第三艦隊司令長官とは? わかりやすく解説

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第三艦隊司令長官

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/01 14:17 UTC 版)

小沢治三郎」の記事における「第三艦隊司令長官」の解説

1942年昭和17年11月1日、第三艦隊司令長官。空母部隊だったが、小沢もその幕僚空母での作戦経験があるものはいなかった。小沢先任参謀大前敏一と参謀有馬高泰を重用し参謀長古村啓蔵軽視された。航空参謀田中正臣は、小沢は自ら決し幕僚細目計画させる指揮官先頭型で実戦型という意味では満点に近いが、飛行機対す知識絶対的に不足しており、艦長持っている程度知識訓練性能の意味良く知らなかった評価する小沢ミッドウェー海戦図面書いて即座に暗号がもれてるぞ」と気づき山本祐二中佐徹底的に調査するように命令したが、調査した山本は「絶対に海軍暗号はもれてません」と回答した。しかし小沢その後暗号がもれていると注意していた。 1943年昭和18年4月連合艦隊長官山本五十六指揮の下でい号作戦参加11月ろ号作戦参加小沢ラバウル第一航空戦隊草鹿任一中将指揮下の基地航空部隊合わせて指揮し第一第二ブーゲンビル島沖航空戦を戦う。約半数パイロット失い機材80%を失った空母2隻を含む10隻の米艦船撃沈報告したが、実際は米艦船撃沈はなかった。 1944年昭和19年3月1日第一機動艦隊兼第三艦隊司令長官。6月マリアナ沖海戦指揮小沢旗艦軍楽隊乗せていったほど勝利を信じていた。652空飛行隊長として出撃した阿部善朗大尉は、甲板散歩する小沢いかにも頑固そうで尊大ぶった印象航空部隊運用についてどれほど勉強したか、飛行隊実情をどこまで把握しているのか疑問感じたという。 小沢は「ミッドウェー海戦日本やられたように敵空母飛行甲板を壊すこと」「相討ちはいけない、負ける」「味方の艦を損傷させてはいけない、人命より艦を尊重させる飛行機弾丸代わり考える」「ミッドウェー失敗繰り返さないように絶対に敵より先に漏らさず敵を発見する攻撃兵力割いて索敵する、三段索敵研究せよ」「陣形輪形陣なければならない」と幕僚指示し攻撃2段とし、まず零戦爆撃先制奇襲し甲板破壊し主隊の飛行機反復攻撃し撃破追撃前衛戦艦全軍突撃するという案にした。 小沢は、航空作戦アウトレンジ戦法採用するが、日本側の航法援助未熟さ、諸原因による搭乗員練度低さ、米側の直掩機VT信管による迎撃などのために失敗に終わる。基地航空隊前衛艦隊栗田健男司令官)が米軍機部隊同一海面行動していると報告したが、小沢第三艦隊偵察機の「米軍機部隊は3箇所分散している」という報告信じて攻撃隊を向わせた。結局栗田艦隊報告正しく100機近い攻撃隊が空振りとなった。米機動部隊日本攻撃隊を各個撃破し「マリアナ七面鳥狩り」と揶揄した6月20日小沢夜戦挽回する準備をするが、連合艦隊長官命令撤退した海戦後小沢敗戦責任をとって辞表作成している。本作戦では、パイロット訓練タウイタウイ中断させたことが練度低下つながり、さらに未熟な技量パイロットに難し戦法やらせてしまった問題指摘される小沢は、タウイタウイ航空基地存否確認するため幕僚派遣するなどの措置を取らなかったこと、空母大鳳被害直後第二艦隊長官栗田健男指揮継承電報をしなかったことは一生の不覚だと回想している。また、小沢によれば彼我兵力練度からしてまともに四つに組んで戦え相手ではないことは百も承知戦前訓練開戦後戦闘様相考え最後に到達した結論は『アウトレンジ、これしかないであった戦後になってアウトレンジ練度無視した理な戦法とか、元から反対だったとか言い出した関係高官出て来たが、当時航空関係者は上下一貫してこの戦法思想一致していた」という。しかし、第二航空戦隊参謀奥宮正武少佐は、議論までしなかったが、大鳳打ち合わせで、練度自信がないため、反対意見述べたという。また、角田求士は海戦後搭乗員から「打ち合わせ遠距離攻撃現在の技量では無理と司令部議論した」と聞いたという。軍令部航空参謀源田実中佐小沢幕僚忠告したという。 遠距離米空母に気を取られ小沢艦隊は米潜水艦空母大鳳」、「翔鶴」を撃沈され、20日空母飛鷹」も撃沈され、太平洋戦争中空母9隻を同時に指揮できた1回好機生かすことができなかった。また機動部隊艦載機86%を失う結果となった指揮下の第二航空戦隊参謀として参加した奥宮正武は、米空母一隻沈められずに(マリアナ沖とレイテ沖で)大小空母七隻がやられた責任大半小沢にあり、敗北後小沢司令部は高級参謀が「勝敗時の運」と話していたと語っている。また、積極性格角田覚治機動部隊指揮をとり、緻密肌の小沢基地航空隊指揮した方が、双方にとって適性だったと述べている。 10月13日台湾沖航空戦参加10月24日レイテ沖海戦参加日本機動部隊はすでにその航空能力搭載機)の過半失っていたため、第三艦隊は囮部隊としてウィリアム・ハルゼー機動艦隊引き付ける役割担った空母機動部隊による牽制策は夏には作成始まっていた捷号作戦想定していたことだったが、囮とする発想強調されたのは台湾沖航空戦の後、連合艦隊司令長官豊田副武発案によって取り入れられた。 しかし、米側の主力機動部隊である第3艦隊第38任務部隊が囮の第三艦隊ではなく主力栗田健男中将率い第一遊撃部隊先に発見して航空攻撃加え第三艦隊10月24日午後まで発見しなかった。このため第一遊撃部隊戦艦武蔵」を航空攻撃で失うなど大きな損害出し10月24日牽制作戦航空攻撃)は徒労終わった。だが小沢第三艦隊から発進した攻撃隊が米軍機部隊大きな損害与えたとして、戦艦日向」「伊勢」を突出させ、残敵掃討するよう命じたこの前艦隊は、翌日空襲を受ける直前空母部隊合流した。翌10月25日には米第3艦隊目を引き付けたものの、適切な通信連絡すら齟齬を来たす程の航空攻撃により旗艦瑞鶴」は早々に作戦能力喪失し旗艦設備整った軽巡洋艦大淀」に司令部移乗する事態陥った第三艦隊司令部収容した大淀」の戦闘詳報には連合艦隊司令部杜撰な指導対す批判もあるが、一方で正規空母群に対す牽制誘致努めるべき時機、期間、すなわち、第一遊撃部隊に対して自在航空攻撃許さないのはいつからいつまであるべきかという観念欠いていたと小沢指揮への批判もある。レイテ沖海戦について海戦計画精緻さと頓挫について聞かれた際「あの場合処置としては他に方法がなかった」という。 10月25日から特攻作戦開始され小沢指揮下からも特攻隊編成され出撃している。小沢部隊では、701空一部特攻部隊抽出、また634空一部梅花隊を編成し特攻させている。

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