていた岸波と八紘丸への二度目の攻撃を準備する。大雨により視界はほとんど無かったが、フラッシャーは魚雷を4本放射状に発射した。そのうち2本が岸波に命中し、岸波は14時2分に沈没していった。もう2本は八紘丸の下を通過した。再び反撃が行われ、フラッシャーは潜航を余儀なくされた。夕刻、フラッシャーは四度目の攻撃で八紘丸に対して魚雷を1本だけ発射し、それが止めになって八紘丸は沈没していった。浮上したときフラッシャーは、破損した駆逐艦の痕跡を見つけることができなかった。その後しばらくは、攻撃に値する敵性船をあまり見なかった。 12月21日の朝、フラッシャーは護衛を伴った5隻のタンカーからなるヒ82船団を発見し、追跡を開始する。フラッシャーは徐々に護衛の薄い方向に回りこんで攻撃態勢に入り、12月22日早朝になって北緯15度02分 東経109度08分 / 北緯15.033度 東経109.133度 / 15.033; 109.133の地点で攻撃を開始した。まず5時50分に艦尾発射管から魚雷を4本発射し、うち2本はタンカー音羽山丸(三井船舶、9,204トン)の船尾と中央部に命中させて炎上、音羽山丸は左舷に倒れ船尾から沈没していった。直後の5時51分にはタンカーありた丸(石原汽船、10,238トン)の左舷油槽に魚雷が1本命中し、ありた丸は船首から船尾まで火の海と化して6時22分に沈没していった。6時30分ごろには、フラッシャーは特設運送船(給油)御室山丸(三井船舶、9,204トン)に対して魚雷を4本発射し、御室山丸の船尾に魚雷を1本ないし2本命中させて撃沈した。日本側は機雷敷設区域に入り込んだと考えたため、フラッシャーへの反撃を行わなかった。1945年1月2日、フラッシャーは48日間の行動を終えてフリーマントルに帰投した。 1月29日、フラッシャーは6回目の哨戒でバッショー (USS Bashaw, SS-241) とともに海南島近海、インドシナ半島、南シナ海方面に向かった。2月13日午後、バッショーがレーダーで艦隊のようなものを探知したので、フラッシャーもこれにならった。北号作戦で日本本土に向かっていた、航空戦艦伊勢と日向を中心とする松田千秋少将の完部隊は、この時までにイギリス潜水艦タンタルス(英語版) (HMS Tantalus, P318) を含む13隻もの潜水艦やB-24の攻撃や偵察をかいくぐって来た完部隊の前に、最後に刺客として現れたのがフラッシャーとバッショーであった。しかし、バッショーは不意を打たれた。16時18分、日向が22キロ先のバッショーを探知して主砲で攻撃してきたのである。一種の威嚇射撃だったが、日向の36センチ砲弾はバッショーの右舷後方に至近弾として落下、バッショーは潜航して避退した。フラッシャーも攻撃の機会を逸し、しばらくして浮上し完部隊追跡に移ったものの完部隊はすでに去った後だった。2月21日夜には北緯20度23分 東経111度31分 / 北緯20.383度 東経111.517度 / 20.383; 111.517の地点でバッショーとともに複数の目標を発見し、150トン級海上トラックを浮上砲戦で撃沈して捕虜を得た。2月25日夜、バッショーから「小型輸送船と「千鳥型水雷艇」を発見して攻撃したが、取り逃がした」との情報が入り、やがてレーダーと目視により件の目標を発見する。北緯20度04分 東経111度22分 / 北緯20.067度 東経111.367度 / 20.067; 111.367の地点にいたったところで魚雷を3本発射し、輸送船黄浦丸(上海水先協会、850トン)に全て命中させて撃沈した。2月27日朝にも北緯19度28分 東経111度18分 / 北緯19.467度 東経111.300度 / 19.467; 111.300の地点で2隻のラガー(英語版)を発見し、浮上砲戦で破壊した。フラッシャーはアメリカ本土でオーバーホールを受けるよう指示され、4月3日に75日間の行動を終えて真珠湾に帰投。数日後にオーバーホールのため西海岸へ向かった。その後フラッシャーはグアムに回航され、7回目の哨戒の準備に入っていたが、その最中に終戦を迎えた。
※この「第5、第6の哨戒 1944年11月 - 1945年4月」の解説は、「フラッシャー (潜水艦)」の解説の一部です。
「第5、第6の哨戒 1944年11月 - 1945年4月」を含む「フラッシャー (潜水艦)」の記事については、「フラッシャー (潜水艦)」の概要を参照ください。
- 第5、第6の哨戒 1944年11月 - 1945年4月のページへのリンク