竹本綱太夫系初代とは? わかりやすく解説

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竹本綱太夫系初代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/05 14:51 UTC 版)

竹本対馬太夫」の記事における「竹本綱太夫系初代」の解説

生没年不詳竹本太夫七代目竹本紋太夫竹本綱戸(登)太夫七代目竹本紋太夫竹本綱戸(登)太夫初代竹本津島対馬太夫五代目竹本綱太夫 本名大坂喜兵衛屋号加賀屋越中富山出身四代目竹本綱太夫門弟天保3年1832年4月いなり境内文楽芝居彦山権現誓助剱』の「大序 奥」を語り竹本太夫として初出座。その後天保6年1835年)頃まで出座続けたが、淡路座への出勤のため、上方を後にしている。天保11年1840年帰阪し、同年正月 大坂稲荷社東芝居『契情小倉色紙』に竹本綱戸太夫として出座し、「鳴戸の段 次」「箱崎松原の段」を語っている。 綱戸(登)太夫襲名時期は明らかではないが、同年3月刊行見立番付三ヶ津太夫三味線人形見立角力」に「東前頭 京 太夫 竹本登太夫」と記されていることから、遅くとも天保11年には綱戸(登)太夫名乗っていたことがわかる。 しかし、同年正月刊行見立番付三都太夫三味線人形見競鑑」に西前大坂 太夫竹本紋太夫記されており、太夫から竹本紋太夫襲名したことがわかる。一方前述通り3月刊行見立番付では太夫から綱登太夫とあることから、太夫紋太夫襲名認められていない。これは、江戸六代目紋太夫存命であったためであり、太夫は、紋太夫諦め、綱登(戸)太夫名乗った。この綱戸(登)太夫の名前は、前述正月刊行見立番付では惣(総)後見筆頭に「大阪 竹本綱戸太夫」と記されており、『義太夫年表近世篇』では出座番付を見つけることが出来ないが、よほどの重鎮であった推察され、紋太夫諦めた太夫に綱戸太夫名跡譲ったものと思われる[誰によって?]。竹本紋太夫三代目竹本綱太夫の前名であり、綱登太夫も「綱太夫登る太夫」と読めることから、強く竹本綱太夫への襲名意欲燃やしていたもの推察される(竹本濱太夫から竹本紋太夫三代目太夫と同じ改名歴誇った六代目紋太夫へのライバル意識考えられる)[誰によって?]。 天保12年1841年9月刊行の「三都太夫三味線人形改名附録」には「太夫竹本綱戸太夫」と記されており、紋太夫襲名なかったことになっているが、綱太夫家所縁の竹本紋太夫名跡への思い断ちたかった見え天保13年1842年8月大坂 北ノ新地芝居にて『播州皿屋敷』「鉄山屋敷の段」を竹本紋太夫として語り七代目竹本紋太夫襲名を再び強行した江戸六代目紋太夫は、同年江戸 薩摩7月29初日8月4日初日とする史料あり)『菅原伝授手習鑑』「車争ひのだん 松王丸」「天拝山の段」を語っており、大坂江戸紋太夫並立した。綱戸太夫紋太夫9月同座の『菅原伝授手習鑑』「寺子屋の段」、『伊賀越道中双六』「岡崎の段」を紋太夫として語っているが、同じく江戸紋太夫9月同座『仮名手本忠臣蔵』十段目を語っている。この並立いつまで続いたのかは詳らかではないが、翌天保14年1843年3月以前刊行見立番付三ヶ津太夫三味線大見相撲』「西前江戸 竹本紋太夫」「西前大坂 竹本綱戸太夫」と記されており、今回紋太夫襲名認められることはなかった。 しかし、同年5月四条北芝居木下蔭狭間合戦』「矢はぎの段 奥」を江戸登り 竹本津島太夫として語っていることから、紋太夫襲名強行した綱戸太夫は、江戸下り江戸紋太夫六代目紋太夫)と紋太夫名跡についての話を付け竹本津島太夫と名を改めた推察される[誰によって?]。 同年3月刊行三都太夫三味線人形改名附録』に「太夫事 綱戸太夫竹本津島太夫」とあり、紋太夫はなく、綱戸太夫から初代竹本津島対馬太夫ということ問題決着見たものと思われる。しかし、続く紋太夫は、五代目太夫門弟から出ていることから、江戸紋太夫との間で、紋太夫名跡上方に戻すという約束があったとも考えられる[誰によって?]。 また、嘉永元年1848年8月刊行次第不同 三都太夫三味線改名録」に「太夫 綱戸太夫 加太竹本津島太夫 加賀や」とあり、綱戸太夫から加太夫を経て津島太夫名乗った史料もあるが、天保14年1843年3月以後刊行見立番付三ヶ津太夫三味線人形大見立』に「東前竹本加太夫」「東前竹本綱戸太夫」と加太夫と綱戸太夫同時に記載され同年津島太夫名乗っていることからも、竹本加太夫を名乗ったとは考えづらく、唯一可能性があるとすれば津島太夫として大坂登る前に江戸で綱戸太夫から加太夫を名乗りその後津島太夫と名を改めた場合であるが、前述通り見立番付に「綱戸太夫竹本津島太夫」と記載がある。 