竹本綱太夫系二代目(三代目)
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「竹本対馬太夫」の記事における「竹本綱太夫系二代目(三代目)」の解説
竹本田島太夫 → 竹本塚太夫 → 三代目竹本対馬太夫(津島太夫) 竹本綱太夫系初代対馬太夫の門弟のため、竹本綱太夫系二代目であるが、染太夫系対馬太夫も存在したことから、それぞれを先師とし、三代目竹本対馬太夫を名乗った。 元は五代目竹本内匠太夫(通称:袋安)の門弟で、初代竹本田島太夫を名乗る。 嘉永2年(1849年)4月改正『三都太夫三味線人形見競鑑』の東前頭に「竹本田島太夫」の名がある。また、嘉永3年(1850年)正月大坂 新築地清水町浜(文楽の芝居)『妹背山婦女庭訓』「小松原の段」を語る竹本田島太夫がいる。この芝居には後に師匠となる初代対馬太夫(五代目綱太夫)も一座している。 『増補浄瑠璃大系図』では師匠五代目内匠太夫が安政3年(1856)に没した後、竹本綱太夫系初代竹本対馬太夫の門弟となり、竹本塚太夫と改名したとなっているが、嘉永5年(1852年)4月清水町浜『みどり浄瑠璃』で「妹背山 四ノ中」を語る竹本塚太夫が確認できることから、既にこの当時塚太夫を名乗っていたことがわかる。 当時「文楽の芝居」の紋下を勤めていた祖父師匠の四代目綱太夫、師匠の初代対馬太夫(五代目竹本綱太夫)らの一座に出座。以降も、師匠の初代対馬太夫(五代目竹本綱太夫)に従っている。 明治2年(1869年)3月御霊芝居 太夫竹本綱太夫『仮名手本忠臣蔵』「六段目 勘平住家の段 切」を語り、竹本塚太夫改三代目竹本対馬太夫を襲名。師の前名を襲った。 明治38年(1905年)8月死去。戒名:聚徳顯道信士。墓所は千日前の三津寺墓地(松林庵)。
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