竹本津島太夫竹本対馬太夫表記にゆらぎがあり、『義太夫年表近世篇』によれば、どちらの名前も番付確認できるが、「対馬」が国号であり、国号使用禁止により「津島」とした理由もあるが、紋太夫襲名強行するほど綱太夫家(の名跡)に思い入れがあったと推察され、竹本津太夫竹本津賀太夫のように「津」の字は二代目太夫営んでいた「津國屋」に由来する太夫家にとって大切な文字であることから、津島太夫名乗った考えられる[誰によって?]。また、同時期に四代目竹本染太夫門弟にも竹本対馬太夫がいたため、竹本津島太夫とした可能性もある[要出典]。 弘化2年(1845年)刊行の『浪華太夫三味線町々評判大見立』に西前頭〈早ふ聞に行なされ面白い事じゃ ちゃつと壱岐津島太夫記されている。 弘化5年=嘉永元年1848年刊行見立番付「てんぐ噺」に「古ふても出してみなされ皿屋しき是は御家宝物なり 竹本津島太夫 鶴澤重造」とあり、前述七代目紋太夫襲名強行した天保13年1842年8月大坂 北ノ新地芝居にて語っていた『播州皿屋敷』「鉄山屋敷の段」を当たり役としていた。また、鶴澤重造とあるよう初代鶴澤重造を長く相三味線としていた。この初代重造と対馬太夫の間には、数々エピソード残っている。 二代目太夫場である『花上野誉碑』「志渡寺の段」に「十数馬左右に別れ」という文章があるが、対馬太夫右の方に頭や肩をかたげて語る癖が、一方、重造は左の方に頭や肩をかたげて弾く癖がそれぞれあったことから、二人評し「重造対馬左右にかたげ」と言われた。「祖爺初代重蔵師之永ラク相手方ヲ勤メラレタ事モ有マスコンビ時代面白話題ガ残ツテ有升 地口合ノアンドウニ重蔵對馬左右ニ肩ゲトゲト云フノガ秀逸有リマシタ 由是ハ十八番物ノ花上野誉石碑志渡寺ノ段ノ奥デ 重造数馬両人ガ坊太郎立合ノ文句ニ重造数馬左右ニ別レト云フ文章ガ有リマシテ又對馬大夫師ハ右ノ方ニ頭ヲ肩向ケルクセ又重蔵師ハ左ノ方ニ頭ヲ肩向ケルクセガ有升タノデそこで重造つしまは左右ニかたげ」 また、二代目豊澤團平当時九市)は元々初代鶴澤重造に入門したが、師匠重造は、明治2年1869年五代目竹本綱太夫弾いている際に、綱太夫揉め三味線を下において楽屋飛び込みそれ以来芝居への出勤断り自宅稽古続けていたため、九市は芝居に出ることができなかった。そこで、師匠重造からの手紙を持ち初代豊澤團平ところへ弟子入りしたエピソードがある。 慶応元年1865年9月大坂 天満芝居にて太夫 竹本対馬太夫紋下となり、二代目太夫ゆかりの『箱根霊験躄仇討』「滝の段 切」を語っている。続く同年11月北ノ新地芝居でも紋下座り、こちらも二代目太夫場の『勢州阿漕浦』「平次住家の段」を語っている。翌慶応2年1866年8月座摩社内では「太夫 竹本対馬太夫 豊竹若太夫」と六代目太夫と共に紋下座っている。 津島対馬太夫時代、同じ四代目太夫門弟である五代目太夫人気争い、後に文楽座三味線紋下となる五代目豊澤広助(松葉屋)が時代津島対馬太夫弾いていた。「摂津大掾師之師匠タル五世春太夫ト此對馬太夫人気競走ヲセラレシトノ事デ有升 松葉屋廣助師時代之弾テ居ラレタ太夫サンデ有升」 慶応4年=明治元年1868年7月四条道場北ノ小家近江源氏先陣館』「盛綱陣屋の段」にて対馬太夫五代目竹本綱太夫襲名。翌明治2年1869年)御りやう(御霊芝居3月『仮名手本忠臣蔵』4月五天竺』に「名代 高橋竹造 太夫 竹本綱太夫」として紋下座り出座したが、その後堂上方公家)へ出入りし公家侍となり名を瓜生隼人改めその後西陣辺り風呂屋をしていたと伝わる。 『妹背山婦女庭訓』「妹山背山の段」大判事当り役とし、生涯に6回勤め、内4回は五代目竹本春太夫定高勤めている。 その他にも、綱太夫代々演物である『摂州合邦辻』「合邦内の段」『勢州阿漕浦』「平次住家の段」『伊賀越道中双六』「岡崎の段」『ひらかな盛衰記』「逆櫓の段」を得意とした他、『仮名手本忠臣蔵』山科閑居の段」『近江源氏先陣館』「盛綱陣屋の段」『箱根霊験躄仇討』「滝の段」も度々語っている。 五代目太夫を「盛綱陣屋の段」で襲名した後も、『佐倉曙』「宗五郎内の段」『箱根霊験躄仇討』「滝の段」『五天竺』「長者館の段」『勢州阿漕浦』「平次住家の段」『関取二代鑑』「秋津切腹の段」『本朝廿四孝』「勘助住家の段」『仮名手本忠臣蔵』判官切腹の段」『花上野誉石碑』「志渡寺の段」等、歴代太夫演物紋下太夫相応しい語り物を勤めている。

※この「竹本綱太夫系初代」の解説は、「竹本対馬太夫」の解説の一部です。
「竹本綱太夫系初代」を含む「竹本対馬太夫」の記事については、「竹本対馬太夫」の概要を参照ください。

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